競技場の廊下で、俺は足を止めた。
 並んで歩いていたハクがそれに気づき、声をかける。

〈どうしたの?〉
「本当に喜ぶのかなってね」
〈アルベルトは、すごく喜ぶ!〉
「そうだよね」

 ブラコンである兄が、大喜びする姿を簡単に想像でき、俺は再び足を進める。
 ただ、胸騒ぎともよべるなにかが、俺の中で騒いでいた。
 選手控え室に近づくにつれ、それが一段と大きくなる。
 気持ち悪いな。
 なんだろう。この感覚。

〈ジークベルト!〉

 ハクの切迫した声で、その存在に気づいた。
 選手控え室の途中の廊下に、ひっそりと彼はいた。
 壁に寄りかかり、顔は青白く、息も絶え絶えで、今にも気を失いそう……。
 いや、すでに生気は失せ、死にかけていた。

「医療班は、なにをしているんだ!」

 このような目立つ場所で、一刻を争う事態の選手を放置しているなんて、信じられない!
 しかし、彼に近づこうとするも、なにかに阻まれた。

「魔道具?」

 即座にヘルプ機能へ指示し、魔道具の調査をしてもらう。
 その時間が、とても長く感じる。
 すぐそばで苦しんでいる彼に、なにもできないでいる自分。
 焦燥感を抑えながら、ヘルプ機能の調査結果を待った。

 俺たちと彼を阻む壁は、多様な魔法が施された高度な魔道具から造られた守りの壁であることがわかった。
 現在その魔道具は、『隠蔽』と『守り』、『癒し』が発動している。
 しかし、『癒し』の効果が、ほぼ彼に効いていないことが判明した。
 彼自身が受けた傷が、魔導具作成者の『癒し』より深いのだ。
 その上、高度な『隠蔽』と『守り』が、彼の体を覆っているため、常人には発見されないし、守りの壁で近づくこともできない。
 さらに彼自身が、魔道具を身に着けて使用しているため、本人の意志のもと解除する必要があった。
 厄介な状況に、俺は一度深く目を閉じた。

「君、大丈夫かい?」
「……っ」

 俺の呼びかけに、若干意識があった彼は目を見開く。
 俺の姿を凝視して、口を開こうとしたが、途中でやめてしまう。
 彼のその姿に、俺は決断する。

「魔道具を自力で解除するのは、難しそうだね。一刻の猶予もないし、命に関わることなので、大目にみてね」

 彼の返事はないが、一応許可は取ったと思うことにする。
 心配気に俺の行動を見ていたハクのそばで、魔力循環を高めていく。
 彼の胸にある『ひし形のペンダント』が魔道具だ。
 あれを壊す。
 魔道具を壊すのは簡単だが、問題は目の前の『守り』の強度がどれぐらいかだ。
 見誤ればペンダントどころか、彼ごと壊すことになる。
 嫌な汗が、ジワジワと額からわき出てくる。緊張で喉が渇く。
 魔力制御をもっと上げておけばよかったと、後悔した。
 帰国したら基礎を鍛え直そうと心に決める。

 ――数十分後。
 彼を囲んでいた『守り』が、音もなく消える。
 パッキン。
 ペンダントが粉々に割れた。
 俺がゼェゼェと、荒い息を整える間に、ハクが彼のそばに駆け寄る。
 彼のなにかが、ハクの琴線に触れたようだ。
 じっと、目で俺に訴える。
 俺は静かにうなずき、「大丈夫だよ」とハクの頭をなでた。
 その意味を読み取ったハクが、嬉しそうに尻尾を上げ、俺の手に頭を擦りつける。

 俺も、このまま医療班に任せるのは、難しいと感じていたのだ。
 躊躇なく聖魔法の『癒し』を無詠唱で施す。
 無詠唱であれば、魔力の痕跡がほぼ残らないらしい。特に癒し系の魔法は、当事者同士でしかわからないようだ。
 もちろん叔父クラスの魔術師であれば、無詠唱でもその場の魔力で、使用した魔法がわかるようだが、叔父クラスの魔術師がそうそういるとは、思えない。

「……!?」

 彼が、驚いた表情で、身体を確認する。
 俺の聖魔法は、レベルは低いが、効果は高いはずだ。
 さきほどまで、呼吸もままならなかったのだ。
 劇的な変化に驚くのもうなずける。

「他言無用でよろしく! ハク行くよ!」
「ガゥ!〈よかったな!〉」

 これ以上そばにいて、追究されたら厄介だと、すぐさま彼の前から立ち去る。
 彼が、何か言葉を発していたが、俺たちに届くことはなかった。


 ***


「ジーク、遅かったね」

 ギクッと、わかりやすいぐらいに肩を動かし、声のした方へ身体を動かす。

「アルたちは、もう帰ったよ。ジークの感想を聞けなかっと、アルが、ひどく落ち込んでいたけどね。それで、今日は何をしたのかな?」

 妖艶に微笑む貴公子な叔父に『あれ? これ? 結構お怒り?』と、内心冷や汗をかく。
 別に悪いことをしたわけではない。命を助けただけだと、伝えればいいのだ。
 だけど『いまは誤魔化すんだ』と、頭の中で警報が鳴り響く。

 俺たちは、彼を助けたあと、選手控え室へ急いだが、すでにアル兄さんの姿はなく、人の姿もまばらで、本日の最終試合も終了していた。
 これはやばい! と、焦った俺は、慌てて観戦席に戻ったが、あれだけ熱狂していた人々の姿も声もなくなっていた。
 魔道具の破壊に時間がかかり過ぎたのだ。
 唖然と突っ立ている俺に声をかけたのが、叔父だった。

 素直に話した方がいい。叔父に隠し事なんてできないんだから……。
 だけど、俺の直感は『いまは話すな、誤魔化せ』と、言っている。
 俺が、どうしようと悩んでいるそばで「ガウッ〈ヴィリバルト〉」と、隣にいたハクが、叔父に訴えだした。
 その内容は『ハクの我儘に付き合っていたら、アルベルトを迎えに行くのが遅れた』という、バレバレの嘘をついた。
 ハクの説明に叔父が「へぇー。ふーん」と、相槌を打ちながら、答えていた。
 我儘の部分で、叔父の片方の眉毛が上がったのを、俺は見逃さなかった。

「ハクの説明はわかった。我儘を言ったとの認識があるのなら、罰は受けないといけないね」
「ヴィリー叔父さん!」
「ジークは、黙っていなさい。これは私とハクの問題だ」
「ガウッ〈そうだ〉」

 叔父を肯定するようにハクが俺を見上げる。
 その瞳からハクの強い意志を感じた。
 ハクの頭に手を置き『ありがとう』と声にださない感謝をこめる。

「ですが、ぼくはハクの飼い主です」
「……。では、ジーク。当分の間、バルシュミーデ伯爵家で、謹慎をしなさい。もちろんハクも一緒にだ」
「謹慎?」
「そうだよ。当分とは言わず、期限を切ろう。この武道大会の予選が終わるまでの間にしよう」
「なぜですか?」
「遊びに来たのではないんだよ? マンジェスタ王国の副団長として、規律を乱す者は、厳しく対応しないとね」

 叔父のもっともらしい言葉に、俺を遠ざけたいなにかがあるのだと勘づくが「わかりました」と、ここは素直に返事をした。
 ハクの不安気な瞳が俺を見上げる。
 これでいいんだよと、ハクの頭をなで、俺たちは競技場をあとにした。