最終授業の途中、俺の思考を遮るように、ヘルプ機能の報告が割り込んできた。

《ご主人様、駄犬より緊急事態発生の通知がありました。保管庫にて異常事態が発生した可能性があります。駄犬たちの動向を監視しておりましたが、保管庫に入った直後より映像・音声ともに取得不能となりました。なんらかの遮断干渉が発生したものと思われます。現在、駄犬、ハク、スラの所在は確認できておりません。直接の要請は『助けて』とのことです》

 ああ、やっぱり。
 今朝から、嫌な予感はしていたけど、まさか本当に起きるとは……。
 俺の直感って、こういうときに限って外れない。
 まあ、ただの勘じゃなく、『直感』のスキルなんだけどね。
 気づけばスキルレベルは5。いつの間にか上級の域に入っていた。

《直感スキルの成長要因は、ご主人様の称号『苦労人』の影響によるものと推測されます。称号の効果により、直感スキルは望ましくない事象への感知精度が高くなっており、それらを繰り返し回避されたことで、スキル経験値が蓄積されたものと思われます》

 ……それもう直感っていうより、災難予報だよね。

《ご主人様、ぼやいているところ失礼します。駄犬たちを助けに行かなくてもよろしいのですか? 念のため申し上げますが、駄犬を心配しているわけではございません。ハクとスラの安否が懸念されます》

 あっ、そうだった。
 邸内のことだし、外よりは安全だと思ってのんきにしてた。
 ヴィリー叔父さんが張った強力な結界が敷地全体を覆っている限り、めったなことは起きないはず……。
 なんだけど、シルビアが『助けて』なんて言うのは、そうそうあることじゃない。

「先生!」
「どうしたのかね、アーベル君」
「体調がすぐれませんので、家に帰らせていただきたいです」
「そっ、それは大変だ! すぐに帰りたまえ!」
「ありがとうございます」

 温厚なライナー教授で助かった。
 これがウーリッヒ教授だったら、すんなりとは帰してもらえない。
 きっと尋問に次ぐ尋問で、授業が終わる頃になって、ようやく解放されるか……いや、それすら怪しい。

 隣のディアーナたちに視線を送ると、彼女はこちらを見返して、小さくうなずいた。
 目が合っただけで察してくれるあたり、さすが俺の婚約者だ。

 教室の空気を乱すことなく、静かに席を立ち、そのまま扉へ向かう。
 帰りの馬車での言い訳も、彼女たちがうまく取り繕ってくれるだろう。
 扉を抜けて廊下へ出ると、俺は人目を避けて裏手の中庭へと回り込んだ。
 生徒の気配がないのを確認して、そっと移動魔法を展開する。

 空間が揺れた次の瞬間には、保管庫の前に立っていた。


 ***


 今朝、アーベル侯爵家では保管庫の整理が予定されていた。
 ある出来事をきっかけに、保管庫にはヴィリバルトの結界が幾重にも張られ、許可された者以外は立ち入れない重警備区域となっている。
 だが今日だけは、整理作業の都合で、その結界の一部が緩んでいた。
 神獣としての力を取り戻しつつあるシルビアにとっては、またとない好機だった。

〈シルビア、どこに行くの?〉

 ハクが声をかけると、彼女はにんまりと口元を緩めた。

「行けばわかるのじゃ! ジークベルトがきっと喜ぶのじゃ、のう、ヘルプ機能?」
《ご主人様が喜ぶかどうかの判断は、状況に依存します。目的地は保管庫ですね?》
「察しがよいのう。盗み聞きしておったのじゃな。で、ヘルプ機能はどう思う?」
《盗み聞きとは言葉の選び方が不適切かと。……まあ駄犬にしては、勘が冴えていますね。確かに黒い剣と所縁のあるものだと推測されます》
「そうじゃろ、妾もそう思ったのじゃ」
〈黒い剣? ジークベルトが使用している剣のこと?〉

 ハクが首を傾ける背の上で、スラはオークの肉を頬張りながら、もふもふの毛並みに顔をうずめていた。

「そうじゃ!」

 シルビアは満足げにうなずき、くるりと踵を返すと、先頭に立って歩き出した。

「ささ、妾に続くのじゃ! 保管庫へ急ぐのじゃ!」

 ハクは一瞬だけ足を止め、微かに身を縮めると、ためらいがちにシルビアのあとを追った。
 スラはハクの背中の上で、肉片を頬張りながらも、〈肉……まだある?〉とつぶやいていた。

 屋敷の敷地奥、保管庫の扉の前。
 通常なら、幾重もの魔力の膜が張り巡らされ、立ち入ることさえ困難な重警備区域。
 だが今日は、重層の張力がわずかにほどけ、抵抗の圧が緩んでいた。
 ハクは鼻先を動かし、空気の匂いを確かめる。

〈……膜の具合が、いつもと違う気がする〉
「心配性じゃのう。整理日の仕様じゃ……。ふむ。通れるのじゃ。運がよいのう」

 シルビアが結界の縁にそっと触れると、膜は音もなく開いた。
 魔力の縁が波紋のように揺れ、スラがぴょんっと跳ねて通り抜ける。

〈やわらかーい〉

 ハクは一度、地面に視線を落としたが、すぐにふたりの後を追った。
 そして三人は、暗がりの中へと足を踏み入れた。

 保管庫の内部は、想像以上に広かった。
 部屋に入るたび、魔法灯がぽっと灯る。明かりはやわらかく、温度もない。
 棚はどれも手入れが行き届いていて、物品も整然と並んでいた。

「ふむ、ここでもないのう」

 シルビアは足を止め、静かに視線を巡らせた。
 棚には申請書類や、用途別に分類された魔道具が並んでいる。
 どれも名目付きの保管物ばかりだ。
 そのとき、スラがふとハクの背中から身を乗り出した。

〈あっち、においする。なにか……ある!〉

 もぞもぞと滑るように下りると、壁際の隙間へと顔をのぞかせる。

「ほほぅ、よき嗅覚じゃ。買収した甲斐があったのう。よいぞ、スラ! もっと貢献せい!」

 シルビアがスラの方へ向かうと、壁の一部が微かに凹んでいた。
 魔力の感知では拾えないほどの、わずかな段差。
 手をかけて引くと、内部から冷たい空気が漏れ出す。
 冷気の奥から、隠された階段が現れた。

「見つけたのじゃ!」

 シルビアが嬉々として声を上げる。
 だが、魔法灯は反応しない。
 階段の入口は、暗がりのまま、ぽっかりと口を開けていた。
 空気は地上とは違い、冷たく、湿り気を含んでいる。
 それは、長いあいだ誰にも触れられていなかった空間の匂いだった。

「ふむ、よき空気……。妾の目的地に間違いなかろう。隠しおって」

 シルビアは鼻息を荒くしながら、階段を降りていく。
 あとを追うように、ハクが一歩踏み出した。
 その足元に、蜘蛛の糸が絡む。
 スラはハクの背の上で、小さく体を動かしながらつぶやく。

〈におい、する。……肉じゃない。もっと……ふるい〉

 ハクはちらりと背後を振り返る。
 保管庫の部屋には、整理された棚と、魔法灯の残光だけが残っていた。
 階段の入口とは、まるで別世界のようだった。