「とうさま!」

 子供独特の小高い声が、森の中で響く。
 先頭にいたバルシュミーデ伯爵が、隊の列から外れ、一直線に声の主の方へ走っていく。
 伯爵からは、ここ数日醸しだされていた威圧感が消え、息子の無事に安堵する父親の顔となっていた。
 その後方で、ニコライの『生涯の主』になるであろう人物が、白と青の二匹に押し潰され地面に伏せていた。
 その姿に、ニコライは胸をなでおろした。

 ジークベルト・フォン・アーベル

 現在の護衛対象であり、バーデン家の恩人だ。
 類い稀な才能の持ち主でもある。
 本人は隠しているつもりだが、周囲にはバレバレで、アーベル家の人々が影ながらジークベルトを支えている。
 老若男女、種族問わず人を惹きつける魅力もあり、無下にできないお人好しの性格から厄介事をたびたび背負う、器用馬鹿人誑しの苦労人だ。
 ニコライとの出会いは、白の森。
 テオバルトの腰にも届かない身長で、必死にテオバルトの歩幅に合わせてヨタヨタと歩く姿は、ヒヨコのようで愛らしく、ニコライに庇護欲を掻き立てさせた。
 際立った容姿に、特徴的な紫の瞳と銀色の髪が印象を濃くし、幼児とは思えない完璧な挨拶に、当初の目的を忘れ、興味が湧いたのをニコライは鮮明に覚えている。
 そして、同行したホワイトラビットの戦闘で止めを刺された。
 戦闘能力の高さと才能に度肝をぬかれ、ニコライが生涯勝てないと戦わずして負けを悟った相手でもある。
 ニコライの記憶に、ジークベルトとの初対面の印象をより濃く植えつけたのは、そのあとに起こった出来事が大きく関係している。
 ホワイトラビットの同行後すぐにテオバルトに呼び出され、警告を受けたのだ。
 それはあまりにも衝撃だった。

「ニコライ、君を信じている。ジークの能力は他言無用だ。万一漏れることがあれば、僕は君を抹殺する。君が僕の敵になることはないと、信じているよ」

 人格者であるテオバルトが、殺気を隠さずにニコライに警告と言う名の脅迫をした。
 親友からの抹殺宣言に、動揺がないはずもなく、彼は言葉を失った。
 正に青天の霹靂とはこのことだった。

 ふと、ニコライは思う。
 俺がテオと同じ立場であれば、セラを守るために同じ宣言ができるだろうか。
 しかし、すぐに考えることをやめる。
 仮説を立てても、実際の立場でなければ分からないことが多い。
 そう思うと、考えること自体が馬鹿馬鹿しくなったのだ。
 この件は『重度のブラコンが起こした過保護な警告だった』と、ニコライは片付けることにした。

 その後、テオバルトの心配をよそに、ジークベルトは、その能力を発揮する。
 本人は一生懸命隠そうとしているが、放たれる魔法の異常さを本人が自覚していない。
 人の苦労も知らず、鈍感すぎるテオの弟に、ニコライは苦笑いしかでない。
 テオバルトとは、暗黙の了解でジークベルトを守る方向で動いていた。
 もうこの時には、ニコライの運命は大きく変わっていたのだと今になって、ニコライは自覚した。
 その後も途切れることなく関係は続き、ジークベルトは、ニコライの妹セラを治療できる唯一の人物となった。
 バーデン家に忠実だった侍女のハンナ、その夫のヤンも、ジークベルトに心を許し、セラの治療を任せている。
 そしてなによりセラが、ジークベルトへ好意を示していた。
 その現実を受け入れつつも、ジークベルトを『生涯の主』として仕えるか、ニコライは迷っていた。

『アーベル家の専属でいい。答えを出す必要はない』
『迷う理由がわからない。答えは一つだけだ。君の中にすでにあるはずだ』

 ニコライの葛藤を知ったギルベルトは、ニコライに猶予を与えてくれたが、赤の魔術師であるヴィリバルトがそれを許さない。

『癪だが、赤の言葉は正しい』

 ニコライの主は、アーベル家当主ギルベルト、次期当主アルベルトではなく、ジークベルトなのだ。
 ニコライ自身が肌で感じ、心はすでに決まっていた。
 だが、迷いがでた。
『ジークベルトに、俺は必要なのか』と、いつもそこで立ち止まる。
 なにか問題が起きても、ジークベルトは自力で解決する。
 聡明さと秘めた力で前に進むその姿に、俺の存在意義はと。主に必要とされない護衛など護衛ではない。
 そうではないその確証が欲しい。
 エスタニア王国での護衛がいい機会になると思い、ニコライは気を引き締めた。
 迷いを吹き飛ばし、答えを出すと決意した矢先に起きた事件だった。


 ***


「ジークベルト!」

 叫びと共に伸ばした手は、虚空を掴んだ。
 ニコライをあざ笑うかのように、ジークベルトがいたその場所は、静かにただ砂が舞っていた。
 眼前で、ジークベルトが消えた。
 細心の注意を払っていたはずが、このザマだ。
「くそっ!」と、額に手をあて髪を鷲掴む。
 自身の行動の甘さに叱咤する。
 伯爵の子息ヨハンが、親善試合の結果に癇癪を起し、その場を走っていったのを見て、ジークベルトがそのあとを慌てて追いかけていった。
 主の行動を予測していたニコライも、距離を保ちつつ、ふたりを追いかけた。
 敷地内で会話をするふたり。だが、ヨハンの魔力暴走に拍車がかかっている。
 魔力暴走。
 魔力制御が未熟な子供に起こる症状だ。
 尊敬してやまない父親の敗北をヨハンは受け入れられないのだろう。
 頭では理解しているが、気持ちが追いつかないってことだ。
 気持ちは、すげぇー、わかるけどな。
 年齢もそう変わらない相手が、尊敬する父親に勝ったのだ。
 色んな意味で内心複雑なのだろう。
 ヨハンをこれ以上刺激するのは得策ではない。
 ここはジークベルトに任せ、ふたりとの距離をあけるべきだ。
 ニコライが、後退するそう判断した時、ヨハンの手元にある『移動石』に気づく。

「なぜ、ヨハンがそれを持っている!? ジークベルト!」

 ニコライが駈け出した時には遅く、移動石特有の光が辺り一面に広がっていた。


 ***


「すまない。護衛として失格だ」
「気に病むことはないよ。あの場合は致し方ない。私であっても対処はできないからね」

 ヴィリバルトの意外な気遣いに、ニコライの眉間の皺が深まる。
 ニコライは、なにかを耐えるように拳を握りしめ、俯いたまま言葉をつなげる。

「だが俺は、ギルベルト様にジークベルトの護衛を頼まれた。護衛対象が、眼前で消えるなんて失態、護衛として失格だ」
「君の性格からすれば、納得しないか。変な所、面倒だね、君」

 ヴィリバルトが呆れたような声を出した。
 その態度に、ニコライが憤慨する。

「当り前だろ! 俺は真面目に話をしているんだ!」
「雇主が、不問に処すと言っているんだよ? あぁ、エスタニア王国内での君の雇主は、兄さんではなく、私だからね。ジークの巻き込まれ体質は、本人から事前に説明があったから、策はとってある。ジークの命に危険が迫れば、身を守る程度にはね。なので慌てる必要はない。君も聞いていただろう? 『ぼくの体質でなにかに巻き込まれることがあれば、それはニコライ様の責任ではないので、処分などはしないで下さい』とね」
「それは……」

 事前に聞かされていたジークベルトの『巻き込まれ体質』を持ちだされ、ニコライは言葉に詰まる。

「甘すぎるとしても、これはジークの意志だ。ジークは、君のことを大事にしているし、とても信頼している。憎らしいくらいね」
「……」
「まぁ私の方が、君の数十倍は信頼されているけどね。さぁこの話は以上だ。しばらくすれば、ジークから『報告』が入るだろう」

 もう話がないと、ヴィリバルトがその場を退席する。
 閉じられた扉の前で、ニコライは、ヴィリバルトに一言も反論できなかった自身の情けなさにギリッと歯を食いしばる。
 ヴィリバルトの言い分は、筋が通っており、事後対策も完璧だった。

「だが俺は、何も策を講じなかった。赤は対処していたのに……」

 ニコライの拳が震える。
 物理的ではなく、間接的にでも対処の方法はあったはずだ。
 ジークベルトの護衛であるはずの俺は、何もしなかった。
 その事実が、彼をさらに苦しめる。

「なにが、護衛だ!」

 バンッと、壁を叩く音が、部屋に響く。
 ニコライの頭の中で『護衛失格。護衛失格──』との言葉がリフレインする。

「あぁ、そうだ。チビは、いつでも俺の前を走っていく」

 ニコライは、迷いの答えが見えた気がした。
 一番欲しくない確証が、近づいてくる。

「やはり俺は、チビには不要なのか──」

 その問いかけに、答えるものはいなかった。