「ここにもない……」

 分厚い本を前に、フゥーと思わずため息をつく。
 アン・フェンガーの迷宮より帰宅してから、アーベル家の書庫に足しげく通っているが、ディアーナが求めている情報はなかった。
 迷宮で獲得した称号『偽りの王女』。
 その説明は、偽った姿で国民の前にいる王女だった。
 ディアーナは、無意識のうちに胸もとにあるペンダントを掴む。
 たしかに私は、国民の前で先祖返りであるこの姿を隠している。
 我が国は、亜人への差別が色濃い。
 私が生まれた時、陛下が出産に関わった者、全員に箝口令を敷いたと聞いている。
 バルシュミーデ伯爵であるパルは、陛下からの勅命で、護衛騎士としてその場に立ち会っていた。
 彼もまた王家の隠し事を知っている秘密の共有者のひとりだ。
 王家の秘密、ひとつは先祖返りをした者が王位継承権第一位となることだ。
 しかし、私の先祖返りは、陛下が公表をしないと決断されたため、ないものとなった。私は正妃の第二子のため、王女ながら王位継承権があるだけなのだ。
 そして最大の秘密は、王家に亜人の血が流れていることである。
 私の先祖返りは、まだ亜人への差別がなかった数十代前の後宮にいた獣族の妃の血である。
 現在は禁止されている近親婚があった時代であり、王家の系図でもその血筋が流れていることがわかる。
 私が王家の秘密である『先祖返りをした者が王位継承権第一位』を知ったのは、トビアスお兄様が誰かと話をしていたのを偶然耳にしたからだ。
 トビアスお兄様は、私の先祖返りをご存じではない。
 私のお母様と第一側室エレオノーラ様は、当時から犬猿の仲だった。
 それを危惧した陛下が、出産までの間、エレオノーラ様をご実家へ帰郷させていた。
 お兄様たちも共に帰郷したため、私の秘密を共有した者は、ごくわずかであり、いずれも陛下への忠誠心が高い者だった。
 この情報が漏れ、トビアスお兄様の耳に入るものなら、私は、きっとここにはいない。
 トビアス兄様が、亜人を毛嫌いしていたことは、とても有名な話だ。
 あの時のトビアスお兄様の激昂は、思い出すだけでも身震いするほど、常識を逸脱していた。
 ご自身の中に亜人の血が流れている事実と、嫌悪の狭間での心の葛藤が、表に出た嘆きの叫びだったのかもしれない。
 隠蔽マントを取り出し、なぜ裏迷宮の到達ボーナスがこれだったのか考える。
 偽りの王女もそうだが、隠蔽マントも意図されたような気がする。
 わからない。だけど、調べるきっかけにはなった。
 先祖返りした者がなぜ、王位継承権第一位となるのか。
 今まで疑問に持たなかったのが不思議だった。その事実をそうなのだと素直に受け入れていた。

「こちらにいましたか」
「アルベルト様、いかがなさいましたか?」

 突然の呼びかけに体がビクッと反応するが、身に染みた所作で、動揺を見せないように対応する。

「えぇ……歴史書ですか?」

 用件を言いかけたアルベルトが、ディアーナが手にしていた分厚い歴史書を見て問いかけた。

「はい。エスタニア王国の歴史について調べておりました。お恥ずかしい話、本国の歴史をあまり存じません。少し興味を惹かれることがありまして、調べております」

 ディアーナの説明に、アルベルトの顔がほんの一瞬動いた。

 アーベル家の屋敷に賓客として招いてからの王女は、アーベル家の教育に加え、ジークの婚約者としての対応。お茶会や魔法修練の日々だったはず。
 アン・フェンガーの迷宮から帰宅後、書庫へ通っているとの報告を受けていたが、迷宮の刺激から、魔法書で知識を深めているとばかり思っていた。
 まさか、ご自身が本来、王位継承権第一位であるとご存じなのか。
 いや、バルシュミーデ伯爵の話では、王女はそれを知らされていない。
 先祖返りはなかったとの王のご意向を暗黙の了解で認識されており、慎ましやかに第三王女として活動されていたと伺っている。
 ここ数日の報告をアルベルトは頭の中で目まぐるしく回転するが、興味を惹かれるような行動はなかった。
 考え過ぎか……。
 王女と歴史書があまりにも不釣り合いに見えたが、王族や上位貴族は、自国や他国の歴史を徹底的に教育される。王女は七歳、既に教育が始まっているはずだが、ご本人が無知であると申されている。
 我が国で過ごされている間に、自国の歴史に触れる何かを感じとられたのか。
 本当に?
 いや下手な詮索はしないでおこう。
 聡明な王女だ。こちらが詮索することで、疑問を持ち行動に移されたらまずい。
 だが、心には留めておこう。

「そうですね。他国の歴史などの本はこちらの棚ですね。我が家の書庫は、近隣諸国の歴史書は多くありますが、エスタニア王国の歴史が記載されている本は少ないですね」
「ありがとうございます。実は我が国にも古い迷宮があります。今回の裏迷宮の件で思うことがありまして、歴史を調べておりました」
「あぁ、なるほど」

 ディアーナの返答に、やはり聡いなとアルベルトは感じる。
 この短時間で、アルベルトの思考を読み取り、疑問を払拭するために、調べている内容を故意に伝えたのだ。
 その言葉を鵜呑みにはしない。
 幼いながらも彼女は、王族だ。 彼が常々、腹の探り合いは、王族としての嗜みだと語っていたことを思いだす。
 日頃の行動を考えれば迷惑極まりない馬鹿な友人だが、役には立つ。
 今は素直に引き下がろう。
 王女周辺を警戒するよう指示を出すと決め、本来の目的を告げる。

「じつは──」

 ディアーナは話を聞きながら、失敗したわと、アルベルトの対応を見て悟る。
 嘘は伝えていない。
 我が国に古い迷宮があるのも事実であるし、裏迷宮で先祖返りについて思うことがあり、王家の秘密の手がかりが歴史にないかを調べていたのだ。
 アルベルト様を甘く見ていたわ。
 彼の近くにこの国の王太子が、そばにいたことを思い出す。
 これで私の周辺は警戒される。どちらにしても私が求めている情報は、ここにはないようね。
 これはもうジークベルト様にご相談するべきね。私には手にあまる内容だったようだわ。
 私自身のことなのに皮肉なものね。
 ディアーナは自嘲気味に微笑みながら、アルベルトの話に集中した。