エスタニア王国、王太子の執務室。
 そこには、王太子であるマティアスが、苛立った様子で、側近を問い詰めていた。

「どうして、私に報告がない」
「トビアス殿下から、武道大会開催中はいらぬ心配はさせないようにと、伝達が回っておりました」

 側近の言い訳に、マティアスが怒りに任せて、『バンッ』という大きな音を立てて机を強く叩く。

「だからといって、陛下の容体が急変したとの報告がないとは、言い訳にもならない。私はこの国の王太子だぞ。療養中の陛下に代わり、国を治める者だ」
「申し訳ございません」

 側近が頭を下げて謝罪する姿を見て、マティアスの胸が痛む。
 自分が成人していないから、他の勢力に侮れるのだと理解していた。バルシュミーデ伯爵が反乱の責をとらされたのも、自分に力がないからだと責めていた。
 成人まで、あと三年。短いようで長い。
 マティアスは、内乱が避けられないと考え、そのための準備を密かに進めていた。
 しかし、彼は国王の病気がこんなにも早く進行するとは予想していなかった。彼は自分の考えが甘かったことに気づき、唇を噛む。

「もういい。すぐに陛下と面会する」
「なりません。陛下の寝室は、何人も寄せ付けられません」
「何を言っているのだ」

 マティアスは側近の言葉を聞いて、その内容が信じられず目を疑った。
 国王の急変ではなく、国王の寝室で何かが起きたのだと、マティアスは瞬時に理解した。
 マティアスは執務室の椅子から立ち上がり、足早に部屋を出ようとした。しかし、彼の側近たちは彼を引き留め、「殿下、行ってはなりません」と言った。
 彼らの必死な形相に、ただ事ではない何かが起きたとわかる。
 それでもマティアスは、王太子として国王の寝室に行き、その目で状況を見極めなければならない。

「道を空けろ。これは命令だ」

 マティアスの威厳に満ちた声が部屋に響き渡る。
 彼の姿勢は堂々としており、側近たちはそれに従うように、道を空けた。

「殿下、これ以上は近づいてはなりません」

 国王の寝室を守る近衛騎士が、強い口調で静止を促した。
 マティアスの前には、闇に包まれた国王の寝室があった。暗闇が視界を妨げ、中の様子を見ることもできない。

「これはいったい、どういうことだ」

 マティアスの困惑に対して、現場を見分していた宮廷魔術師が説明する。

「陛下の寝室を中心に、全方位で闇魔法の『漆黒』が使用されています」
「『暗闇』の上位か。解くにはどれぐらい時間を要する」
「わかりません。現在、闇魔術師をくまなく捜している状況ですが、『漆黒』は闇魔術師でも、使用できるものが限られております」

 宮廷魔術師の説明を聞いて、マティアスは、ぐっと言葉を飲み込んだ。
 ここで彼を問い詰めたところで、事は変わりない。そう自分に言い聞かせて、マティアスは心を落ち着かせる。

「陛下の容体が急変してから、どれぐらいの時間が経った」
「一週間前に侍従が陛下の異変に気づき、聖魔術師が寝所を訪ねたとあります。その後治療を続け、今朝、急変したとの記録です」

 側近が記録を見ながら、マティアスに答える。

「それに立ち会った者は」

 マティアスの問いかけに、側近は一瞬目を逸らし、少しのためらいの後に口を開くと、「トビアス殿下です」と静かに答えた。

「そうか、兄上が立ち会ったか……」

 そう言ったきり、マティアスは沈黙した。
 彼の表情からは、明らかに動揺していることが伺えた。その様子を見て、側近が彼の気持ちを察して、優しく声をかけた。

「殿下、そろそろ戻りましょう。明日の武道大会の決勝に影響がでます」
「決勝は、延期する」
「それはなりません」
「なぜだ。主催国の国王の命の期限が迫ってる状況だ。各国はそれを受け入れるだろう」

 側近は首を横に振り、真剣な表情で、「主催国である我々が、強行日程を提案し、各国に通達したのです」と、同意を求めるようにマティアスへ話し始める。

「多くの国が、この強行に対して我が国へ不信を募らせています。ここで延期となれば、さらに印象を悪くし、我が国の信用は地に落ちます。強いては、殿下の王太子としての地位が危ぶまれます」

 側近の言葉に、マティアスは苦虫を嚙み潰したような表情をする。
 彼は深く考え込み、やがて口を開いた。「では、どうすればいいのだ?」と不安気な声で問いかけるが、誰もそれに答えることはない。
 彼の側近たちは、ばつが悪そうな様子でマティアスを見つめていた。その様子に耐えかねたマティアスは、声を荒げて叫んだ。

「兄上はすべてを知った上で、武道大会の日程を強く勧めたのだな。これは兄上のさく」
「殿下! これ以上の言動はお控えください。証拠がございません」

 側近たちは慌てて、マティアスの言葉を遮った。彼らは必死な様子で、マティアスの怒りを鎮めようとする。

「証拠だと、現にいま目の前で、父上が……」

 マティアスは肩を落とし、静かな口調でうな垂れる。
 彼の十三歳の嘆きに、周囲の者たちはかける言葉が見つからず、ただ黙って立ち尽くしていた。
 そこへ、エリーアスが颯爽と現れた。彼の変わりように周囲の人々が息をのむ。
 エリーアスは従者しか連れておらず、その姿勢は決意に満ち溢れている。彼の目には強い意志が宿っており、その存在感は圧倒的だった。

「マティアス、君は武道大会へ行きなさい」
「エリーアス兄上。しかし……」
「もう手遅れだ。陛下の衰弱具合を考えれば、もって数日だろう」

 エリーアスは、淡々とした表情で、陛下の衰弱具合が深刻であることを語る。
 彼の声は静かで落ち着いており、彼が話す内容は事実に基づいていることがマティアスに伝わった。
 マティアスは深い悲しみと絶望の中で、表情を歪める。その様子に気づいたエリーアスが、マティアスの肩をぐっと引き寄せ、優しく抱きしめた。
 そして彼の耳元で、「ここは私が必ず守る。安心して武道大会へ行きなさい」と、諭した。
 敵対勢力だと認識していたエリーアスの行動に、困惑するマティアスだが、彼の胸の中はおのずと安心ができた。
 これまで、エリーアスとの接点はほとんどない。彼が無関心を貫いていたため、マティアスは彼に近づこうとはしなかったからだ。
 しかし、今ならエリーアスを信頼することができる。マティアスは彼の腕の中でうなずいた。
 それを確認したエリーアスは抱きしめていた腕の力を緩め、覚悟を決めた表情でマティアスを見る。

「すべてを終えたあと、必ず戻ってきなさい」
「はい。エリーアス兄上」

 エリーアスの力強い言葉を受け、マティアスは泣きそうな顔を引き締めて答えた。
 その表情を見て、エリーアスが優しく助言する。

「マティアス、笑うんだ。平然と笑って勝者の健闘を称えておいで」
「はい。エリーアス兄上」

 マティアスの不自然な笑顔は、エリーアスの心を強く痛めた。
 だけれど、それでいいのだと、エリーアスは思う。
 王族として、国家の主として、これ以上他国に醜態を見せることはできない。これが、未来のエスタニア王国のためになると確信していた。

 そしてエリーアスは誓う。
 兄と敵対することを受け入れたうえで、弟を必ず守ると。