「あれ? そういえば、シルビアは?」

 ジークベルトが急に立ち止まり、周囲を見回した。

「王宮内にはいるよ。ただ彼女にはちょっとしたお願いをしているんだ」
「大丈夫なんですよね?」

 ヴィリバルトは優しくジークベルトの頭をなで、安心させるように微笑んだ。

「ディアーナ様の隠蔽マントをお借りして、姿を隠しているから心配することはないよ」

「そうではなくて……」とジークベルトが言いかけたその時、ディアーナから説明が入った。

「会議に行く直前に、貸し出しの許可を頼まれたんです」

 ジークベルトのつぶやきは、ディアーナの言葉にかき消された。

「また私に相談もなく、叔父様は!」

 テオバルトがこの会話を耳にして、苛立ちを抑えきれず、ヴィリバルトに詰め寄った。

「テオ、落ち着いて。これには深い事情があってね」
「深い事情があったのなら、なおさら私に相談してから動いてください」

 テオバルトは深いため息をつく。彼は冷静さを取り戻したが、まだ不満が残っているようだった。

「そうだね、これからはできる限り相談するよ」

 ヴィリバルトがうなずきながら、テオバルトの肩を軽く叩き微笑んだ。

「相談する気ありませんよね」

 その言葉を聞いて、テオバルトがあきれたように肩を落とした。


 ***

 ──会議の数時間前、パルシュミーデ伯爵家の客室。
 部屋の中央にはふかふかのソファが置かれ、その上でシルビアがくつろいでいた。
 彼女の前には、銀のトレイに盛られた色とりどりのお菓子が並んでいる。
 シルビアは一口サイズのマカロンを手に取り、優雅に口に運んだ。
 甘い香りが部屋に広がり、彼女の顔には満足そうな笑みが浮かんでいる。
 その時、突然ヴィリバルトが現れた。

「シルビアにお願いがあるんだ」

 シルビアは驚きのあまり目を丸くしたが、すぐに平静を装い、「なんじゃえ」と軽く返した。
 口の周りにはお菓子のかすがついており、その姿は少し滑稽だった。
 ヴィリバルトは一瞬だけ笑ったが、すぐに真剣な表情に戻り、シルビアに向かって一歩近づいた。

「君は神獣だから、神族の干渉を受けないだろう」

 その言葉にシルビアは驚き、ソファから転げ落ちた。彼女の長い銀髪がふわりと舞い上がり、床に広がる。

「なっ、ヴィリバルト、なぜ神界の秘密を知っておるのじゃ!」

 シルビアは慌てて立ち上がり、ヴィリバルトを睨みつけた。
 ヴィリバルトは冷静な表情を崩さず、「ちょっとした伝手があってね」と軽く肩をすくめた。
 シルビアは「むぅ」と唇を突き出し、腕を組んで不満そうに彼を見つめる。

「消えた魂の痕跡を探って欲しい」
「なっ!」

 シルビアは再び驚きの声を上げたが、今度はヴィリバルトに向かって一歩踏み出した。

「それは一体どういうことじゃ?」
「おそらく、この件には神族が関わっていると思うんだよ」

 それを聞いたシルビアは慌てて頭を振り、組んでいた腕を解いた。

「無理じゃ! 今の妾は、神力が使えん! 魂の痕跡を追うことなど不可能じゃ!」

 ヴィリバルトの赤い瞳が一瞬黒く濁り、冷たい光を放つ。

「君の力を少しだけ解放する。だから、手伝ってくれるね、シルビア?」

 シルビアは底知れない力の前に体を震わせた。
 心臓が胸を突き破りそうなほど激しく鼓動し、冷や汗が背中を伝った。
 逃げ出したいという衝動が彼女を襲ったが、その場から動くことはできなかった。
 彼の力の前では、逆らうことなど到底できない。彼女はその絶望感に押しつぶされそうだった。
 ヴィリバルトの威圧感に怯えながらも、シルビアはゆっくりとうなずいた。

「探って欲しいのは、光の精霊とハーフエルフの二つの魂だ」
「痕跡を探るには、なにか関連するものが必要じゃ」

 ヴィリバルトは無言で魔法袋から金のリボンを取り出し、シルビアの前に差し出した。

「これは、エマの……」

 シルビアはリボンに微かに残っていたエマの匂いに反応し、目を閉じて深呼吸した。
 その香りはエマの存在を強く感じさせ、彼女の胸を締め付けるような感覚をもたらした。
 悲しみと不安が一気に押し寄せてくる。

「私の予想では、魂を扱える魔道具のようなものがあるはずだ」
「神族ですら魂に干渉することは禁忌じゃぞ。ましてや人族が扱えるとは到底思えん!」

 シルビアの顔は恐怖と疑念で歪んだ。彼女の目は大きく見開かれ、唇は震えている。
 頭を激しく横に振りながらも、その言葉を否定しようとしていた。
 ヴィリバルトは一瞬の沈黙の後、冷静なまま静かに告げた。

「過去にそれができたんだよ」
「なっ、なにを言っておる?」

 シルビアはたじろき、ヴィリバルトを見つめた。

「神の呪いと言えば、わかるだろう?」

 ヴィリバルトの口角が上がり、軽い調子でそれを伝えると、シルビアは信じられない様子で叫んだ。

「それこそ、ありえんのじゃ!」

 彼女の声は震え、手は拳を握りしめていた。
 ヴィリバルトは目を細めて微笑んだ。その笑みは氷のように冷たく、赤い瞳には冷酷な光があった。

「いい機会だから教えてあげる。ジークの母リアは神の呪いで命を落としたんだよ」
「なっ、なんじゃと……」

 シルビアは言葉を失い、青白い顔で、ただただ震えるだけだった。

「頼んだよ、シルビア」

 その言葉を最後に、ヴィリバルトは姿を消した。
 客室には、驚愕と恐怖で固まったシルビアだけが残された。


 ***


「シルビアに頼まなくても、私が代わりに行ったのに!」

 頬をぷっくりと膨らまし、ヴィリバルトの眼前でフラウが強く主張した。
 彼女の大きな緑の瞳は怒りで輝き、小さな拳は震えていた。
 ヴィリバルトは優しく微笑みながら、フラウの目をじっと見つめた。

「だめだよ、フラウ。相手は精霊の魂を操れる可能性があるんだ。君になにかあったら、私は悲しいよ」
「むぅ。それなら仕方ないわね。今回は諦めるわ!」

 フラウは不満そうに唇を尖らせたが、ヴィリバルトの言葉に納得したように肩をすくめた。

「ありがとう、フラウ」
「だけど、無理をしたことには怒っているのよ」

 フラウの指摘にヴィリバルトが腕を組んで首をかしげる。
 その姿にフラウは唇を噛みしめ、鋭く見つめた。

「もう! 今回はなにを犠牲にしたの?」
「なにをかな?」
「とぼけないで! シルビアの神力を少しの間使えるようにしたんでしょう!」

 フラウは全身を大きく揺らし、真剣な表情で問い詰めた。
 ヴィリバルトは一瞬視線を逸らし、困ったように笑った。

「怒るほど、大したものじゃないよ」
「むぅ。だったら言って!」

 フラウの声は震え、目には涙が浮かんでいた。
 ヴィリバルトは一瞬目を伏せた後、静かに答えた。

「私の生命力。百年の寿命かな」
「なっ、なんですって! たいしたことあるじゃない!」

 フラウはムンクの叫びのような顔をして固まった。
 しばらくして我に返ったフラウが、ヴィリバルトの前で両手を重ね、懇願するように見上げる。

「もうその力は安定するまで使っちゃだめよ! 約束して、ヴィリバルト! お願いよ!」

 ヴィリバルトは少し考え込んでから、ため息ついて答えた。

「うーん、それはできない約束かな」
「ヴィリバルト!」

 フラウの非難めいた声が部屋中に響き渡る。

「ジークベルトになにかあれば使ってしまうからね。守れない約束はしないんだ。ごめんね、フラウ」
「むぅ。もう、知らない!」

 フラウは怒りに震えながら、ヴィリバルトの私室から飛び出して行った。
 ひとりになったヴィリバルトは、深いため息をつきながら静かな部屋の中で虚空を見つめ、問いかけた。

「ねぇ、聞いているんだろ? 私は守れない約束はしないんだよ」

 ヴィリバルトは虚空に向かって静かに語りかけた。

「だから、君もそろそろ目覚めたらどうだい?」

  赤い瞳には、不気味な黒い影がかかっていた。