階段の奥深くに、ひっそりとその部屋はあった。
 扉はなかった。
 空間の境界が、自然に切れているだけだった。
 内部は暗く、魔法灯の反応もない。
 ただ、空気の質がわずかに変わっていた。
 足元にまとわりつく魔力の感触に、シルビアは眉をひそめる。

「ふむ? なんの魔力かえ」

 一拍の沈黙の後、ぐふっと鼻を鳴らして、にやりと笑う。

「まあ、よい。目的はすぐそこじゃ。隠しおって、どこに置いたのじゃ」

 そう言いながら足を踏み入れると、ひと呼吸のあと、すぐに棚を探り始めた。
 布に包まれた箱、分類されぬ古い魔道具。
 彼女の手は、一気に探査のテンポを上げていく。
 スラがハクの背から身を乗り出し、きょろきょろとあたりを見回してつぶやいた。

〈……ここ、ちょっと、ちがう。なんか、におい、しなくなった〉

 スラのつぶやきを受けて、ハクが低く声を出す。

〈ここの空気、魔力の流れが変。誰かに遮断されてる。シルビア、出た方がいい〉

 シルビアは棚を漁る手を止めて、背後に視線を向けた。

「まだダメじゃ!」

 布包みの端を指先で弾きながら、苛立ちを滲ませる。

「あやつ、フラウが『ジークベルトに近づけちゃ危険よ!』と言っておった! それをヴィリバルトが『ジークが判断することだよ』と、フラウを窘めておったのじゃ!」

 奥から引き抜いた小さな箱を乱暴に開けながら、シルビアは語気を強める。

「フラウ自身が『むう。わかってるわ! 黒い剣……。でも私が見つけたんだから、一旦保管庫で厳重に管理して』って言ったのじゃ。妾はそれを、確認しに来たまでじゃ!」

 その瞬間、ヘルプ機能の警告が響いた。

《駄犬、直ちにそこから退避してください》

 シルビアの手元で、布包みがかさりと動いた。
 黒い塊が、静かに転がり出る。
 バッジほどの大きさ。
 だが、その形は不定形で、光を吸い込むような漆黒だった。
 ハクが目を細める。

〈これ、ただの魔道具じゃない。魔力が……空間の外へ漏れてる!〉

 室内の温度が、わずかに下がる。
 空気の流れが止まり、魔力のざらつきが肌にまとわりついた。
 スラがくるりと身を縮める。

〈きけん!〉
《駄犬、魔力遮断進行中です。直ちにその物から離れてください》

 黒い塊がぴくりと動き、周囲からゆっくりと魔力が巻き起こった。
 重たい魔力の波が空間を揺らし、棚の魔道具を鈍く鳴らした。
 シルビアは塊を見つめたまま、息をひとつ吐いた。

「……これは、まずいのじゃ」

 黒い塊の魔力が空間に満ちたその瞬間、圧が一気に跳ね上がった。
 空気は重く、身体の自由がじわじわと奪われていく。
 声も、魔力も、外に出ない。
 ハクが小さく息を漏らした。

〈……動けない。魔力が押し返されてる……〉

 シルビアは塊に手を伸ばそうとして、肩を震わせる。

「これは魔力に近しいが、神力じゃ……今の妾の、力では……」
〈ヘルプ機能! 聞こえてるか!〉

 ハクが叫ぶように呼びかけるも、応答はなかった。
 室内は沈黙し、空間そのものが外界との接続を拒んでいた。
 スラがぎゅっと身を縮める。
 重たい空気が、念話すら押し返そうとしていた。
 それでもスラは、わずかな隙を縫うように、念話を放つ。

〈スニ、スミ、たすけて! 主、たすけて!〉


 ***


 アーベル侯爵家の敷地内、玄関前の馬車寄せ。
 午後の陽が中空にあり、空気にはまだ穏やかな熱が残っていた。
 一台の馬車が、静かに出発の準備を整えている。
 その乗り口に、ユリウスが手をかけた。
 長い金髪が、風に揺れてなびく。所作は無駄がなく、動きに迷いはない。
 その肩には、小さな影、護衛のスミが乗っていた。
 スミはじっと周囲を見渡しながら、ユリウスの動きに合わせて微かに揺れる。

 スミもまた、スラの魔力から生まれた分裂体のひとつ。
 魔契約の主であるジークベルトから離れ、現在は王太子殿下直属の護衛として任務に就いている。
 その配属経緯は公にされておらず、殿下自身が語ることもない。

 ちょうどその瞬間、スラから飛ばされた念話が届く。

〈スミ……たすけて……し……〉

 スミの緑色の表面がぷるんと揺れた。

「プッ! 〈スラ、たすけて? 誰を?〉」
〈……シ……シル……たすけ……〉

 途切れ途切れの念話は、なにかの影響を受けていて、言葉の輪郭が曖昧だった。
 スミは一瞬考え、こともなげに返す。

「プッ〈了解。シルビア、たすけて〉」

 わずかの沈黙のあと、スミの体が一度だけ明滅した。

「なにかあったのか?」

 ユリウスが肩越しに問いかける。

「プッ! 〈解決済み!〉」

 スミは明るく跳ね返す。
 だが、その声色に、どこかずれた空気が混ざっていた。