叔父が持ってきた大きな布の中から、微かに人の呻き声のような音が漏れ聞こえてきた。
 不審に思った俺は袋の中を覗こうとしたが、叔父が慌てた声で静止した。

「あっ、ジーク、それはっ」

 袋の中には、あられもない姿のシルビアが、大きないびきをかきながら無防備に横たわっていた。
 彼女の髪は乱れ、その顔には疲れの色が濃く浮かんでいる。
 俺はシルビアの状態に驚きつつも、そっと袋を締め、叔父に向かって鋭い視線を投げかけた。

「ヴィリー叔父さん」
「いや、ちょっと、想定外の出来事が起こったんだ」

 叔父が頬をかきながら困惑した表情で弁明していると、シルビアが目覚めたようで、袋からぼんやりと頭を出した。

「ヴィリバルト、ひどいのじゃ! せめて服くらい着せるのじゃ!」

 シルビアは怒りに満ちた声で抗議し、乱れた髪をかき上げた。
 彼女は叔父に抗議の声をあげた後、俺の姿を見つけて目を丸くした。

「おぬしいたのかえ? いつからそこに?」

 シルビアは驚きのあまり、袋の中で身を起こそうとしたが、バランスを崩して再び倒れ込んだ。
 俺は魔法袋からシルビアの着替えを取り出し、無言で彼女に手渡した。
 シルビアは一瞬きょとんとしたが、すぐに感謝の表情を浮かべて受け取った。
「助かったのじゃ」と小さな声でつぶやき、急いで着替え始めた。


 ***


 ふと、エマが落ち着きなく周囲を見回しているのに気づいた。
 彼女の顔には不安の色が浮かび、目には涙がたまっていた。
 手が震え、足元は不安定に揺れ「お母さん?」と微かな声でつぶやいている。
 エマが叔父の手のひらにあるクリスタルの容器を見つけると、彼女の表情が急に変わった。
 目を大きく見開き、期待と疑念が入り交じったその顔には、切実な思いがあふれていた。
 彼女の唇が微かに震え、その瞳はクリスタルに焦点を定めたまま動かなかった。

「お母さん……」

 エマが呼びかけると、その声に呼応するようにクリスタルが突然輝き始めた。
 光はしだいに強まり、玉座の間全体を青白く照らし出した。

「まずいっ」

 叔父は焦った様子で低くつぶやくと、すぐにクリスタルの容器に大量の魔力を注ぎ込んだ。
 クリスタルから放たれるエネルギーと叔父の魔力が衝突し合い、玉座の間が揺れるほどの光と音が広がった。
 なにが起きているのかわからないが、叔父の険しい表情からただならぬ事態であることは明らかだった。
 叔父の魔力がクリスタルに浸透し、青白い光は徐々に弱まっていった。
 その時、ユリアーナが消えた場所に大きな闇の玉が出現した。
 闇の玉は黒く、不気味な存在感を持ち、周囲の光を奪って玉座の間全体を暗くしていた。
 その中心からユリアーナが姿を現すと、闇の玉は忽然と消滅した。

「うふふ、油断しちゃった」

 ユリアーナは手につけた腕輪をなで、冷たい微笑を浮かべながら俺たちを見据えた。

「赤の魔術師は動けないようね」

 ユリアーナの指摘の通り、叔父はクリスタルを制御するのに全力を尽くしていた。
 額から汗が滝のように流れ、その顔は苦痛にゆがんでいた。手は震え、全身が緊張で硬直している。叔父の呼吸は荒く、その疲労と苦闘が如実に現れていた。
 強大な魔力を持つ叔父が、これほどまでに疲弊している姿を見るのは初めてだった。その異常な光景に、俺は息をのんだ。

《申し訳ございません、ご主人様。クリスタルの容器を調査しましたが、現時点の私の解析能力では解明できません》

 ヘルプ機能の報告に、俺は肩を落とした。
 失望と焦燥感が胸を締めつけ、どうすればいいのか分からないまま、視線をさまよわせた。
 クリスタルの謎が解けない。つまり叔父の手助けをすることができない。
 状況は悪化の一途をたどり、絶望感が押し寄せてくる。
 そんな中、ユリアーナが静かに口を開いた。

「エマに共鳴しているのね」

 その言葉に俺の心臓が跳ね上がった。
 エマの名をユリアーナの口から聞くこと自体が予期しない事態だった。
 頭が真っ白になり、思わず彼女の顔を凝視した。
 すると、ユリアーナの腕輪がほのかに光り始めた。
 淡い青い光が腕輪の宝石から放たれ、彼女の手首を優しく包み込むように輝く。
 その光は生きているかのように脈動し、周囲の空気が微かに震えるのを感じた。

「ユリアーナお姉様は、なにをご存じなんですか?」

 ディアーナの声には強い疑念がこめられていた。
 彼女の目はユリアーナを鋭く見据え、真実を求める強い意志がはっきりと映し出されていた。
 ユリアーナは目を細め、口元に軽く笑みを浮かべた。
 その表情はまるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。

「いいわ。教えてあげる。その中には、たくさんの魂があったの。光の精霊の魂と……、エマの母親の魂もあったのよ」

 ユリアーナの言葉に、場の空気が一瞬で凍りついた。
 ディアーナの目が驚愕と怒りで見開かれ、拳を握り締めた。

「どういうことですか!」
「どうもこうも、私が殺して、その魂を私の糧としたのよ」

 ユリアーナは腕輪を愛おしそうになでると、淡い青い光がまるでその言葉に応えるかのように強く輝いた。

「皮肉なものね。私が取り逃がした獲物をディアーナが拾うなんて」

 ユリアーナはディアーナを鋭く睨みつけた。
 ディアーナはその視線にたじろいだが、すぐに強い意志を取り戻し、ユリアーナを睨み返した。
 緊張感が場を支配する中、俺の目に映ったのはエマの震える手だった。
 彼女は口を押さえながら、一歩後ずさる。
 ユリアーナの言葉が脳裏にこびりつき、信じられない現実に動揺しているのが見て取れた。
 エマは震える声で問いかけた。

「ユリアーナ様が、私のお母さんを殺したの?」
「うふふ、今頃そんなことに気づくなんて、遅すぎるわ。本来ならエマ、あなたも私の糧となる運命だったのに」

 ユリアーナは冷酷な笑みを浮かべ、腕輪の光に目を落とした。
 エマは激しく頭を振り、涙を滲ませながら声を震わせて反論した。

「嘘です。お母さんは二年前に病気で亡くなったんです。私はその最期を看取りました」
「本当に?」

 ユリアーナは目を見開き、エマに一歩詰め寄った。
 鋭い視線でエマを射抜くように見つめる姿は、エマの心の奥底をえぐり出すかのようだった。
 エマはその圧力に怯え、後ずさりしながらも必死に反論しようとしたが、声が震え、言葉がうまく出てこない。

「よく思い出して。あなたはどうやって王都にたどり着いたの?」

 その瞬間、ユリアーナの腕輪から青い光が放たれ、光の精霊が姿を現した。
 小さな人型の精霊は優雅に空中を漂い、エマに近づくと彼女の周囲をゆっくりと旋回し始めた。
 精霊の光はやわらかくも圧倒的で、その光はエマの顔に影を落とし、彼女の表情を青白く照らし出した。
 エマはその光に包まれ、驚きと恐怖で体が硬直し、動けなくなった。

「えっ、あっ、ああああ!」

 エマは突然、凄まじい声をあげて絶叫した。
 エマの全身は震え、目からあふれた涙が頬を伝い、次々と滴り落ちていった。
 虚脱感に襲われ、全身の力が抜けた彼女はその場に崩れ込んだ。
 静かに「お母さん」とつぶやく彼女の声は、消え入りそうなほど微かだった。
 エマの瞳には絶望が浮かび、後悔と懺悔が深く刻まれていた。

「思い出したようね」

 ユリアーナがエマの苦痛を楽しむかのように、その瞳をじっと見つめた。

「目の前で母親が殺されるのを隠れて見ていたんでしょ。光の精霊があなたを守り、記憶を改竄したのよね」
「どうして、あなたがそれを知っているのですか!」

 エマは涙を頬に流しながらも、怒りに満ちた目でユリアーナを睨みつけた。
 彼女の拳は震え、爪が手のひらに食い込むほど強く握りしめられている。

「だって、あなたの前にいる光の精霊がその精霊だから。もうすでに死んでいるんだけどね」

 ユリアーナは嘲笑を浮かべながら、冷たく言い放った。
 エマの前に漂う人型の光の精霊は、青い光を放ちながら虚ろな瞳でなにも見つめていない。

「ユリアーナお姉様、もうやめて!」

 ディアーナの怒りと悲しみに満ちた声がその場に響き渡った。
 ディアーナはエマのもとへ駆け寄り、その前に立ちはだかって守る姿勢を見せる。
 彼女の目には涙が浮かび、姉の残酷な仕打ちに対する怒りと悲しみが交錯していた。
 ユリアーナは無表情でディアーナを一瞥し、冷笑を浮かべながらエマに向き直った。

「ねえ、エマ。あなたが仕えていた姫様の姉が、あなたの母親を殺したのよ。今、どんな気持ち?」

 エマはその言葉に息をのみ、再び涙が頬を伝った。
 彼女はディアーナの視線に耐えられず、目を伏せ、肩を震わせた。
 ディアーナはその反応に傷ついたように顔をしかめたが、それでもエマの顔を見つめ続けた。
 ユリアーナはふたりの様子を満足げに見守りながら、口角を上げた。

「おぬしは、おしゃべりじゃのう」

 突然背後から聞こえた声に反応して、ユリアーナはゆっくりと振り返った。

「あら、あなたは誰?」
「妾はシルビア、神獣じゃ!」

 シルビアは一歩前に出て、胸を張って答えると、ユリアーナは驚いたように目を細めた。

「そう、あなたが神獣……」

 ユリアーナはシルビアの全身をじっくりと見つめ、頭をゆっくりと横に振りながらため息をついた。

「期待外れね。いらないわ」
「ひどいのじゃ! 今日の妾はひと味違うのじゃ! 見ておれ!」

 シルビアはユリアーナに向けて手のひらをかざし、力をこめて叫んだ。
 しかし、周囲の空気は静まり返ったままだった。
 彼女の手のひらからはなんの光も放たれず、風も動かない。
 シルビアの顔には焦りの色が浮かび、再び力をこめて叫んだが、なにも起きなかった。

「なっ、なぜ神力が使えん! なぜじゃ!」

 シルビアは目を丸くして、その場で地団駄を踏んだ。
 彼女の顔は怒りで赤く染まり、足を何度も強く踏み鳴らすたびに床に小さな埃が舞い上がった。
 俺はその様子を見て、内心で苦笑した。
 なぜもなにも、初めから神力なんて使えないよね。

《そっ、そうですね》

 ヘルプ機能? どうして、言いよどむの?

《私はなにも知りません》

 すると突然、周囲に大きな魔力の波動が広がり、空気が震えた。
 俺はその異変に気づき、即座に身構えた。

「うるさい神獣は消えなさい」

 ユリアーナの苛立った声が玉座の間に鋭く響き渡った。
 彼女の腕輪からは、闇と光、ふたつの線が交わるように螺旋を描きながら動きだし、混合魔法が形成された。
 螺旋はしだいに大きな闇と光の渦となり、玉座の間を震わせるほどの魔力を放っていた。
 ユリアーナは腕を振りかざし、その魔法をシルビアに向けて放った。
 闇と光の渦が彼女に向かって一直線に飛んでいく。
 混合魔法がシルビアを襲う直前、叔父の『守り』が発動し、薄い光の盾が彼女を包んだ。
 光の盾は瞬く間にシルビアを覆い、魔法の衝撃を和らげた。
 しかし、その『守り』だけでは完全には防ぎきれず、シルビアは魔法の余波で壁に吹き飛ばされた。
 壁に激突する音が響き渡り、瓦礫が宙を舞う。

「シルビア!」

 俺の声は焦りと怒りで震えた。
 シルビアが壁に激突するのを見て、心臓が凍るような感覚に襲われた。
 全身に冷や汗が流れ、息が詰まる。
 崩れ落ちた瓦礫の中から、シルビアが苦痛に顔をゆがめながら、必死に息を整えているのが見えた。
 彼女の服は破れ、血が滲んでいた。

「せっかく着替えたのに、またぼろぼろなのじゃ!」

 シルビアは瓦礫をかき分けながら立ち上がり、苦笑いしながら言った。
 その姿を見て、俺は少しだけ安心した。
 シルビアが無事であることを確認し、胸の緊張がわずかに和らいだ。

「この威力じゃダメなのね」

 ユリアーナはシルビアの状態を横目で確認しながら、冷静に魔法の効果と周囲の状況を観察し、分析していた。
 その隙をついて、俺は『守り』を展開し、薄いシールドで全身を包んだ。次に『倍速』を発動させ、瞬時にシルビアのもとに駆け寄った。
 慎重に彼女を抱き上げ、そのままの勢いでディアーナとエマに合図を送り、一緒に急いで叔父のもとへ向かった。