エスタニア国王の死が国民に公表されたのは、国王の死後、十日以上経ってからのことだった。
 死因を未知の感染病による突然の死(・・・・)とし、王陵への埋葬当日に異例の公表をした。
 多くの国民が悲しみにくれる中、慣習から外れた国の対応に疑惑を向けるものもいた。

「トビアス殿下が姿を消してすぐに国王が崩御された。やはり、あいつの言っていたことは本当だったのか」
「どうするんだ、マックス。動くのか?」
「王の死因を巡る真実と、遅れた公表の背後に隠された意図を探る必要がある。あいつとはまだ連絡が取れるか」
「あぁ、大丈夫だ。すぐに手配する」
「頼む。エスタニアに栄光を!」

 雨が降りしきる中、棺桶がゆっくりと王陵に運ばれる様子を、黒い傘を差した参列者たちは頭を垂れながら、静かに見守っていた。
 空から降り注ぐ雨粒は、まるで天からの涙のようで、その一粒一粒が国王の死を悼んでいるかのようだった。


 ***


 時は国王の死去当日に遡る──。
 訃報を耳にした数時間後、俺とディアーナはエスタニア城にいた。
 俺たちの前には、憔悴した様子のマティアス王太子、その横に毅然とした態度をしたユリアーナ王女、彼らとは一線を引いたように少し距離をとったエリーアス王子がいた。

「国葬はできない」

 その言葉は、マティアスの口から静かに、しかし力強く放たれた。

「お兄様、それはなぜですか?」
「父上、いや、国王の遺体はすでに腐敗の兆しが見え始めている。国民に弔問を許す状態ではない」

 マティアスが告げる事実に「なっ」と、ディアーナが言葉を失った。
 険しくも鋭い目を保ったままのマティアスは、重い真実を伝えるため、再び口を開いた。

「宮廷魔術師の診断によると、強い呪いが国王にかかっているようだ。それが腐敗を早めている可能性がある」
「誰がそのようなことを!」

 ディアーナの声は驚きと怒りで震えていた。彼女の目は広がり、金の瞳には信じられないという感情が溢れていた。

「ディアーナ、気持ちはわかるけれど、落ち着きなさい」
「ユリアーナお姉様……」

 ユリアーナとディアーナの間には、言葉以上のものが交わされていた。それは、長い年月を共に過ごした姉妹の間だけに存在する、無言の理解と共感だった。
 ディアーナは言葉をぐっと飲み込み、うつむきながら手を強く握りしめ、口をかたく締めた。その金の瞳は涙で潤んでいた。
 俺はディアーナの隣で、かたく閉じられた彼女の手をそっと握り返した。その瞬間、彼女の手の力が少し緩んだことを感じた。
 しばらくして、ディアーナはゆっくりと顔を上げた。金の瞳は涙で潤んでいたが、一滴も涙を流すことはなかった。
 そして彼女は、静かに頷いた。その小さな動作からは、彼女の内に秘めた強さと決意が感じられた。

「エリーアス兄上は、どうお考えでしょうか?」

 ふたりのやり取りを静かに見守っていたマティアスが、深い声でエリーアスへ問いかけた。彼の目は冷静で、その言葉には重みがあった。
 マティアスの意外な問いかけに、一線を引いていたエリーアスが、ゆっくりと顔を上げ、彼らの方に向き直った。
 エリーアスは一瞬言葉を探し、その間、部屋は一瞬の静寂に包まれた。そして、彼は静かに口を開き、自身の見解を述べた。

「慣習に則り、葬式はする。ただし、国民の弔問などを省き、王陵への埋葬当日に国民へ公表する」
「極秘で葬式を執り行うのね。いい案だと思うわ」

 ユリアーナがエリーアスの考えに同意すると、エリーアスが続ける。

「死因は感染病による病死とする」
「そうね、それなら国民も納得するでしょう。突然の死に対する彼らの混乱や不安を、少しでも軽減することができるわね」

 ユリアーナはそう言いながら、表情を和らげた。しかし、その瞳はエリーアスをじっと見つめ、不安と期待が混ざった複雑な感情を映していた。

「エリーアス、トビアスの処置については、どう考えているの?」

 ユリアーナの問いかけに、部屋の空気が一瞬で凍りついた。

「私が兄上の処置について、何かを決められる立場ではありません。臣下たちの議論の結果を尊重するつもりです」
「そうよね、ごめんなさい。今はその話題を持ち出すべきではなかったわ」

 微妙な空気が漂う中、マティアスがユリアーナに声をかけた。

「姉上、お怪我の具合はどうですか?」
「光の精霊のおかげで、一切の傷跡もないわ」

 ユリアーナが安心させるように微笑むと、マティアスが複雑な表情を浮かべる。

「光の精霊……。やはり姉上は光の精霊と契約をしたのですね」
「あっ、その、契約というか、友情を育んでね。助けてくれたのよ。光の精霊との親密さは決して公にするつもりはなかったの」

 ユリアーナは微かに困惑した表情を浮かべた。
 その場は重苦しい雰囲気に包まれ、ユリアーナが国民たちの間にささやかれている新たな噂を耳にしていることは、彼女の様子から察することができた。
 叔父がにらんだ通り、ユリアーナは光の精霊と深いつながりを持っていた。
 アルベルト兄さんが受けた闇魔法と精霊魔法の混合魔法は、ユリアーナが関与している精霊の魔法なのだろうか。
 そうなると、彼女が真の黒幕?
 だとすれば、このように明らかにするような言葉を紡ぐのか。
 とても不自然に感じる。
 一連の流れを見守っていた俺は、ゆっくりと目を閉じ、握っていた手の先に感じる温もりを深く感じ取ったのだった。



 帰り道の馬車内は、静寂と重苦しさが混ざり合った雰囲気で包まれていた。
 俺とディアーナは、一言も交わすことなく、沈黙を続けながら伯爵家へと戻った。
 王城から戻った俺たちは、すぐに応接間へと向かい、叔父たちに王城での出来事を報告した。

「密葬、それは妥当な判断だね。他にはなにがあった?」

 俺たちの間にただずむ雰囲気を察知した叔父の問いかけに、俺は一度視線を隣にいるディアーナへ移してからその情報を口にした。

「ユリアーナ殿下が、光の精霊との関係を公言しました」
「それは本人が直接言ったのかい?」

 意外そうな顔して叔父が尋ねた。

「はい。マティアス殿下が怪我の具合を聞いて、自然と口に出たようです。ただ……」
「ただ?」
「自然に出てきたように見えましたが、これまで機会がなかったとは思えませんでした」
「なるほど。ジークはそれが少し不自然に見えたんだね」
「はい。意図的に光の精霊との関連性を示唆したように思えました」

 俺が叔父の目を見つめ、はっきりとそう告げると、部屋に緊張が走り、誰かの喉が鳴る音が響いた。
 その緊張を遮るように、エトムントが声を発した。

「ジークベルト殿は、ユリアーナ殿下がこの一連の動きになにか関連性があるとお考えなのですね」
「エトムント殿、これはあくまで僕の主観です。だけど、そう見えたのです。僕が寝ていた二日間で、ユリアーナ殿下は国民の支持を得て、国民を味方につけたように思えます」
「しかし、それは、マティアス殿下の身を守ったため。それにあの方には王位継承権がない」

 エトムントが厳しい視線を送りながら、俺の意見に反論した。
 すると、叔父が「王位継承権ね」と、皮肉混じりの態度でつぶやいた。
 それに反応したエトムントが、不快感を隠そうともせずに、叔父を見る。

「アーベル伯、なにかご不満があるのですか?」
「バルシュミーデ伯もさすがに貴族だなと思いましてね」
「それがなにか」
「私も含め、我々は血筋に固執する。それは魔属性が一つの起因でもあるけどね。だが、エスタニア王家ほど血筋に縛られた王族はいないよ」
「それはどういう意味ですかな」

 ふたりの会話にパルが真剣な表情で割り込んだ。

「言葉の意味のままだよ。パル殿は心当たりがあるのでは?」
「ふむ。王家の秘密ですな」
「ご名答」

 叔父がパルの答えに満足げに頷くと、エトムントが混乱した表情でパルを見て問いかける。

「王家の秘密!? 父上、なにをおっしゃっているのですか」

 その問いかけに答えず、パルが黙って目を閉じた。
 叔父の視線が、俺の隣で静かに息を止めていたディアーナへと移る。

「王家の真実(・・)を伝えてもよろしいですね?」

 叔父の提案にディアーナが、ゆっくりと頷いた──。

「それでは、ディアーナ様が女王になれば!」

 王家の真実に対してエトムントが、自明の如く声を上げた。
 その声は部屋中に響き渡り、一瞬の静寂を生んだ。
 しかし、その静寂はすぐに叔父の冷たい言葉によって一掃された。

「そうなれば、我々は手を引くよ」
「なっ、ヴィリバルト殿!」

 エトムントが、驚きの声を上げた。

「ジークベルトが王配になることはない」

 叔父の断言に、俺は内心安堵する。
 俺の安堵に気づいた叔父が微笑みながら目配せするそばで、彼の眉が上がる。

「おや? ディアーナ様は納得されていないご様子だね」
「私は……」
「ジークから説明を受けたのだろう?」

 叔父の鋭い目がディアーナを見据えた。

「頭では理解しているのです。私が女王になったとしても……」

 ディアーナが言葉を詰まらせ、一瞬だけ彼女の金の瞳が揺れ動いた。
 叔父は彼女の反応を静かに見守っていた。

「君たちは、少し加護に甘えすぎたのかもしれない。エスタニア王国ほどの小国が千年近くも他国から干渉されず、大きな飢餓もなく魔物や魔獣の被害も少ない。これほどの奇跡が続いた国は他に例もない。しかし、永遠は存在しないのだよ。すでに綻びが見え始めている」
「えっ?」
「内乱の兆しだよ」

 叔父の指摘に部屋にいた何人かが息をのんだ。

「過去に王家がいかに横暴でも、エスタニア国民は反感を持たなかった。しかし現状その芽が出始めている。例え、ディアーナ様が女王に即位しても、その綻びはゆるやかに拡大していく。元に戻ることはない。そうだよね、シルビア?」

「うむ。兄上の加護を修復するには、兄上の力が必要じゃが……」

 じっとなにか言いたげな視線を俺に投げかけるシルビアに、俺は曖昧に笑う。

「兄上しかできんのじゃ!」

 シルビアが大声でそう叫んだ。

「「兄上?」」

 パルとエトムントが疑問げに言った。

「あっ、もう一度紹介するよ。彼女は神獣のシルビア。今はジークベルトと一時的な契約をしているんだ」
「「「「神獣!」」」」

 シルビアの正体を知らなかった者たちが、一斉に驚愕の声を上げる。

「なんと、ジークベルト殿は神の使いでしたか」
「私は神の使徒と剣を交えたのか。これは名誉なことだ」
「チビ、また厄介事を……」
「叔父様、また報告を怠っていましたね」

 それぞれの発言が興奮した部屋の空気に溶け込んでいった。
 しばらく、その場は静寂に包まれた。
 神獣の存在、俺の契約、そしてそれぞれの反応。それら全てが部屋の空気を濃密なものにしていた。



「やっと、解放された」
〈大丈夫、ジークベルト?〉
〈主、お疲れ〉

 ハクの毛に顔を埋め、スラの冷たい体を抱きしめながら、俺はベッドに体を落とした。
 応接間での怒涛の質問を適当にかわして、部屋に逃げてきた。

「あー、癒される」
《ご主人様、お疲れのところ、申し訳ございません。ヨハンに移動石を渡した人物が判明しました》
「さすがだね、ヘルプ機能!」
《いいえ、ご主人様。私の能力を考えれば遅すぎる調査結果です。不甲斐なく……》
「仕方ないよ。ヘルプ機能は未だに能力を抑えられているんだからね」
《優しいお言葉……、報告に戻ります。彼の名はマクシミリアン、自称革命家です》
「自称革命家?」
《はい。以前から大衆の前で演説を行っていましたが、ほとんどの人が彼を相手にしませんでした。しかし、ある日を境に彼の演説に賛同する人が増え、今では民衆を扇動する力を持っています》
「それは不可解だね、無属性の魔法か、なにか強力な魔道具を手に入れたのかもしれないね」
《ご主人様の推測通り、マクシミリアンはオリジナル魔法『扇動』を使えます。また、トビアスの配下の者と繋がりがあります》
「なるほど」
《彼は現在、王の死因に対して疑問を呈し、民衆を扇動しています》
「内乱の火種になるよね」
《そうなります》
《実はその賛同者の中に──》
「どうして彼が?」
《おそらく我々の協力者かと思われます》
「ヴィリー叔父さんかな?」
《推測となりますが、おそらく……》


 ***


 エスタニア王国の王都の外れに位置するスラム街。
 そこは『革命の光』の本拠地であった。

「マックス、これだけの同胞が集まった。エスタニアに新しい風を起こそう!」
「まだだ」

 マックスと呼ばれた男、マクシミリアンは病的なほど不健康な顔で否定した。

「我々にはまだ準備が足りない。あの方(・・・)の指示を待たなければならない」

 その言葉に、部屋の中の空気が一瞬で張り詰めた。
 誰もが『あの方』の存在を知っていたが、その名を口にすることはなかった。
 マクシミリアンは続ける。

「あの方が動き出す時が来たら、我々も一斉に行動を開始する。それまでは、各自の任務を遂行し、準備を整えておけ」

 部屋の中に静寂が訪れ、誰もがマクシミリアンの言葉の重みを感じ取っていた。
 彼の指示に従うことが、成功への唯一の道であることを理解していたのだ。
 マクシミリアンはひとりひとりの顔を見渡し、続けた。

「我々は一つの目的のために集まった。エスタニアに新しい風を起こすために。皆の力が必要だ。共に戦おう」

 その言葉に、部屋の中の者たちは一斉にうなずいた。彼らの目には決意の光が宿っていた。
 マクシミリアンはその様子を見て、微かに微笑んだ。

「では、各自の持ち場に戻れ。準備が整い次第、再び集まる」

 人々は静かに立ち上がり、それぞれの任務に向かって散っていった。マクシミリアンはひとり、部屋に残り、窓の外を見つめた。
 遠くに見えるエスタニア城を眺めながら、彼はつぶやいた。

「必ずや、新しい時代を築き、俺を馬鹿にしていたやつらを見返してやる」

 その時、部屋の隅で影が動いた。
 マクシミリアンの復讐心に満ちた表情を密かに見ていた人物がいたのだ。
 影は静かにその場を離れた。


 ***


 数日後の革命の光本拠地。

「お前、伯爵家の次男なんだってな」
「それをどこで」

 左目から右頬に傷がある男が、金髪の青年剣士に声をかけた。

「おいおい怖い顔をするなよ。俺たちは同じ志を持った仲間だろ? それともなにかあるのか?」

 傷の男が鋭い目つきで青年に問いかける。

「ここの連中は、過去のことを詮索しないと聞いた」
「まぁな、お天道様に顔向けできねぇやつが多いけどなぁ。しかし、お貴族様であったのなら話はちげぇよ」

 傷の男は言葉を終えると、突然青年に向かって刃物を振りかざした。
 青年は驚き、反射的に身を引いてその攻撃をかわす。

「なにをする!」

 傷の男はニタニタと厭らしい笑みを浮かべ、青年を挑発するように言った。

「ちょっと面かせや。抵抗するとお綺麗な顔に傷がつくぜ」

 青年は一瞬、反抗しようとしたが、刃物の鋭い光を見て思いとどまった。彼は仕方なく傷の男に従うことにした。

「そうそう、大人しくついてこいよ」

 傷の男に連れられ、青年は薄暗い廊下を進んでいった。
 重厚な扉の前に立ち止まると、傷の男は鍵を取り出し、静かに扉を開けた。
「入れ」と傷の男が命じると、青年は恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。
 部屋の中には、薄暗い明かりの中で三人の人物が待ち構えていた。
 そのうちのひとりが、青年に向かって威厳に満ちた声で話しかけた。

「久しぶりだな、カミル・フォン・シラー」
「トビアス殿下!」

 カミルと呼ばれた青年は目を見開き、驚きの表情を浮かべる。
 まさかここでトビアスに会うとは思ってもみなかったのだ。

「ほぉ、新鮮な反応だな」
「なぜ殿下が、このような場所にっ……」
「言葉を慎め、ディアーナの元護衛騎士、近衛騎士カミル・フォン・シラー」

 トビアスが厳しい声でいさめた。
 その瞬間、傷の男が素早く動き、カミルの腹部に一撃を加えた。
 カミルは「ぐっ」と苦痛の声を漏らし、膝をつく。
 トビアスは冷ややかな目でカミルを見つめ、隣にいるビーカーに声をかけた。

「近衛騎士も元になるのか? ビーカー?」
「まだそのような情報は入っておりません。しかし、シラー家は、マティアス殿下の派閥。その子息が『革命の光』に賛同していたとなれば、問題となるでしょう」
「だそうだが?」
「かまわない。シラー家がどうなろうと、俺は俺の意志でここにいる!」

 トビアスの挑発にカミルは拳を握りしめ、声を震わせながら言った。

「ほぉ、面白い!」

 トビアスはカミルの反応を見て、目を細め、口元に薄い笑みを浮かべた。
 その笑みには、カミルの感情を弄ぶような冷たい光があった。

「殿下、たしかシラー家の嫡男は優秀な人物だと噂されていますが、弟は」
「兄さんは関係ない!」

 カミルはビーカーの言葉を遮るように叫び、目を逸らした。
 その反応に「なるほどな」とトビアスがつぶやいた。彼にはカミルが兄に対する劣等感と嫉妬が見て取れた。
 トビアスはその様子を楽しむかのように、さらにカミルを追い詰めるような視線を送りながら、彼のうしろで待機していた傷の男の名を呼んだ。

「グレンツ」

 傷の男ことグレンツは淡々と状況を説明する。

「この男の帰国後、見張っておりましたが、怪しい動きはなく、我々と行動を共にするのは問題ないかと」
「殺し屋のお前の証言は信用できるな」
「トビアス殿下、彼の処遇はどうされます?」
「ビーカー、俺は復讐心がある者は嫌いではない。命拾いしたな、カミル・フォン・シラー、俺に忠誠を誓え!」

 トビアスがカミルに命じた。その声には王族の権威が宿り、部屋全体に緊張が走った。
 カミルは冷や汗をかきながらも、決意を固めた表情を浮かべていた。
 そんな様子のカミルをトビアスは冷ややかな目で見つめ、まるで彼の運命を決める瞬間を楽しんでいるかのようだった。

「我が剣と命をもって、トビアス殿下に忠誠を誓います」

 カミルは一瞬ためらったが、すぐに膝をつき、頭を垂れた。

「悪くない。お前は俺の手足となれ、そして俺が王となる姿をそばで見せてやろう」

 トビアスは満足げに頷き、冷ややかに微笑んだ。



 エスタニア王国は、国王の死が発表されてから四日後、混乱と不安に包まれていた。
 王宮前の広場には、革命の光の面々を従えたトビアス・フォン・エスタニアが立ち、国民に向けて声明を発表した。

「国民よ、聞いてくれ! 俺はトビアス・フォン・エスタニアだ。今日は、お前たちに真実を伝えなければならない。前国王が亡くなったのは、神獣の怒りを買ったからだ。彼は金の瞳を持つ者が真の王位継承者であるという事実を覆し、その結果、呪いにより命を落とした」

 突然現れたトビアスに国民はざわめき、その内容に困惑と疑念の声が広がった。
 人々は顔を見合わせ、ささやき声が広場を満たした。

「俺たちは長い調査の末にその証拠を掴んだが、王太子であるマティアスに阻止されたのだ。さらに、武道大会で俺がマティアスを襲ったのは、彼の側近から手渡された魔剣に意思を乗っ取られたからだ。俺は無様にも罠に嵌まったのだ」

 トビアスは拳を握りしめ、目に涙を浮かべながら続けた。
 彼の声は震え、国民に向けた訴えは心の底からの叫びのようだった。

「俺は王子として、皆のために戦ってきた。しかし、あの魔剣に操られた瞬間、俺の意志は奪われ、無力だった。俺の過ちを許してくれ。俺は再び立ち上がり、真実を明らかにし、エスタニアを守るために戦う!」

 彼の言葉に国民は静まり返り、トビアスの真摯な姿に心を動かされた。
 彼の熱意と苦悩が伝わり、同情と共感の声が広がっていく。
 すると、トビアスのうしろの控えていた左目から右頬に傷がある男が小型の物を手に掲げた。

「武道大会では何者かによる策略で多数の小型の爆弾が会場内に設置されていたが、我々はそれを解除した」

 国民がそれを見て、驚きと恐怖の表情を浮かべた。
 ざわめきが再び広がり、誰もがその小型の爆弾に目を奪われた。

「見てくれ、これがその証拠だ!」と傷の男は声を張り上げた。

「我々は皆の命を守るために戦っている。トビアス王子は真実を語っているのだ!」

 トビアスは深く息を吸い込み、再び国民に向き直った。

「信じられない者もいると思う。だが俺は、王太子に刃物を向けたにも関わらず、国から容疑者として指名手配されていない」

 国民の間に再びざわめきが広がった。人々は互いに顔を見合わせ、トビアスの言葉の意味を考え始めた。

「これはなにを意味するのか?」とひとりの男が声を上げた。

 トビアスはその声に応えた。

「それは、俺が真実を語っているからだ。王太子マティアスは、俺を罠に嵌めようとしたが、真実を隠しきれなかった。俺は皆のために戦う。エスタニアの未来のために! そして、金の瞳を持つ真の王であるユリアーナ・フォン・エスタニアを王にするために!」
「ユリアーナ殿下が真の王!?」
「あの噂は本当だったのか!」

 ユリアーナの名を挙げた瞬間、国民たちの間に熱気が広がった。
 人々は驚きと興奮の表情を浮かべ、互いにささやき合った。
 広場全体がざわめきに包まれ、期待と希望の声が次第に大きくなっていった。

「ユリアーナ殿下を王に!」と一人の若者が叫び、その声に続いて次々と賛同の声が上がった。トビアスの言葉が国民の心に火をつけ、広場は一体感に満ちていった。

 トビアスはその光景を見つめ、深くうなずいた。

「皆の力を貸してくれ。共にエスタニアの未来を築こう!」

 国民の中から賛同の声が次々と上がり、広場全体がトビアスとユリアーナを支持する声で満たされたのだった。


***


「マティアス王太子殿下、大変です」

 マティアスの側近が慌てた様子で王太子室へ駆け込んできた。息を切らしながら、汗を拭い、事の経緯を説明する。

「トビアス兄上が、国民の前で声明を発表した?」

 マティアスは驚きと苛立ちを隠せず、拳を握りしめ、眉をひそめた。

「私がトビアス兄上を罠に嵌め、ユリアーナ姉上から王太子の座を奪ったなどと、そんなこと、絶対にありえない!」
「しかし、国民の賛同が多く、我々の手には負えません」

 困惑した表情で、目を伏せ、肩をすくめながら、声を震わせてマティアスに言った。
 マティアスはその言葉に一瞬、言葉を失った。
 部屋の中には緊張が漂い、重苦しい沈黙が続いた。
 その時、エリーアスが静かに部屋に入り、マティアスの興奮を抑えるように肩を抱き寄せ、優しく背中を叩いた。

「冷静になるんだ、マティアス。焦ってはいけない。今は冷静に対処する時だ。感情に流されてはいけない」
「エリーアス兄上!」
「兄上の声明を聞いたよ。まるで真実を知っているかのような、馬鹿げた話だ。民衆を煽り正統性を強調しようとしているのはわかる。姉上を真の王だと巻き込むなんて、浅はかだ」

 マティアスは深く息を吸い込み、冷静さを取り戻そうと努めた。

「どうすればいい、エリーアス兄上?」

 エリーアスは少し考え込んだ後、静かに答えた。

「まずは、兄上の主張を徹底的に調査し、矛盾点を見つけることだ。そして、姉上と直接対話し、彼女の意見を聞くべきだ。ユリアーナ姉上が真の王でないことを証明するためには、彼女自身の協力が必要だ」

 マティアスはうなずき、決意を新たにした。

「わかった。すぐに行動に移そう。臣下たちを呼び集め、そこでトビアス兄上と対峙する」

 エリーアスは微笑み、マティアスの肩を軽く叩き、励ますように背中を押した。

「その意気だ、マティアス。共に戦おう」

 ふたりは部屋を出て、次の一手を考えるために作戦会議を始めた。
 エスタニア王国の未来は、彼らの手に委ねられていた。


 王宮の大広間には緊張感が漂っていた。
 豪華なシャンデリアが輝き、壁には歴代の王の肖像画が並んでいる。その中には、真新しい前国王の肖像画も含まれていた。大広間の中央には、重厚な木製のテーブルが置かれ、その周りにエスタニアの重臣たちが集まっていた。
 トビアスとマティアスが対峙する中、ユリアーナ、エリーアス、そして俺とディアーナもその場に座っていた。
 俺は息を呑み、緊張感が一層高まるのを感じていた。
 大広間には張り詰めた静寂が漂い、誰もが次の言葉を待ちわびていた。
 その静寂を打ち破るように、トビアスが椅子から立ち上がり、力強い声で言った。

「臣下たちよ、聞いてくれ。俺は真実を語るためにここに立っている。前国王の死は、神獣の怒りによるものだ。前国王は長年にわたり国を治めてきたが、その行いが神獣の逆鱗に触れ、命を落とした。金の瞳を持つ者こそが真の王位継承者であるという事実を覆したことで、呪いが降りかかったのだ」

 トビアスの言葉が大広間に響き渡ると、重臣たちはざわめき始めた。中には不安げに顔を見合わせる者や、眉をひそめる者もおり、その表情には明らかな動揺が見て取れた。
 彼らの顔には動揺と不信感がはっきりと浮かび、まるでその感情が大広間全体に広がっていくかのようだった。
 王家に対する信頼が揺らぎ、重苦しい空気が一層濃くなっていくのを俺は肌で感じた。隣にいるディアーナと目を合わせ、彼女の顔にも不安の色が浮かんでいるのに気づいた。
 ディアーナは唇を噛みしめ、手をぎゅっと握りしめていた。彼女は兄であるマティアスを心配している様子で、その視線はすぐに彼に向けられた。
 マティアスは周囲のざわめきを感じ取りながら、一度目を閉じて深呼吸をした。彼はゆっくりと目を開け、重臣たちの視線を一身に受けながら、冷静な表情を保ちつつ淡々と口を開いた。

「トビアス兄上、そのような話は信じがたい。私たちは皆、前国王が病に倒れたことを知っている。あなたの言葉には証拠がない」

 トビアスは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその表情は焦りと怒りに変わった。彼は拳を握りしめ、声を荒げて叫んだ。

「証拠? じゃあ、どうして俺はここにいるんだ。真相を確かめるために呼ばれたんじゃないのか? 国の王太子に刃物を向けたのに、なぜ俺は指名手配されていないんだ? それこそが、俺の言葉の正統性を証明しているのだ!」

 トビアスの主張に、重臣たちは一斉に息を呑んだ。
 彼の言葉が真実味を帯びていると感じたのだろう。重臣たちは互いに顔を見合わせ、不安げにささやき合った。
 大広間全体が静まり返り、緊張感が張り詰めた。次の言葉を待ち構える空気が漂う中、視線が再びマティアスに集まった。
 彼は毅然とした態度でトビアスに向き合った。

「トビアス兄上、あなたがここにいるのは、我々が真実を求めているからだ。しかし、証拠がなければ、あなたの言葉はただの憶測に過ぎない。国の対応についても、我々は慎重に判断している。あなたの言葉が真実であるならば、確固たる証拠を示してほしい。それがなければ、我々は前国王の死因を病とする公式見解を覆すことはできない」

 トビアスは怒りを抑えきれず、拳を震わせながら声を荒げた。

「よく言う、お前が俺を陥れたのだろう! 俺が武道大会でお前を襲ったのは、魔剣に意志を奪われたからだ。お前の側近が仕組んだ罠に嵌まったのだ。俺は知っているぞ、お前が武道大会の裏で小型の爆弾を設置し、混乱を引き起こそうとしたことをな!」
「なぜ王太子の私がそんなことをする必要があるのです?」
「金の瞳を持つ者こそが真の王位継承者であると知り、姉上を消そうとしたからだ!」

 トビアスは怒りを込めて言い放った。彼の目は怒りで燃え、手は震えていた。そして魔法袋から小型の黒い装置を取り出し、高々と掲げながら続けた。

「革命の光のメンバーたちが、武道大会での陰謀を暴いたのだ。これがその証拠だ!」
「兄上、それこそ茶番だ。兄上が仕掛けた爆弾であることを、兄上が王にと掲げている姉上が証言している」

 今まで黙って事の成り行きを見守っていたエリーアスが冷静に、しかし鋭く反論した。
 一方で、当事者のユリアーナは静かに立ち上がり、トビアスに向かって一歩踏み出した。

「トビアス、あなたの目的はなに?」

 彼女の目は鋭く、声には冷たい怒りと揺るぎない決意が込められていた。

「姉上、どうして?」

 トビアスは眉をひそめ、ユリアーナの言葉に戸惑った。彼の目は揺れ動き、声には困惑と恐怖がはっきりと滲んでいた。
 その瞬間、俺はユリアーナの行動と態度がトビアスの予想を完全に裏切ったことを確信した。
 彼女の鋭い視線の裏に隠された真の意図が、冷たく感じられた。冷静を装う彼女の金の瞳には、計り知れない秘密が潜んでいるように見えた。
 俺はその狡猾さに気づき、背筋が凍りついた。
 彼女の予期せぬ反応が、トビアスの計画を狂わせているのは明らかだった。まるで蜘蛛の巣に絡め取られた獲物のように、俺たちを逃れられない罠に引き込んでいるようにも思えた。

「まさか、あなたの出生を隠すために、私を王に担ぎ上げ、傀儡にしようと企てているの?」
「姉上、なにを言っているのだ!」

 トビアスは慌てた様子でユリアーナに詰め寄ろうとしたが、近衛騎士に阻まれ、その場に立ち止まった。
 俺の目には、トビアスの顔に浮かぶ動揺と焦り、不安がはっきりと映った。彼の顔は蒼白になり、唇は震え、額には冷や汗が滲んでいた。
 ユリアーナのまさかの発言に、重臣たちはざわつき始め、互いに不安げな視線を交わした。

「王の子ではないとの噂は本当だったのか」
「だから、王太子の座を追われたのか」

 重臣たちの間に動揺が広がる中、トビアスは頭を抱え、必死に否定していた。

「ちがう。俺は王の子だ!」
「いいえ、トビアス。あなたは王の子ではありません」

 ユリアーナの声は冷たく、決然としていた。

「なにを言っているんだ、姉上!」

 トビアスは叫び声を上げ、ユリアーナの裏切りに驚愕し、焦りと絶望がその顔に浮かんでいた。

「私はあなたが悩み苦しんでいた姿をそばで見てきました。王太子としての重圧と、王家の血筋ではない事実を知り苦悩していたことも。だから私を担ぎ上げ、実権を握ろうと画策したのですね」

 ユリアーナの言葉は鋭く、トビアスの心を突き刺すようだった。
 大広間の空気が一瞬凍りついた。

「姉上!」

 エリーアスは椅子から立ち上がり、感情を抑えきれずに声を上げた。ユリアーナの発言を非難するように厳しい視線を向ける。

「エリーアスも耳にした覚えがあるはずです。トビアスが王の子ではない不義の子だとの話を」

 エリーアスは一瞬言葉に詰まり、視線を落としたが、すぐに顔を上げて反論した。

「それは、ですがトビアス兄上は、父王が実子と認め王太子として教育されたはず」

 ユリアーナは冷たく微笑みながら、さらに言葉を続けた。

「それが罰だとしたら?」
「えっ?」
「生きていく上での贖罪だとしたら?」

 エリーアスは言葉を失い、視線をユリアーナからトビアスへと移した。
 ユリアーナはその視線の動きを見て、一瞬ためらった後、静かに口を開いた。

「私は真実を知っています。トビアスが王族ではなく、不義の子であることを、私たちの母エレオノーラ・フォン・エスタニアから知らされたのです」

 場の空気が騒然とし、重臣たちは動揺の色を隠せなかった。誰もがこの衝撃的な告白に動揺していた。

「嘘だ!姉上、なぜそんなことを言うんだ!」

 トビアスが震える声で反論すると、ユリアーナは冷たい視線をトビアスに向けた。

「トビアス、あなたも知っているはずです。あなたが王の子ではないことを」
「そんなはずはっ、うわぁぁぁぁぁぁぁ」

 声にならない雄叫びを上げ、トビアスはその場に崩れ落ちた。
 彼の心の中でなにかが崩れ落ちる音が聞こえるようだった。
 ビーカーがトビアスに駆け寄り、ユリアーナを非難するように訴えかけた。

「ユリアーナ様、そのような根拠のない話をこの場で発言するとは、何を考えているのですか! エレオノーラ様が陛下を裏切るはずがありません」

 ユリアーナはビーカーを侮視し、冷たく吐き捨てた。

「口を慎みなさい、ビーカー侯爵」

 その目には、噂を信じ込んだかのような冷たさが宿っていた。
 エリーアスはそのやり取りを見て、真意を確かめるようにユリアーナに問いかける。

「姉上、それは本当なのですか?」

 ユリアーナはゆっくりとうなずいた。

「ええ、エリーアス。私は長い間、この事実を隠してきました。しかし、今こそ真実を明らかにする時です」

 ユリアーナは深く息を吸い込み、重臣たちに向かって毅然とした声で言った。

「ユリアーナ・フォン・エスタニアの名にかけて、トビアス・フォン・エスタニアが王族ではないことをここに宣言します」

 重臣たちは一瞬凍りつき、次いで互いに顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべた。

「そして私は女であり、王位にふさわしくありません。マティアス王太子こそが、この国を導くべき人です。彼にはその力があります」

 ユリアーナの突然の王位継承権辞退の発言に、大広間は一瞬で静まり返った。
 重臣たちは驚きと困惑の表情を浮かべ、再びざわめきが広がっていく。
 彼らの視線がユリアーナに集中する中、マティアスがゆっくりと立ち上がり、重々しい声で言った。

「本日の会議はこれにて終了とする。皆、退席せよ」

 解散を宣言したマティアスはすぐさま、大広間から去り、エリーアスやユリアーナもそれに続いた。
 重臣たちもひとりまたひとりと退出していった。
 大広間には、いまだショックで立ち上がれないトビアスと、それに付き添うビーカーだけが残った。
 その光景は、彼の生涯を象徴するかのように、物悲しさに満ちていた。

 俺たちが大広間を出た瞬間、ひとりの青年が駆け寄ってきた。
 護衛として同行していたニコライが一瞬警戒するも、すぐにその表情を和らげた。

「ルイス、どうしたんだ?」
「作戦Aです」
「了解! チビ、姫さん、行くぞ!」

 ルイスの告げた言葉にニコライは親指を立て、自信に満ちた笑顔を見せると、俺とディアーナを両脇に抱え、軽やかに走り出した。

「えっ?」
「きゃあっ」

 貴族たちの間を縫うように駆け抜ける俺たち。ディアーナは驚きと楽しさが入り混じった表情で、目を輝かせながら笑っていた。

「ニコライ殿、待ってください! 場所、わかっているんですか?」

 ルイスが慌てて後を追いかけてきたが、その声にはどこか困ったような楽しげな響きがあった。


 ***


 ルイスの案内で、ニコライに抱えられながら王宮の一室に入った。
 重厚な扉が音を立てて閉ざされると、外の喧騒が遠のき、部屋は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 壁には魔法陣が張り巡らされ、おびただしい魔力が充満している。一カ月前にマティアス王太子と面会した部屋に似ていた。

「ルイス、作戦Aじゃなかったのかよ。どうしてこんなことに……」
「私に言われても……」

 二コライは俺たちをしっかりと抱えたまま、ルイスと共に扉の前でこそこそと立ち止まった。
 周囲を確認すると、ヴィリー叔父さんをはじめ、アーベル家の面々が揃っていた。パルやエマ、そしてハクとスラもその場にいる。
 対面にはマティアス王太子とエリーアス殿下、そして見知らない女性がふたり立っていた。
 ひとりの女性が怒りを露わにし、マティアスに詰め寄っている。

「トビアス様が、不義の子どもなんてありえないことだわ!」
「お母様!?」

 ニコライの脇から、ディアーナの驚いた声が響いた。
 その声に反応した王妃が、マティアスに詰め寄るのを一瞬止め、うしろを振り返った。

「あら? ディアーナ!」

 王妃の表情が一瞬で柔らかくなり、彼女の目には喜びが浮かんでいる。

「うふふ、大きくなったわね! 私に成長した姿を見せてちょうだい!」

 王妃の優しい声が、部屋の緊張を少しだけ和らげた。

「あなた、ディアーナを下ろしなさい」

 王妃の命令に、ニコライが畏まりながらも、俺とディアーナをそっと下ろした。
 ディアーナは地面に足をつけると、すぐに王妃の元へ駆け寄り、その腕の中に飛び込んだ。

「まぁディアーナ、はしたないわよ」

 王妃はディアーナの行動を咎めつつも、その声は優しく慈愛に満ちていた。
 彼女はディアーナの顔を両手で包み込み、その成長を確かめるように見つめた。

「お母様、ご無事でなによりです」

 ディアーナの金の瞳には涙が浮かび、その声には安堵と喜びが混じっていた。

「あら、私の心配をしてくれるのね。なんて優しい子なの」

 王妃はディアーナの言葉にいたく感動している様子だった。
 しかし、俺の存在に気づくと、その表情は一瞬で厳しくなった。

「あなたが私のかわいいディアーナと婚約したジークベルト・フォン・アーベルね」

 親子の久々の再会に、微笑ましい姿を見て頬を緩めていた俺だったが、王妃の品定めをするかのような厳しい視線に気づいた瞬間、思わず背筋が伸びた。

「お母様! ジークベルト様にそのような不躾な視線は失礼です!」
「んっまぁ、ディアーナ! 言うようになったものね」

 ディアーナがすかさず抗議したことに、王妃は驚きつつも、少し誇らしげに微笑んだ。

「シャルロッテ様、本日の目的はディアーナ様を愛でることではございませんよ」

 王妃の隣にいる女性が冷静に指摘する。

「あら? 私としたことが、アグネス様、ありがとうございます」

 もうひとりの女性、アグネス側妃が王妃を咎めると、王妃は再びマティアスに視線を向け、厳しい口調で問い詰めた。

「マティアス、私の質問に答えなさい。なぜトビアス様の出生を否定せず、会議を打ち切ったのです」
「母上、それは何度も申し上げました。姉上が名をかけて宣言したのです。確たる証拠もなく否定すれば、姉上の名誉に傷がつきますし、王族全体の信頼も失われます。あの場では、それしか選択肢がありませんでした」

 マティアスは冷静に答えていたが、その声には微かな苛立ちが感じられた。

「あの女狐!」

 王妃は怒りと苛立ちを抑えきれず、顔を真っ赤にし、声を震わせながら叫んだ。

「シャルロッテ様、どうか落ち着いてください」

 側妃が冷静に諭すと、王妃は我に返り、深いため息をついた。

「私ったら、本当に情けないわ。すぐにかっとなってしまうなんて。もう、あなたたち全員、あの女狐の手のひらの上で踊らされているのがわからないの?」

 王妃の態度とその内容が意外だったのか、マティアスはひどく驚いた様子で問いかけた。

「女狐とは、姉上のことを言っていますか?」
「そうよ、なにか問題でもあるかしら?」

 王妃が冷たい視線を向け、マティアスに答えた。
 王妃たちの会話が途切れると、部屋の隅で交わされる叔父たちの会話が耳に入ってきた。

「テオ、事前の報告とだいぶ違うようだが?」
「影に強く抗議を入れます」とテオ兄さんが低い声で答えていた。
「そこっ! 私の悪口は許さないわよ」

 王妃の鋭い指摘に、叔父は一瞬驚いたが、すぐに紳士的な態度を取り、微笑んだ。

「シャルロッテ王妃は、なにかご存じのようですね」

 叔父の声には、どこか挑戦的な響きがあった。

「あら、あなた、いい男ね」

 王妃は叔父の挑戦的な態度と溢れんばかりの色気に、一瞬心を奪われたようだったが、すぐに我に返った。
 アグネス側妃がすかさず注意する。

「シャルロッテ様」
「あら? 私ったら子供たちの前ではしたないわ」

 王妃は恥ずかしそうに頬に手をあてた。
 その姿を見て『本当にディアーナの母上なのか?』と、俺は強く疑問が沸いた。
 ディアーナは王族である自身の立場を理解して、最近まで感情をあまり表に出さなかったが、王妃は感情豊かで、その起伏が激しい。
 彼女たちが親子だとは思えなかった。
 しばらくすると、王妃の顔付きが変わり、纏う雰囲気に威厳が漂い始めた。
 彼女は再びその場の中心に立ち、全員の視線を集めた。

「エレオノーラ様が陛下を裏切るはずがありません。あの方の献身、いいえ、狂愛と称した方が適切かしら、あの方が陛下に向けた愛と執着は異常なほどでした」

 王妃の言葉にアグネス側妃が同意するようにうなずいた。

「私たちはそばで見ていたからわかります。今は幼き子のようだけどね」
「幼き子?」

 叔父は眉をひそめ、疑問の表情を浮かべた。

「あら、そのようなわざとらしい反応をしなくても、もう調べはついているのでしょう、ヴィリバルト・フォン・アーベル伯爵」

 王妃は冷ややかな笑みを浮かべ、叔父を見つめた。
 叔父は余裕のある微笑みを返しながら、「いえ、詳しくはまだ調査中です」と答える。

「あら? 天下の赤の魔術師をも欺けるの? あの女狐は」

 王妃は軽く肩をすくめ、皮肉を込めた口調で言った。

「ユリアーナ殿下には、この部屋のように高度な魔術が施されているようです」

 叔父は一瞬目を細め、慎重に言葉を選んだ。

「まぁ、なんて贅沢なのかしら」

 王妃は軽く笑いながら、部屋の装飾を見渡した。
 その視線の先がアグネス側妃に移ると、彼女は静かに口を開いた。

「エレオノーラ様は陛下が病に伏せられる直前に、突如として退行されたのです。今ではお人形遊びが日課です」

 アグネス側妃が、王妃の情報を補足するように付け足した。

「母上は、トビアス兄上が主張する金の瞳が王位継承者であるとの主張をどう思われますか?」

 マティアスが王妃に尋ねると、王妃は目を伏せ、少し考えた素振りを見せたあと、真顔となった。

「金の瞳は王家にとって吉凶なの」
「私どもにそれを教えてくれませんか」

 叔父の問いかけに、王妃が静かにうなずいた。

「少しだけ、昔の話をしましょう──」


 王妃が語った昔話は、前国王の狂気に満ちた行動についてだった。
 彼は金の瞳を持つ王家と血の繋がりがある者を次々と殺戮していた。少しでもその可能性があれば、彼の狂気の対象となった。

「王家に金の瞳が生まれれば、それは神話の少女の生まれ変わり。その者を王にすれば、約束された平和が続くとされています。これは王妃に語り継がれている伝承なのです」

 王妃の声は静かでありながらも、その言葉には重みがあり、それが事実であったことを確信させた。

「父王のそのような話は耳にしたことがありません」

 今まで傍観していたエリーアスが困惑しながらも、王妃の言葉を否定するように言った。
 疑念を浮かべているエリーアスに、アグネス側妃が諭すように話しかける。

「エリーアス、これは陛下がまだ王太子だった頃の話です。それに、陛下が犯人である証拠はどこにも残っていないのです」
「母上は、それをご存知で嫁がれたのですか?」

 エリーアスの質問に驚いた側妃は、一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。

「私の母から聞き及んでいました。覚悟の上で王家に嫁ぎましたが、すでに陛下は国王で、凶行されることはありませんでした。ただ、あなたが……」

 アグネス側妃が言葉を詰まらせると、エリーアスが気遣うように彼女に駆け寄った。
 なるほど。
 ここでエリーアス殿下が隠しているあのことが繋がるのか。
 以前、ヘルプ機能に調査を依頼して知ったエリーアス殿下の隠し事。ディアーナは堂々としているのに、なぜエリーアス殿下だけが秘密にしているのか、ずっと疑問だった。
 アグネス側妃の意向が強かったようだ。
 エリーアス殿下も母上に弱いんだな。親近感が沸くな。
 などと考えていると、叔父の冷静かつ配慮にかける声が聞こえてきた。

「要するに、前国王は王妃に語り継がれている伝承をどこかで聞き、王太子という地位が危ぶまれたから金の瞳を持つ王族の血筋を片っ端から粛清したってことだよね」
「叔父様、もう少し言葉を選んで発言してください」

 テオ兄さんが眉をひそめてたしなめるも、叔父は態度を変える様子はなく、「テオ、今その必要があるかい?」と悪びれもなく言い放った。
 王妃が呆れた様子で、話を再開させる。

「トビアス様がどこで誰からそのような話を聞いたのかはわかりません。ただ事実として、王家に金の瞳を持つ者が生まれると、性別に関係なく王太子に指名することが多々あったようです」
「なるほどね、重臣たちの中にはそれを知っている者もいたんだね」

 叔父の指摘に、王妃がうなずく。

「ええ、間違いなく。皇后から聞いた話ですが、王太子時代の陛下の素行は異常でしたから、気づいた者もいたでしょう」
「金の瞳ね、ディアーナ様も金の瞳を持つ王族だけどね」

 ディアーナは、突然叔父から自分の名前が挙がったことに驚いたが、その表情には全く動揺の色が見えなかった。
 彼女は冷静に叔父の方を見つめ、静かな声で答えた。

「私は先祖返りのため、限られた人としか接触を許されていませんでした。だから、私の顔を知らない重臣も多いのです」

 俺はディアーナの言葉に胸が痛んだ。
 彼女がどれだけ孤独で辛い思いをしてきたのかを考えると、徐々に怒りが込み上げてくる。
 拳を握りしめる俺に気づいた叔父が、そっと肩に手を置いて微笑んだ。

「ジーク、そんなに怒らなくても、今のディアーナ様は自由だからね」
「わかっていますよ」

 俺の不貞腐れた態度を見た、ディアーナが嬉しそうに笑った。
 王妃も微笑みながら、「まあまあね」と俺を評価する。
 部屋の空気が少し柔らかくなり、みんなの表情にも微笑みが戻った。
 そんな中、マティアスが話を戻すべく口を開いた。

「母上の話からトビアス兄上が、姉上を担いだ理由がはっきりした。ただトビアス兄上が王族である証拠がない」

 マティアスの発言に王妃は眉をひそめ、顎に指を添えて少し考えた後、口元をゆるめた。

「あら、まだそんなことを言っているの。だったら、私の名でトビアス様が陛下の子であると証言します」
「母上、それはやめてください」

 マティアスは焦りを隠せず、声を少し震わせた。
 そんなマティアスに王妃は目を細めて、一歩踏み出した。

「あの女狐はよくて、私がだめな理由はなに?」
「姉上は、エレオノーラ側妃からトビアス兄上が不義の子であると聞かされたと証言しています」
「もう、それが嘘だと言っているのよ。この、わからずや!」

 王妃は苛立ちを隠せず、足音を一度大きく鳴らせ、声を荒げた。

「どうして、母上はエレオノーラ側妃を庇うのですか。何度も命の危険にさらされているのに」
「エレオノーラ様は、私たちの憧れだったのよ」
「憧れですか?」

 マティアスは王妃の意外な動機に驚き、言葉を失くした。

「そうよ。私が王妃になる前は、素晴らしい方だったのよ」

 王妃は一瞬、遠くを見つめる。

「国民からは賢王妃と敬われ、影から陛下を支えていた。その献身は他国からも評価されていたのよ。でも、そのエレオノーラ様が、王妃から側妃に降格され、心を病んでしまった。その場所を奪ったのが私なの」
「いいえ、それは違います。シャルロッテ様が王妃になったのは、陛下が強く望まれたからです」

 突然側妃が、王妃の言葉を遮り、毅然とした態度で言い放った。

「エレオノーラ様は、賢王妃と称えられる一方で、嫉妬に狂い、多くの悪行を行ってきました。私もその被害者のひとりです。しかし、トビアス様が不義の子ではないことは、私も証言できます。当時、お世継ぎ問題が浮上し、王宮内は緊迫していました。陛下は毎日、私とエレオノーラ様の元に通われており、不義ができる状況ではなかったのです」
「しかし、この時期エレオノーラ側妃には不名誉な噂がながれているよね」
「それは……」

 叔父の指摘に側妃は言葉を詰まらせる。

「女狐よ。確証はないけど、当時その噂を流すとしたら、あの女狐しかいないわ」
「母上、根拠のない発言で姉上を侮辱するのはやめてください」

 マティアスが眉をひそめなが否定すると、王妃は盛大にため息をつき、呆れた様子でゆっくりと頭を振る。

「まぁ、女狐にうまく操られて、情けないわ」
「母上!」

 マティアスが強い口調で注意した。
 彼の目は怒りと失望が混じり、その肩はわずかに震えている。
 王妃は冷ややかな目で息子を見つめ、微かに笑みを浮かべた。

「私が王家に嫁いだ頃、あの女狐はその魅力で人々を虜にしていたわ。最初はそれも愛らしいものだったけれど、ここ二、三年で豹変したの。女狐は人々を操り始め、本性を現したのよ。まるで本物の狐のように」
「やはり、ユリアーナ殿下の『魅了』は最近発生したようだね」

 叔父が静かに口を挟むと、王妃が驚きと共に問い返した。

「魅了? 女狐は魅了を持っているの? それなら今までの違和感にも納得がいくわ」
「あれだけ強い魅了に気づかれていなかったのですか?」

 叔父が珍しく目を見開き驚くと、王妃は気まずそうにうなずいた。

「私たちエスタニア王国の王族は、身の危険や精神攻撃から自分を守るために、それぞれ強力な魔道具を持っています」

 王妃が指にはめている指輪を掲げ、周囲に見せる。

「私やアグネス様は指輪。マティアスはピアス、ディアーナはペンダント、エリーアス様は眼鏡ね」

 俺はディアーナのペンダントに目を向けた。
 その美しい細工を見ていると、以前ボフールに修理を依頼した時のことを思い出す。
 彼の職人技にはいつも感心させられるが、特にこのペンダントの精巧さには驚いていた。

「なるほど。王妃の記憶が正しければ、私たちの推測が確信に変わります」
「まぁ、失礼ね」

 叔父の皮肉混じりの発言に、王妃は軽く眉をひそめるも、すぐにマティアス向き直った。

「それよりも、今はトビアス様の名誉の回復よ」

 王妃が声を荒げると、アグネス側妃も同調し、再びマティアスに詰め寄る。
 ふたりの圧力に押され、マティアスは一歩後ずさりした。
 その姿を見て、俺は思わず叔父の名前を呼び訴えた。

「ヴィリー叔父さん!」

 叔父の端正な顔が困ったように歪み、諦めたかのように笑う。

「間違いなく、彼は前国王の子だよ。赤の魔術師である私の『鑑定眼』がそれを証明しよう」

 その場にいる全員が叔父に注視し、その事実に息をのんだ。

「それならどうして、ユリアーナお姉様は、そのような虚言を口にしたのですか! トビアスお兄様もどうしてもっと強く反論しなかったの。あれではまるでトビアスお兄様も事実だと認めているようではないですか!」

 ディアーナは感情を抑えられず、声を震わせながら言葉をつなげた。

「彼らにはそれが真実だった」

 叔父が冷静に告げると、ディアーナは拳を強く握り、目を閉じた。

「そんな、都合のいい話が……」
「本当に、都合のいい話だね。人は時に残酷なことをする。彼女はその噂を真実としてトビアス殿下に伝え、彼を支配していたのだろう」

 叔父の声は冷静でありながらも、どこか冷酷さを感じさせた。

「トビアスお兄様は、ユリアーナお姉様を誰よりも信頼されていたんです。そんなっ、そんなことが……」

 ディアーナは言葉を失い、震える声でつぶやいた。彼女の目には涙が溢れ、頬を伝って落ちた。
 王妃が駆け寄り、心痛な表情でそっと彼女を抱きしめた。

「トビアスお兄様が、お可哀そうすぎます」

 王妃の腕の中で、ディアーナのすすり泣きが聞こえ、俺の胸が締め付けられる。

「彼は虚偽の事実を真実だと信じ込み、彼女に都合よく操られてしまった。とても愚かなことだ。しかし、事実がどうであれ、王族を殺害しようとした罪は消えない。彼に未来はない」

 叔父の正論に、部屋は一瞬の沈黙に包まれた。

「むぅっ!?」

 俺が異議を唱えようと口を開いた瞬間、叔父が素早い動作で俺の口を手で塞いだ。
 彼の表情は厳しくも優しく、頭を横に振って静かに制止を促した。

「だめだよ、ジーク。優しさをはき違えてはいけない。君はアーベル侯爵家の子息だ。時には厳しい決断を下さなければならない。それを避けてはならない。現実を直視し、受け入れる覚悟が必要だ。我々貴族は、その責務から逃げることは許されないんだよ」

 叔父の言葉は重く、俺の胸に深く響いた。
 王妃やマティアスたちも沈黙し、叔父の言葉の重みを受け止めているようだった。
 王妃の腕の中で泣いていたディアーナが叔父に確信を求めるように問いかけた。

「ヴィリバルト様、ユリアーナお姉様は……」
「彼女はおそらく帝国の力を借りているだろう」

 その言葉に全員の表情が一変した。
 緊張が一気に高まり、空気がさらに重くなった。

「帝国はなにが目的なのだ」

 突然、パルが感情を爆発させ、拳を壁に叩きつけた。
 彼の怒りの叫びが部屋中に響き渡り、全員が驚きの表情で彼を見つめた。

「パル……」

 ディアーナが静かに彼の名前を呼びながら、そっと彼のそばに寄り添った。
 彼女は優しく彼の腕を掴み、その怒りを和らげようとしていた。
 俺はパルの激しい感情に驚きつつも、彼の気持ちを理解していた。
 ずっと黙って話を聞いていた彼が、帝国の横暴さに耐えきれず、ついに声を上げたのだ。
 部屋の空気が一層張り詰める中、叔父が再び静かに口を開いた。

「混乱に生じた多くの人の命だろうね」

 叔父の意外過ぎる回答に、全員が彼を見た。
 驚きと困惑が広がる中、俺は叔父の言葉を反芻した。
 国ではなく人の命だと、叔父は言ったのだ。エスタニア王国の支配ではなく、無数の命を奪うことが帝国の真の目的だというのか。
 その考えが頭をよぎると、背筋に冷たいものが走った。

「そうなると、姉上の目的は王位となるのでしょうね」

 エリーアスの冷静な声が部屋に響いた。

「エリーアス兄上まで、姉上が敵であるとそういうのですか!」

 その声に反応したマティアスが、エリーアスを鋭く睨み、激しく反論するも、その目には深い悲しみがあった。
 怒りの裏に隠された悲しみが、彼の全身から滲み出ていた。
「マティアス」と、王妃が優しく彼の名を呼ぶ。マティアスは王妃に名を呼ばれ、かすれた声で訴えた。

「姉上は身を呈して私を守ってくれました」

 王妃は一瞬、考え込むように視線を落とし、再びマティアスを見つめ直した。

「そうね、武道大会での出来事は聞いています」

 その声には温かみがあり、マティアスは少しだけ安堵した表情を見せた。しかし、王妃の次の言葉が彼の心を揺さぶった。

「それが、緻密に計算された芝居だったとしら、あなたはどうしますか」

 マティアスの顔は驚愕に染まり、彼の声は震えた。

「そんなことがあるわけがありません! 姉上は私の前で刺され、血を流して倒れたのですよ。アルベルト殿も近くで見ていましたよね」

 その問いかけに、アル兄さんは「そうですね」と肯定しつつも、マティアスから視線をそらした。
 その反応にマティアスが絶望した顔をする。

「あれが演技だと言うのですか?」
「マティアス、目に見えるものすべてが真実であるとは限らないのです」
「ですが、母上……」

 マティアスの声はかすれ、言葉が途切れた。
 彼の心の中では、疑念が渦巻き始めているのだろう。彼の目は動揺してか、激しく揺れ動いていた。

「ディアーナは、理解できますね」
「はい、お母様」

 そう答えたディアーナの声は落ち着いていた。
 王妃はその態度に満足したように微笑み、マティアスに視線を戻した。

「マティアス、目を背けてはなりません。ユリアーナの狙いがなになのか、あなたはもう検討がついているはずです」
「ですが、姉上は王位を辞退すると証言されたのです」

 マティアスの声は震え、彼の目には葛藤が浮かんでいた。
 彼の心の中では、姉への信頼と疑念が激しくぶつかり合っているのだ。
 どうしても姉のすべてが偽りだったとは認めたくないのだ。
 俺はマティアスの気持ちが痛いほどわかった。
 もし、俺が兄姉に裏切られたとしたら、同じように苦しむだろう。彼の苦悩がひしひしと伝わってくる。
 王妃はその様子を見て、深いため息をつく。彼女の表情には失望と呆れが見えた。

「誰を信じるのもあなたの勝手です。しかし、あなたはエスタニア王国の王太子です」

 王妃は続ける。

「そもそも女狐には王位継承権などありません。国民の声に後押しされ、トビアス様が担いだ結果、議論に上がっただけなのです。誰がこの状況を予想できましたか」

 王妃の言葉は冷静でありながらも鋭く、状況の深刻さを物語っていた。

「国民の支持をどのようにしてえたのか。どうして私が、わざわざ陛下の凶行を伝えたのかも考えて見なさい」
「姉上の真の目的は、すべての王族の排除……」

 目を閉じ、静かにつぶやいたマティアスの言葉には、深い悲しみが滲んでいた。

「悲しいことに、ユリアーナは陛下の王への執着と狂気を受け継いでしまったのよ」

 王妃の言葉は静かに部屋に浸透し、抗えない現実が彼らを包み込んだ。


 夕暮れの光が部屋に差し込み、柔らかなオレンジ色の光がみんなの顔を照らしていた。
 話し合いが無事に終わり、部屋には安堵の空気が漂い始める。緊張感が解け、みんなの表情にも少しずつ和らぎが見えた。

「静かに話を聞けて、ハクとスラは本当に偉かったね」

 俺は微笑みながらふたりの頭を優しくなでた。
 ハクは目を細めて嬉しそうに尻尾を振り始め、スラは平べったく溶けていき、床にぴったりと体をつけた。

「ガウッ! 〈怒った女の人には近づいたらだめ!〉」
「ピッ! 〈だめ!〉」
「えっ、それ誰に教わったの?」

 俺は予想がつきながらも、あえて尋ねた。すると、ふたりは口を揃えて「「ヴィリバルト」」と答える。
 その名前が出た瞬間、叔父は驚いた表情を見せたが、すぐに頬をかきながら弁明し始めた。

「ちょっとした教訓を教えただけだよ」

 まったく、どんな教訓をふたりに教えたのか。
 ふたりにそんな偏見を植え付けるようなことを教えるなんて、信じられない。
 俺のジト目に耐え切れなくなったのか、叔父がすぐに話題を変えた。

「さて、今日からはエリーアス殿下の客人として、王宮に滞在するよ」
「バルシュミーデ伯爵家には戻らないんですか?」

 突然の提案に俺は驚きを隠せなかった。

「ジーク、心配しなくても大丈夫だよ。ヨハンとのお別れの時間は、この件が片付いたらちゃんと取るからね」

叔父は優しく俺の頭をなでて、安心させるように微笑んだ。

「ヨハンも喜びます」とパルが微笑みながら言う。

「ヴィリー叔父さん、エリーアス殿下の客人って、理由はどうするんですか?」
「うん?」

 叔父は少し含みを持ちながら、俺の反応を楽しむように答える。

「テオが、殿下の趣味である流木に興味を持ち、意気投合したことになっているんだ」
「えっ、いつの間に?」

 俺は驚きの声を上げ、ハクとスラにご褒美のオークの肉を与えているテオ兄さんを見た。
 俺の視線に応じるように、テオ兄さんが軽くうなずいて補足する。

「何度か登城して王城の者にエリーと仲が良くなったと印象づけているから、数日の滞在は問題ないよ」
「エリー?」

 俺は頬が引きつるのを抑えることができなかった。

「親しさをアピールするには愛称で呼んだ方が効果的だと殿下に提案されてね」

 テオ兄さんが少し困った表情を浮かべ、諦めた様子で言った。
 そうだよね。さほど親しくない他国の王族を愛称で呼ぶのって、かなり勇気がいる。
 その時、俺たちの会話を耳にしたアグネス側妃が、エリーアスに向かって声をかけた。

「エリーアス、まだただの木を集めているのですか?」
「母上、ただの木ではありませんよ。流木です。長い年月をかけて川や海を旅し、自然の力で形を変えるのです。その独特な形や質感は、人工的には作り出せない美しさを持っています」
「ごたくはいいのです」

 アグネス側妃は厳しい口調で言い放った。
 エリーアスは肩をすくめ、ため息をついた。
 どこにいてもやはり母は強しと俺は心の中で思った。

「私たちは後宮に戻ります」
「母上、どうかお気をつけて」

 王妃がそう言うと、マティアスは心配そうな顔をしていた。
 そんな彼を王妃は優しく包み込むように抱きしめた。

「心配はいらないわ。お父様が警備を増員してくれたから」
「ブルーム公爵が動きましたか」

 王妃の言葉に反応したパルが目を鋭く光らせ、ふたりの間に割り込んだ。

「ええ、バルシュミーデ前伯爵」

 王妃は優雅に微笑みながら、うなずく。だが、その目は笑っていなかった。
 マティアスとの抱擁を邪魔された怒りが手に取るようにわかった。
 しかし、パルはそれを気にすることもなく胸を張り主張した。

「王妃様、私はただの冒険者のパルです」
「そうだったわね」

 パルの気迫に一瞬たじろいた王妃は、すぐに気を取り戻した。

「ブルーム公爵家は内乱に一切関与しないわ。あくまでも後宮の警備を強化するだけ。だから数には入れないでちょうだい」
「わかりました」

 パルが胸を手に当て、深々と臣下の礼をすると、静かにその場を引いた。
 先ほどまで空気を読まずに会話に割り込んでいたパルとは思えない、洗練された態度に俺の頭は混乱する。まるで別人のようだ。
 王妃も同じように驚いているようで、少し間を置いてから、マティアスを見つめた。

「マティアス、私たちが関われるのはここまでよ。あとは、エリーアス様と……」

 王妃が言葉を切り、その視線を叔父に向けるが、少しして頭を軽く振り、マティアスに戻した。

「エリーアス様に相談しなさい」
「ありがとうございます。母上」

 そんな王妃の態度に、マティアスが苦笑いをした。

「アグネス様、そろそろ戻りましょう。エレオノーラ様が待っていますから」
「はい、シャルロッテ様」

 ふたりは微笑み合いながら、仲良く部屋を後にしたのだった。


 純白の大理石の壁と漆黒の家具が調和する部屋。
 天井のクリスタルのシャンデリアが柔らかく光を反射し、最高級のベルベットのソファが優雅さを際立てる。
 中央の漆黒の大理石テーブルには銀の燭台が並び、蝋燭の光が温かみを添えていた。
 ユリアーナはご機嫌な様子で、そのソファに腰掛けていた。
 対面には、漆黒の甲冑を着た大柄な騎士がひとり、臣下の礼を取って報告をしている。

「エリーアスの客人として、アーベル家の者が王城に滞在するのね」
「はい。エリーアス殿下付きの侍女に話を聞いたところ、アーベル家の次男と親しい間柄で、愛称で呼び合うほどの仲だそうです」
「ふーん」
「特に怪しい点は見当たりませんでした」

 甲冑の男は頭を垂れたまま答えた。
 ユリアーナは、テーブルに置かれた銀の燭台を見つめながら、微笑を浮かべた。

「そうなのね。アルベルト様もご一緒なのかしら?」
「はい。それにディアーナ様も滞在されるそうです」
「ディアーナ? どうしてあの小娘がまた王城に戻ってくるの! せっかく追い出してやったのに、本当に厄介な存在だわ」

 ユリアーナは苛立ちを隠せず、大理石のテーブルを指で叩いた。
 その音が室内に響き渡り、銀の燭台が微かに揺れた。
「失礼しました」と甲冑の男はすぐに頭を垂れ、謝罪した。
 ユリアーナは指を止め、首をかしげて、不服そうな顔で続けた。

「それで、どうして?」
「アーベル家の四男ジークベルトの婚約者として滞在の許可が下りています」
「ジークベルト。アルベルト様が溺愛している弟……」

 ユリアーナはソファに身を預けながら、考え込んだ。
 しばらくして、彼女はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見つめた。

「手に入れることはできる?」
「仰せのままに」

 漆黒の甲冑が不気味に光り、男が深々と頭を下げた。
 その瞬間、部屋の空気が一変した。甲冑の男は剣を抜き、誰もいないはずの壁に矛先を向けた。

「見事だな」

 壁の中から黒いマントに覆われたひとりの男が現れた。
 口元を隠したその男は、鋭い目つきで甲冑の男を見つめる。

「あら? ザムカイトの首領がわざわざ来るなんて光栄だわ」

 ユリアーナの言葉を聞き、危険がないと判断したのか、甲冑の男は剣を収めた。
 マントの男はその様子を見て、目を細めた。

「漆黒の甲冑アイゼン侯爵を手懐づけたのか」
「うふふ、これでもだいぶ苦労したのよ。初めは魅了を使いすぎちゃって、男性的な話し方でないと話を聞いてくれなかったのよ。でも、最近やっと普通に話せるようになったの」

 ユリアーナと男の視線が交わる。
 男の目が冷たく光り、部屋の緊張感が一層高まる。
 やがて、男がフッと鼻で笑い、冷ややかな声で言った。

「依頼したものを届けに来た」
「まぁ、さすがサムカイトね、仕事が早くて助かるわ」

 ユリアーナは窓辺から離れ、マントの男に近づく。
 手を差し出してそのものを受け取ろうとすると、男は一歩後退し、鋭い目つきで彼女を見つめた。

「無償で渡すきはない」
「どういうことかしら?」

 ユリアーナは眉をひそめ、男の反応を探るように視線を合わせた。

「俺の質問に答えろ。闇使いのお前が隷属もせず、どうやって光の精霊魔法を使用できるようになった?」
「なにかの取引かしら? わざわざあなたの契約を解除してあげたのに?」

 ユリアーナは首をかしげ、無邪気な笑みを浮かべる。

「わかりきった嘘をつくな。お前にそのような力があったのなら、すぐに我々を手中に収めていただろう」

 男はあきれたようにため息をつき、頭を振った。

「うふふ、残念。騙されないわね」

 再びふたりの視線が交わり、緊張が高まる。ユリアーナは一瞬の沈黙の後、口を開いた。

「神に魂を捧げたのよ」
「魂だと?」
「百人分の魂をね」

 ユリアーナは愉快そうに笑い、その笑みが部屋の冷たい空気に響いた。

「王女のお前が手を出すには難しい人数だろ」
「うふふ、簡単なことよ。孤児院がひとつ消えただけよ。誰も疑いはしなかったわ」
「アーベルの倅と逢引きしていたあの礼拝堂か、上手くやったもんだな」
「人の逢瀬を覗くのはやめてよね」

 ユリアーナは軽く肩をすくめ、呆れたように言った。

「気に入っているようだな」

 男の問いかけに、ユリアーナは黙って微笑んだ。

「いいだろう。報酬だ」

 男がユリアーナに腕輪を渡すと、闇の中に溶け込むようにその場から忽然と消えた。
 ユリアーナは腕輪を受け取ると、その冷たい感触を楽しむように指先でなで、すぐに装着した。

「これで混合魔法が自在に操れるようになるのね」

 妖艶に微笑みながら、彼女は腕輪の輝きをじっと見つめた。

「能力をお試しにはならないのですか」

 部屋の隅から、影のようにアイゼンが静かに姿を現した。

「心配いらないわ。ザムカイトは依頼を完璧にこなす組織よ」

 アイゼンのどこか不安そうな顔を見て、ユリアーナが肩をすくめる。

「実例ならあるわ。お花畑にかけた混合魔法も、ザムカイトの魔道具を使って完璧に成功したわ。魔剣も見事な出来栄えだった」
「そうであれば、かまいません」

 アイゼンがうなずいた瞬間、彼はすでに扉の前に立っていた。
 まるで予感していたかのように、扉がノックされる音が響いた。
 扉を開けると、そこにはひとりの近衛騎士が立っていた。

「ユリアーナ殿下、トビアス殿下が面会を希望されています」
「お断りしてちょうだい」
「よろしいのですか?」

 近衛騎士は驚いた表情で聞き直した。
 まさかユリアーナが断るとは思ってもいなかったのだ。

「ええ、どうして驚いているの?」
「いえ、失礼しました」

 慌てて頭を下げ、部屋をあとにしようとしたところで、ユリアーナに腕を掴まれた。

「待ちなさい」
「はい、他になにか?」

 近衛騎士は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、ユリアーナを見つめた。
 ユリアーナは冷たい目で彼を見据え、ゆっくりと口を開いた。

「トビアスが王族でないと証言した私に、直接本人と会わせようとするなんて、それが近衛の判断なのかしら?」

 彼女はそう言いながら、掴んでいた腕を冷たく放した。
 その瞬間、腕輪が微かに輝き、近衛騎士の瞳が濁った。

「いえ、そう言った意味……申し訳ございません。すぐに対処します」

 近衛騎士はユリアーナに臣下の礼をし、一歩下がって部屋を退出した。
 その姿を見て、ユリアーナは満足そうに笑う。

「うふふ、効果抜群ね」
「魅了をお使いに?」
「そうよ。この腕輪は混合魔法の補助だけではなく、私に不足していた精霊魔法の力を補ってくれるのよ」

 ご機嫌な様子でそう言うと、ユリアーナは最高級のベルベットで覆われたソファに戻り、その柔らかな感触を楽しむように座った。

「ねぇ、あの子はいつ動くのかしら?」

 彼女は腕輪の輝きを一瞥し、妖艶に微笑んだ。