緑の光の前で各々装備の最終確認をする。今から裏迷宮を脱出する。
 昨日の収穫と報告に、テオ兄さんたちは半信半疑だったが、『魔力水』を飲んで自分のMP値が上がっていることに驚愕していた。

「チビ、すげー発見だぞ」
「たしかに大発見だけど、一回のみしかMP値が上がらないとなれば、裏迷宮のセーフティポイントのハイリスクを考えるとなんとも言えないね。魔法砂、魔草、魔木は魅力的ではあるけどね」

 興奮するニコライをよそにテオ兄さんが冷静に分析していた。
『魔力水』を飲んだMP値の上昇数は、テオ兄さん9、ニコライは5、ディアは7、エマは1だった。
 エマは、本当に期待をはずさないよね。

「皆、用意はいいかい? これから一気に階層スポットを目指すよ。前衛は、ジークとハク。中衛は、僕とディアーナ様とエマ。後衛は、ニコライとスラに任せる。それとジーク、各々の戦闘中に新たな魔物が出現したら『報告』を頼むよ」
「はい。魔物の種類と数をお伝えします」
「戦闘指示は僕が出す。ただし混戦中に魔物が出現した場合は、各自の判断に任せる。昨日より戦闘時間が長くなるため、ステータス確認は怠らないように。一瞬の判断ミスが命の危機となるからね」

 全員がうなずき合う。そしてテオ兄さんの合図で、俺とハクは、緑の光の外に出た。
 一瞬にしてセーフティポイントは消滅し、暗い洞窟内に戻る。
 不思議な光景を目の当たりにして、全員の足が止まるが、空気を読まない裏迷宮は、前方と後方にオーク十匹を出現させたので、全員が戦闘態勢に入る。
 これから人生最大の戦闘が始まるのだと思うと、俺は、不謹慎にもこの状況を楽しんでいた。
 追い込まれれば、追い込まれるほど楽しいと感じてしまう思考に苦笑いして、どのように攻略するかと考えるだけで気持ちが高揚する。
 俺たちは前に進むため、出現したオークを仕留めに入った。

「後方からオーク二十匹出現。ニコライ様は今別のオーク十匹と戦闘中です。応援を頼みます。ハク前方左側から、ゴブリン五十匹の出現だよ。魔法は温存で行こう。ここで待機してゴブリンを仕留めよう」
「ガウ!〈わかった!〉」
「なっ!? すぐ前方からオーガ三十匹が出現するよ。ゴブリンが合流するまでに仕留めるよハク!」
「ガウ!〈任せろ!〉」

 階層スポットが近づくにつれ、魔物の出現率が高く数も増えた。
 これは思っていたより骨が折れる。しかも、後方からの魔物の襲撃で、ニコライとスラが、隊列から遅れをとっていた。そこにテオ兄さんたちが加勢している状況だ。
 オーガの心臓を突き刺し、いったん合流するべきだと考える。もし両断されれば面倒なことになる。
 現に俺たちとテオ兄さんたちの間は、五〇メートルほど空いている。
 ここに魔物が出現すれば厄介だ。
 オーガ三十匹がドロップ品に変わる頃、左側からゴブリンが登場した。
 相変わらずの異臭に、ハクも耳を下げる。
 ハクがさっさと倒そうと目で訴えているが、俺は頭を横に振る。
 これ以上、テオ兄さんたちとの距離を広げるわけにはいかない。
 だがゴブリンは、俺たちに戦闘を仕掛けるわけもなく、その場を動かなくなった。
 これはあきらかに誘導されている。
 ここで動けば中間点に魔物が出現すると直感し、警報を鳴らしていた。
 くそーっ、このにおいは判断を鈍らせる。
 ハクに目で合図を送り、もったいないが、ゴブリン相手に魔法を使うことにした。
『灯火』『氷刃』とそれぞれ魔法を放つ。
 俺は火の矢、ハクは氷の矢だ。
「ギャッ」との複数の声が聞こえると、ゴブリンたちは後ずさる。
 ここで逃げの選択かと様子を見ていると、その中から『疾風』が俺たちに向かって放たれた。
 ビュービューと、俺たちの横を過ぎ去る。
『守り』を展開していたため、無傷だったが油断した。
 異臭と大量のゴブリンで、ゴブリンメイジが三匹出現していたことに気づかなかったのだ。
 ゴブリンメイジは、風の魔法使いのようで、全身にローブを羽織っていた。
 初対面の魔物に興奮するが、知能はあまり高くないようだ。何度も『疾風』を俺たちに向けて放っている。
 魔力値の高い俺が展開した『守り』がそう簡単に破られるはずはないが、ゴブリンメイジたちは、なぜ魔法が効かないのか、考えに至らないようだ。
 これは戦闘前にMP値が尽きるのではと思った通り、『疾風』がピタッと止まる。
 それと同時に痺れを切らしたハクが、ゴブリンの団体へ突っ込み、あっけなく殲滅した。

「ガウゥー〈ごめんなさい〉」

 我慢ができず前に出たことを気にしているようだが、ポンッと頭をなで「助かったよ」と笑う。
 ここでテオ兄さんたちと合流すると伝えると、ハクが俺の腰にある魔法袋をくわえる。
 待機中に、前方のドロップ品を集めてきてくれるようだ。
 ハクは本当にできた聖獣だ。尻尾をユラユラ揺らしながら前方へ歩いていく。
 その間に『地図』で、魔物の数を把握する。
 新たな魔物の出現はない。
 おやっと思う。
 今まで間髪入れず魔物が出現していたが、それが止まっていたからだ。
 これはなにかの前触れか。
 階層スポットとの距離は残り三〇〇メートル、ゴブリンが出現した左側の通路にあるのだ。
 俺の勘では、ここからが本番だと感じる。

「ジーク、魔物の出現が止まったね」
「テオ兄さん、はい。止まりました」
「不気味だね。階層スポットはこの先かな」
「正面、左側の通路の先にありますが、距離にして三〇〇メートル。おそらくここからが本番です」
「だろうね。初級者の裏迷宮でよかったよ。ランクが低い魔物だけど数は暴力だね。これは裏迷宮を脱出できない冒険者が多々いるだろうね」

 テオ兄さんは肩をすくめるが、その顔には疲労が出ている。
 ディアーナたちをフォローしながら魔物を倒しているのだ。その疲労に感謝する。
 ディアーナとエマは、全身を縦に揺らしながら呼吸を整えている。
 言葉を交わす余裕もないようだ。
 戦闘に入って二時間、よくがんばっていると思う。
 そこに魔法袋をくわえたハクが戻ってきた。
 ハクから魔法袋を受け取り、前方の様子を確認する。
 ハクの話では、魔物の気配はなく、左側の通路の先に階層スポットが見えたとのことだった。
『地図』内でも、通路の途中に階層スポットが表示されているので齟齬はない。
 疲労困憊のディアーナたちを先に脱出させるべきだ。
『倍速』で進めばほぼ戦闘せずに済むのではないか。出現する魔物の数にもよるが、と考えている最中にニコライとスラが合流する。
 全員が揃うと同時に、前方にオーク八十匹、後方にオーガ五十匹出現する。さらに前方の左側通路でスライム百五十匹、ゴブリン五十匹、オーガ五十匹が出現していた。
 まだまだ増えるだろう。裏迷宮を脱出させたくない意図が読み取れる。
 増える前に突破だ!

「テオ兄さん、魔法で一気に殲滅します。後方のオーガとは距離がありますので、先を急ぎましょう」
「了解。頼んだよ」
「行きますよ。『疾風』」

 魔力制御で『疾風』の威力を上げ、オークを瞬殺する。すかさずハクたちに指示する。

「ハク、左側を先行して。魔法は解禁だよ。ディア、エマ『倍速』をかけるから、俺から離れず一緒に動くよ。階層スポットを目指すんだ」
「「はい」」
「ガウ〈わかった〉」

 俺の指示に、考えを読み取ったテオ兄さん、ニコライもそれに続く。
 スラが「ピッ!〈肉!〉」と叫んでいるが無視だ。
 ハクが先行し、ゴブリンとオーガに『氷刃』を連射し、スライムを『氷結』で凍らしている。すぐ目の前でオーク二十匹が出現するが、ニコライとテオ兄さんが剣を構え、瞬殺する。
 残り二〇〇メートル、オーク二百体が出現する。
 今までで一番の数だが『狂風』で俺が約半分を瞬殺する。
 仕留め損ねたオークはテオ兄さんたちに任せ、ハクを前衛に『倍速』で階層スポットの距離を詰める。
 再びオーク百匹、ゴブリン五十匹が出現する。
 同じパターンの出現に若干イラッとするが『狂風』で一掃し「ディア、エマ、先に脱出して」と指示する。
 ふたりはうなずき階層スポットを目指すが、その直前でゴブリンキングが出現する。
 ゴブリンキングは、ふたりに攻撃を仕掛けようとするが、間にハクと俺が入り、その攻撃を受け止める。
 ゴブリンギングの攻撃を抑えつつ「そのまま走って」と伝えるが、動く気配がない。
 ふたりとも足が震えていた。
 突然現れたCランクの魔物に恐怖し、気が動転しているのだ。

「ハク、ここ任せていい?」
「ガゥ!〈大丈夫!〉」

 力強い返事に、戦闘を離脱し、ふたりに駆け寄り、『聖水』を施す。
 足の震えが止まったことを確認し、ふたりの手を引っ張り階層スポットまで走る。
 すぐに心のケアをするべきだが、ここでの優先事項は脱出だ。
「ごめん」と言って、つないでいる手に力を込めると、ふたりとも握り返してきた。
 ハッとしてディアーナ、エマの顔を覗くと微笑んでいた。グッと熱いものがこみ上げてくる。
 あぁー。これは参った。俺の婚約者たち最高だ。
 階層スポットの前で、ふたりに『守り』を展開する。脱出先はおそらく魔物はいないはずだが、慎重を期すのは当然だ。

「では先でお待ちしております。ジークベルト様ご武運を」
「姫様は私が守りますので、ご安心ください」

 ふたりは階層スポットに手をかざすと、体が光り、その場から消えた。
 ふたりの脱出を後方のテオ兄さんたちに『報告』する。

 さてここからが本番です。
 魔物数は、この数分で大増加し、オーガ八十匹、オーク二百二十匹、ゴブリン百三十匹、スライム七十匹、ゴブリンメイジ五匹、ゴブリンキング一匹、オークキング一匹となっている。
 先ほどハクに任せたゴブリンキングは、すでに息絶えドロップ品に変わっているが、新たにゴブリンキングとオークキングが現れて戦闘中である。
 Eランク以下の魔物しか出現しなかったが、ここにきてCランク、中ランクの魔物の出現に気が引き締まる。ただ中ランクの魔物を複数出現させるのは無理なようだ。
 これも迷宮のランクによるのかもしれない。
 黒い剣を片手に『熱火』と唱え、火の魔法剣でオーガ三十匹を相手する。
 オーガ数匹に剣を振り、火が舞う。
 オーガたちが驚いている隙に一番奥のオーガの胸もとに近づき心臓を突き刺した。ドロップ品となり、剣が宙に浮いた瞬間、剣を四方に振りそばにいたオーガを切りつけ、剣圧から出た火が近くにいたスライムに引火する。
 やべぇー。スライムに引火した。
 ドロップ品の薬草を焼いてしまう。
 慌てて鎮火しようとするが、怒り狂ったオーガが道を塞ぐ。
 邪魔だ。
 伯爵に習った剣技で、縦横と次々とオーガを切りつけるが、未熟な俺の剣は致命傷とまではいかず、傷が浅い。
 ただ火の魔法剣での攻撃のため、傷口から火が燃え、徐々に全身を焼き、オーガたちは苦しみながらドロップ品に変わっていく。あれ、俺かなり残酷な攻撃をしていると気づいた。
 後で判明した内容だが『熱火』ではなく『灯火』などの低魔法を使用していれば、全身を焼くような結果にはならなかったとのことだ。
 結局、オーガ三十匹とスライム二十匹のドロップ品は、スライムに引火した影響でほぼ焼いてしまった。痛恨のミスである。
 気を取り戻して、次の獲物に移るが近くにいたのは、ゴブリンの団体だった。
 ゴブリン七十匹とゴブリンメイジ二匹がいるが、異臭を放っているゴブリンの団体へ突入する勇気は俺にはなかった。数匹ならまだしも、十数匹で威力が数十倍となったあのにおいは我慢できないのだ。
『熱火』を直接ゴブリンの団体に向けて放つ。
 オーガのように苦しむことなくドロップ品に変わるだろうと思っていたが、ゴブリンメイジが『守り』を展開していたため、威力が弱った『熱火』を受けることになる。
 オーガと同じく苦しみながらドロップ品に変わっていった。
 地獄絵図のようだった。
 今回のゴブリンメイジは少し知能が高かったようだが、それがあだとなった。
 俺が放った攻撃だけどね。
 なぜ風魔法ではなく火魔法を選んだのか。風魔法だと臭いが拡散されるからだ。
 異臭の元は消えるが、臭いはすぐには消えないからね。
 ちなみにゴブリンのドロップ品は、ゴブリンの石と剣である。ほぼゴブリンの石のため、火で焼けることはない。
 ゴブリンの石は、数を集め、錬金することで、無属性の石となるのだ。
 所持することで、無属性の魔法の威力が少し上がるアイテムとなる。

 魔物数も減ってきた。
 オーガ三十五匹、オーク百八十匹、ゴブリン四十匹、スライム四十七匹、ゴブリンメイジ二匹、オークキング一匹体だ。
 これ以上の増加はないようだ。

 ゴブリンキングは、オークキングの相手もしつつ、ハクが単独で仕留めたようだ。
 今はオークキングと戦闘中だが魔法は使用せず、裏迷宮で取得した戦闘スキルの爪スキルの攻撃力を試している。
 とても楽しそうである。
 ハクの野生の本能が開花しつつあるかも。
 モフモフでかわいければ、問題なしだ。

 テオ兄さんは、オーク五十匹の中心にいて、華麗に舞っている。
 この表現が一番わかりやすい。
 オークの喉もとに短剣を次から次へ刺しているが、テオ兄さんの周囲を白い風が囲んでおり、オークからの攻撃を止めている。
 見たことがない魔法に興奮するが、あれはテオ兄さんのオリジナル魔法かもしれない。
 今度、教えてもらおう。

 ニコライは、氷の魔法剣でオーガを相手にしていた。
 俺とは違いすべて一撃で仕留めている。
 その剣技は、遠目からでも威力があり、ひと振りで致命傷となっている。
 パワー系の剣士の実力だ。
 残りのオーガと、近場のゴブリン十五匹はニコライに任せよう。
 あれ? そういえばスラがいない。
 ニコライの肩にいたはずのスラの姿が見あたらない。
 まさかと最悪の事態が頭をよぎるが、ないなと結論づける。大方、オークの肉を確保するため、オークに単独で挑んでいたりしてと予想していると、俺の近くにいたオーク一匹が、オークの肉に変わった。
 案の定、オークの足もとに水色の個体を確認した。
「ピッ!〈肉!〉」との幻聴が聞こえる。
 俺の周りにいたオークたちが、いっせいにスラに注目する。
「ピッ〈ばれた 〉」と、スラがスライムの中に溶け込もうとするが、時すでに遅し、オークたちがスラの前に立ちはだかる。
「ピッー〈どけー〉」と叫んでいるが、無理だろう。

 助けるかと動こうとした瞬間、数十本の針が、オークたちに突き刺さる。
 オークたちはその針を忌々しそうに抜き、スラに攻撃する仕草をするが、ピタッと動きが止まった。
 そして「グゥッ〈くるしい〉」と一匹のオークが苦しみだすと、次々とドロップ品に変わっていく。
 これは、麻痺と毒だ。針の中に麻痺と毒を仕込んだのだ。
 そういえば、セーフティポイント内で、麻痺草と毒草をスラにせがまれて、何束か渡したのを思い出す。
 力ではかなわないので、頭脳プレイで倒すスラの強さに感心するが、「ピッー〈肉じゃないー〉」と、泣き叫ぶ声が聞こえた。
 そうだよ、スラ。
 オークのドロップ品は、肉だけではないんだよ。
 そこには複数のオークの角が残っていた。

 そして裏迷宮での戦闘は思ったよりも早く終結したのだった。



 一方その頃、裏迷宮を先に脱出していたディアーナたちは、戦闘の疲れを癒すためお茶をしていた。

「ジークベルト様たちが戦闘で大変だというのに、優雅にお茶を飲んでいるなんて本当にいいのかしら」
「姫様、疲労困憊に効くお茶ですよ。ジークベルト様からもなにかあった時はこれを飲んで体力を回復するようにと、指示されていたではないですか」
「そうね……。大丈夫だとわかっていも心配だわ」
「そうですね」

 エマの同意に、ディアーナがカップに口をつける。
 裏迷宮の転移先は、ジークベルトが発見した十二階層の隠し部屋だった。
 宝箱と階下につながる階段がある出入り口がない部屋である。
 ディアーナの『報告』魔法で調査し、ひとまず安全を確保したのだ。
 その部屋のど真ん中で、テーブルでふたり、ジークベルトたちの帰還を待っていた。

「それにしてもアーベル家は、太っ腹ですよね」

 エマがそう言って、腰にある『魔法袋』を指し示す。
 急な話題振りに、ディアーナは一瞬キョトンとするが、すぐにエマの気遣いに気づいた。

「そうね。空間魔法が使えるヴィリバルト様がいらっしゃっても、わたくしたち他国の人間にお手製の『魔法袋』を分け与えるなんてすごいことだわ」
「他国って、なにをおっしゃっているのですか。姫様は、ジークベルト様の婚約者ではないですか。もう身内だといっても過言ではありません。それに私たちはアーベル家に忠誠を誓いましたよ」
「そうね……。エマはジークベルト様の婚約者にはならないの?」
「どうして姫様は、婚約者となるようにすすめるのですか。私は正直わかりません」

 エマの困惑した表情にディアーナが真剣な表情で伝える。

「ジークベルト様は、大成なさる方だわ」
「それは姫様の勘ですか? それともアーベル家の至宝だからですか?」
「両方よ。もし、ジークベルト様がアーベル家の至宝でなくとも、その才能やお人柄で人々の中心にいるのは間違いないわ。どちらにしろ厄介なことも増えてくる」
「それは……」
「アーベル家の方針は、教育の中で学んだわ。恋愛至上主義であり、嫡男であっても血を重要視しない。稀な家系よ。数代前の当主の伴侶は平民出身だった。その数十代前は愛多き人で伴侶が数十人いたそうよ」
「ですが、ジークベルト様はそれを望んではいません」
「そうね。だけど周囲はそれを受け入れるのかしら。ねぇエマ、婚約の条件の中に側室の許可があったの。ジークベルト様は、婚約の条件が提示されているなんてご存じではないわ。周囲が用意したのよ。そう既に周囲の認識は、一夫多妻も考えているのよ」
「姫様……」
「それに、わたくしの婚約だって……わたくしが周囲にそう思わせるように仕掛けたの」

 ディアーナはそう言って、顔を顰める。
 その表情を見たエマが、それを否定するように叫んだ。

「しかし姫様は、ジークベルト様をお慕いしているではないですか!」
「そうよ。わたくしはジークベルト様をお慕いしているわ。だけど、ジークベルト様は、わたくしたちに好意は抱いて下さってはいるけれど、それは恋愛ではないわ。それを承知の上で、わたくしは婚約を迫ったの」

 ディアーナは、伏し目がちに言葉を続ける。

「エマ考えてみて、わたくしはエスタニア王国の第三王女よ。しかも暗躍の疑いを本国からかけられ、命さえ狙われている。普通なら婚約なんて受け入れないわ。だけど、優しいジークベルト様は、その背景を悟って、わたくしたちを守ってくださった」
 
 ディアーナは、今までエマに自身の婚約の経緯を伝えることはなかった。
 どうしても本国に帰る前にどうしても伝えておきたかったのだ。
 自身の狡猾さがわかり、エマに嫌悪されたかもしれない。
 それでも、現状のジークベルトとの関係を伝えておきたかった。

「もちろん。ジークベルト様にもわたくしを愛していただけるように努力するわ。だからエマ、ジークベルト様をお慕いしているのならば、この機会を逃してはならないのよ。今後ジークベルト様は、多くの素敵な方と出会うわ。だけどそれは今ではない。幸運にも私たちは、いまジークベルト様に出会えたの。ライバルが少ない状況で舞台に立つことすらしないなんて絶対に駄目よ。それにセラ様は、確実にジークベルト様の婚約者になるわ」
「セラ様がですか?」

 突然のセラの名前にエマは驚愕する。
 セラ様がジークベルト様の婚約者? 姫様の願望ではなくて?
 あまりに突拍子もないことに、エマの気持ちが追いつかない。

「セラ様のジークベルト様を見る目は、わたくしと一緒よ。それにセラ様の侍女ハンナの態度を見れば明白よ」
「姫様……。姫様がお嫌だとお伝えすれば、ジークベルト様は他に婚約者を作ることはなさいません」
「ねぇエマ。王族は側室をなぜもつかわかる?」
「次代を途絶えないためですよね」
「そうね。ジークベルト様も同じよ。本人が望んでなくとも周囲から固まっていくものなの。わたくしのようにね。近々セラ様は、婚約者となるわ。私はセラ様を歓迎する。同じ方をお慕いする者同士仲良く過ごしたいし、今後のジークベルト様の女性関係についても協力をお願いするつもりよ。セラ様は否とは申さないわ」

 エマは息を呑む。
 ディアーナは、どこまで先を視て行動しているのか。
 だけどとも思う。
 アーベル家の至宝であるジークベルト様。
 あのご家族が、その意志を無視するような行動をジークベルト様になさるだろうか。
 ディアーナの考えすぎではないか。
 側室が条件だったのは、王女であるディアーナに配慮したのではないか。
 もしも、ジークベルト様が成長した時に、ディアーナ以外の方をお慕いした時の保険でもあるのではないか。
 普段考えないことに頭が沸騰しそうになる。
 すると突然、ディアーナたちが転移した場所からまばゆい光が周囲に広がる。
 
「ジークベルト様!」

 ディアーナが、すごい勢いでその光に駆け寄っていく。
 その姿に「姫様、お心のままに行動すればいいのです」と、エマがあとを追った。
 結局エマの気持ちをディアーナに伝えることができないまま、ふたりの茶会は幕を閉じた。



 裏迷宮の階層スポットから転移すると、ディアーナが俺に抱きついていた。

「ご無事のご帰還、なによりです」

 えっ? なに、このかわいい子。
 ディアーナの突然の行動に、俺があたふたしていると、ニコライがからかってくる。

「チビ、盛大な歓迎だな。うらやましいぜ」
「あっ、すみません。わたくし、はしたないことを……」

 その言葉を聞いて、正気に戻ったディアーナが、恥ずかしそうに俺から離れる。
 とても残念だ。

「お帰りなさいませ」

 エマが一足遅れて俺たちに合流する。 
 ん? 気のせいか。
 エマの様子が少しちがうように感じる。
 とても落ち着いて見えるのだ。
 ディアーナに優しい眼差しをして、まるで年上のお姉さんのようだ。
 年上のお姉さんで間違いないんだけどね。
 普段とちがう雰囲気に気をとられていると、テオ兄さんが転移先を『報告』で調査してくれていた。

「ここは当初の目的地の迷宮十二階層の隠し部屋だね」
「安全面も問題なそうだな。あの宝箱は裏迷宮の報酬か」

 ふたりが宝箱に近づいていくので、俺もあとを追う。
 ディアーナたちは、ここで待機するようだ。ハクたちと戯れている。
 ハクたちを置いて、宝箱に近づく。
 裏迷宮を脱出して気になる点がひとつ、宝箱以外に階段があったことだ。
 裏迷宮に入る前までは、この部屋に階段はなかったはずだ。裏迷宮を脱出したことで現れたのか。
 この階段は魔力で作られている。


 ***********************

 ご主人様の仰る通りです。
 裏迷宮の脱出に合わせて現れたようで、この階段は一時的なものです。
 階段の先は最下層十五階につながっています。

 ***********************


 この階段の先って最下層なの?
 ならちょうどよかった。
 全員が疲労困憊なので、エマの短剣スキルはあきらめて、アン・フェンガーの迷宮を後にしようと提案するつもりだったのだ。
 到達ボーナスが貰えなくて残念だけど、欲張ってはいけない。


 ***********************

 ご主人様、到達ボーナスは貰えます。
 裏迷宮を踏破したので、十三階、十四階は免除となります。

 ***********************


 何それ!? 迷宮もなかなかやりおる。
 もしかして、到達ボーナスも豪華な物が貰えるのかな。


 ***********************

 到達ボーナスの中身は、私では分かりかねます。
 お役に立てず申し訳ございません。

 ***********************


 ヘルプ機能は、充分役に立っているよ。
 今回の裏迷宮の件だって、ヘルプ機能が作動していなければ、大変なことになっていたしね。
 本当に毎回、頭が上がりません。

「テオ兄さん、ニコライ様、安全確認ありがとうございます」
「ジーク、ここは裏迷宮の脱出用に用意された部屋のようだね。四方を壁に囲まれた出入り口がない部屋。あるのは魔力を帯びた階段だね」
「はい。僕が隠し部屋を発見した時は階段はありませんでした。調べた所、直通で最下層につながっているようです」
「やはりそうか」
「チビ、この宝箱の仕掛けはなんだ」

 ニコライの質問に答えるため、俺は宝箱へ近づき『鑑定』をした。


 ***********************
 毒矢の宝箱
 説明:宝箱を開けると毒矢が連射される。
 ***********************


「毒矢が仕組まれているようです」
「そうか。数は? 数本か?」
「連射されるとのことです」
「ちっ、厄介だな。うしろから開けるか。毒矢の連射が終わるまで待つしかないな。安全のため、姫さんたちを宝箱のうしろに移動させるか」

 迷宮内の宝箱は、仕掛けがあるのがあたり前で、ダンジョンは半々の確率だそうだ。
 コアンの下級ダンジョンでは、宝箱と遭遇する機会がなかった。『地図』に反応はあったけど、踏破を最優先としたからね。

「ニコライ、前に飛ぶとは限らないんじゃないかい」
「そうかっ。上に飛ばせば全範囲射程圏内だな」
「うんそうだね。裏迷宮を脱出した先にある宝箱だから、単純な連射ではないと思うよ。用心するに越したことはない。ジーク『守り』を最大限に強化できるかい」
「はい。できます」
「部屋の隅に全員集めて、僕とジークの『守り』を二重に展開しよう。宝箱は魔法で開けるよ。僕の魔法で開けられる距離だ」

 テオ兄さんの指示に、全員が宝箱の後方に移動し、部屋の隅に集まる。
 まずテオ兄さんが『守り』を展開する。その上から俺の『守り』を施す。
 最大限の強化をするため、魔力循環に集中した。
 渾身の『守り』ができたと自負する。毒矢の防衛は準備万端だ。

「いいね、宝箱を開けるよ『解錠』」

 テオ兄さんの魔法で、宝箱が開くと、次々と矢が連射されるその数、数百は下らない。しかも放たれている矢の大きさは、槍に匹敵する物もある。
 予想通り、全方位に矢が飛び交い、俺たちの周りには粉々に折れた矢が複数散らばっていた。『守り』が実にいい仕事をする。
 強度を今できる最高クラスにしたからね。

「こりゃーすげぇなぁ」
「想像以上だね」

 矢の数の多さに、あきれとも感嘆ともつかぬ声が響く。
 俺の横では、口が少し開いたまま動かないディアーナと、「ひぃえーー」と絶叫して腰を抜かし、ハクに支えられているエマがいる。
 スラは、誰が与えたのか、マイペースにオークの肉を食していた。
 時間にして数分の出来事だが、何十分と思えるほど濃い内容だった。
 矢の連射が終わり、辺り一面に砂埃が舞っている。
 砂埃が収まると、ニコライが「これは期待できるなっ。お宝はなんだ」と、ウキウキと宝箱へ近づいていった。
 そのうしろ姿は、普段とは違い滑稽で浮足立っている様子がわかる。
 しかし宝箱の中を見たニコライが、驚愕した声をあげる。

「なっ!? 空じゃねぇか。どうなってんだ!」
「空なのかい?」
「おいっ、チビ!」
「はい。いま調べています」


 ***********************

 ご主人様、矢の残骸を確認ください。
 全て、オリハルコンです。

 ***********************


 えっ? まじっすか?
 オリハルコンの毒矢だったのか?
『守り』の魔法を最大強化してよかった。


 ***********************

 いえ、放たれている時は、強度の高いSランクの矢でした。
 連射が終了した瞬間に、オリハルコンへ変化しました

 ***********************

 えっ? どういうことだ?
 オリハルコンって、稀少鉱物だよな。
 そもそも矢がオリハルコンに変わるのは、変だぞ。


 ***********************

 迷宮のドロップ品です。
 オリハルコンは、毒矢のドロップ品と考えてください

 ***********************

 はぁーー? ますます理解できない。
 毒矢のドロップ品? 毒矢は魔物扱いなのか。

 ***********************

 この部屋のみの特徴のようです。
 あまり深く考えないほうがよろしいかと思います

 ***********************


 はぁーー? なんだそれ?
 やっと裏迷宮から脱出して安心したと思ったら、毒矢の連射。しかも宝箱の中身がないとくる。
 毒矢がドロップ品に変化したと気づかなければ、骨折り損じゃないか。
 精神的にくるぞこれ。仕掛けた奴、性格ゆがんでるな。

「ニコライ様、テオ兄さん、毒矢がすべてオリハルコンに変わっています」
「はぁ? なに言ってるんだチビ! そんなはず……」
「本当だね、ジーク。これはどういうことだい」
「僕にもわかりません。ただ、この部屋の仕様のようです」
「オリハルコン……。まさか俺が手にすることになるとは……」
「ニコライ、感動しているところ悪いが、そうそうにこの部屋から出るよ。ジーク、魔法で回収できるかい」
「はい。できますが」
「テオ、どうした?」
「この部屋は、あまり長居するべきじゃない」
「お前の勘か。わかった。チビ、さっさと回収しろ。姫さんたち先に階段を下りるぞ」


 テオ兄さんの突然の指示に戸惑っている俺を後目に、ニコライがすぐに反応し行動する。
 ディアーナたちを促して、スラを肩に乗せ、先に階段を下りて行く。
 テオ兄さんの直感が、なにかを察したのだろうと俺も判断し、気を取り戻して、俺も『浮遊』『微風』『収納』を同時展開し、部屋全体に散らばっているオリハルコンだけを宙に浮かせ、一か所に集めて回収する。
 粉々になった毒矢そのものが、オリハルコンのため、精査するのに相当の魔力制御が必要となった。
 稀少鉱物なので、一グラムも無駄にしたくない。
 すべてのオリハルコンの回収を終えたところ、ドドドッと大きな地響きが鳴ると共に、部屋の隅から床が抜け落ちていく。

「嘘だろ!?」 
「ガウッ!〈ジーク、走る!〉 」
「ジーク! ハク! 階段に急ぐんだ!」

『倍速』を自分とハクにかけ、階段前にいるテオ兄さんと合流し、慌てて階段を駆け下りる。
 先にいるニコライたちには『報告』で知らせる。
 ドドドッとの崩壊音が迫る。後方の階段が徐々に崩れていく。

「階段も崩れるのかっ。ギリギリだな。うわっ」
「大丈夫かい、ジーク」
「ありがとうございます」

 後方に注意をとられ過ぎてしまい、前方の階段が崩れているのに気づかず、足が嵌ってしまう。
 テオ兄さんが、素早く補助してくれるが、この時間ロスで、すぐそばまで崩壊が近づいていた。
 ここはあれしかない!

「テオ兄さん、『飛行』の魔法を使います!」
「飛行? えっ? うわっ!」

 俺の『飛行』に、珍しくテオ兄さんが、慌てている。
 そりゃーそうだ。
 人間急に身体が浮いたら慌てて当然だ。
 ドドドッと、先ほどまで足を着けていた階段は崩れ落ち、視界が暗闇にとらわれる。
 崩れ落ちた場所から底が見えない。ブルッと身震いする。
 間一髪のところで、崩壊に巻き込まれずにはすんだ。

「ジーク、悪いけど手を引いてくれないかい。飛ぶなんて初めてで、不安定なんだ」
「すみません。気づかなくて。ハクは大丈夫だよね」
「ガウッ!〈ハクは大丈夫!〉」

 どこか不安そうなテオ兄さんの手を取り、先行する。
 俺も最初は、空間のバランスがなかなか掴めず、かなり難儀したのだ。
 ハクは何度か『飛行』を経験しているので、崩壊した階段の上をスムーズに飛んでいる。

「これはなかなかの経験だね。まさか『飛行』を経験できるなんて思ってもいなかったよ。ジークはもう風魔法Lv8を取得しているんだね」

「いいえ、僕の風魔法Lv3です。魔力値が高いので『飛行』の使用が可能なんです」
「なるほど。ということは、これは守秘だね」
「はい。その方向でお願いします」
「ほかにもありそうだね。例えば『地図』スキルとかね」
「あははは。『地図』スキルは所持してますよ。あとは許してください」

 ここは笑ってごまかす。
 そもそも『地図』スキルは、隠さず使用していたので、テオ兄さんたちには所持がバレて当然だ。
 あえてそれにテオ兄さんが触れなかったのは、ただ単に俺だからだとの結論に至ったのだと思う。
 テオ兄さんは、ほかにも多数の能力が俺にあると認識していると思う。
 信頼しているが、全ての能力を曝け出すことは、今はできない。
 許して欲しいと思う。
 空中でのバランス感覚をテオ兄さんが掴み始めた頃、暗闇の先の小さな明かりが徐々に大きくなり、長身の影が見えた。
 長身の影がチラつくその様子に、安堵する。
 無事だとの『報告』を受けていたが、それを目にするまで安心はできなかった。
 俺のすぐ隣でも、安堵のため息がこぼれた。



 んーー。と伸びをして、馴れ親しんだ布団の感触に屋敷へ帰って来たのだと実感する。
 足元で丸くなって寝ているハクと、枕元にいるスラを起こさないよう、そーっと、ベットから降りる。
 部屋内が暗い。外は明るいので起床時間はとうに過ぎているはずだが、カーテンが閉まっている。
 侍女たちの配慮に感謝しつつ、ソファに腰を掛ける。テーブルの上に用意された冷えた水をコップに移し、ゴクゴクと喉の渇きをいやすと、思わずため息が出た。
 昨日は、精神的にも肉体的にも疲れて、倒れるようにベットに身を沈めた。
 その原因を再確認するため「ステータス表示」と唱える。
 表示された内容を見て、夢ではなかったと、項垂れた。

 称号、小さな詐欺師。
 体は子供、中身は大人? 容姿は美少女! なのに性別男。
 生まれた性別間違えているぞ!
 小さな詐欺師……なんちゃって。

 説明文も含めて、突っ込みどころ満載すぎる。
『なんちゃって』とか、説明文にいるの?
 この称号は、隠し部屋の階下の先で取得したのだ。
 そこには、俺の身長の三倍以上はある巨大な生死案内人像があり、全員で協力してガラポンを回した結果、各々に不名誉な称号がついたのだ。

 小さな詐欺師
 隠れブラコン
 金髪の筋肉馬鹿
 究極のドジっ子
 偽りの王女
 最強モフモフ
 食い意地の塊

 誰がどの称号を付与されたのか、だいたいの見当はつくと思う。
 称号名はあれだが、すべての称号に多少なりとも効果が付与されていた。
 だけど、一部を除けば、人には知られたくない称号ではある。

 小さな詐欺師の効果は、能力などで見た目と大きく違いがあっても、疑問を持たれないそうだ。
 裏迷宮の主って、ほんと性格悪いけど、この称号は今の俺にピッタリだ。
 子供の間だけの限定称号なのかどうかは、ヘルプ機能でもわからないそうだ。
 ハクとスラもそれぞれ称号をえた。
 ハクは『最強モフモフ』、スラは『食い意地の塊』だ。
 ハクの『最強モフモフ』は、触れ合うことで、ハクの好感度が少し上がり、癒されるそうだ。
 スラの『食い意地の塊』は、味覚が少し上がる効果があるようだ。
 絶妙なネーミングセンスだと思う。
 個体を認識して、称号名つけいる。
 手の込んだ悪戯だけど、効果も悪いものではないんだよね。微妙なんだけどね。
 ただこれは、裏迷宮の到達ボーナスではなかった。
 ヘルプ機能の調査で、いろいろあったが本物の到達ボーナスを俺たちは取得できた。
 俺とハクは『獲得経験値倍増Lv-のスキル玉』を獲得した。
 スラは『守護のアミュレット』を獲得したが、俺に譲渡してくれた。
 食べ物、オークの肉以外は、興味がないようで、かなり雑な扱いだった。
 その性能はとてもいいものなんだけどね。

 **********************
 守護のアミュレット
 効果:呪を10%の確率で回避
 説明:呪魔法の状態異常を10%の確率で回避する。
 **********************

 代わりにスラには、オークの肉塩胡椒味を献上したよ。
 もちろん、ハクにもあげたよ。

 ニコライは『魔法腕輪』、テオ兄さんは『隠密のスキル玉』を獲得した。
『隠蔽マント』を獲得したディアーナが、めずらしく戸惑った表情を見せた。
 隠蔽マントをじっと見つめ、なにかを呟いていたが、その声は俺には聞こえなかった。
 なにかあれば、ディアーナから話してくれるだろう。
 そしてエマは期待を裏切らない。
『黄金のタワシ』を獲得した。
 エマは、黄金のタワシを持って、飛び跳ねて喜んでいた。
 またタワシで落ち込むかとも思ったが、思いの外、本人が喜んでいた。
 全てが金なので相当な価値があるのだ。
 一般人から考えれば、かなりの収入だ。これほど喜んでもおかしくない。
 はて、お給金少ないのだろうか……と、余計な心配をすると『滅相もございません。アーベル家の給金は、他家と比べても格段に高いです』と、ここにはいないはずのアンナの声が聞こえた気がした。
 裏迷宮の到達ボーナスは、満足いく品だったが、それまでの経緯がさんざんだった。
 プラマイゼロ? いや精神的苦痛に加え、肉体的苦痛も考えれば、マイナス?
 裏迷宮踏破するたびに、不名誉な称号を獲得することも考えれば、ダブルでのマイナスだった。
 裏迷宮の踏破に喜ぶどころか、心に打撃を残し『アン・フェンガーの迷宮』をあとにしたのだった。



「ここにもない……」

 分厚い本を前に、フゥーと思わずため息をつく。
 アン・フェンガーの迷宮より帰宅してから、アーベル家の書庫に足しげく通っているが、ディアーナが求めている情報はなかった。
 迷宮で獲得した称号『偽りの王女』。
 その説明は、偽った姿で国民の前にいる王女だった。
 ディアーナは、無意識のうちに胸もとにあるペンダントを掴む。
 たしかに私は、国民の前で先祖返りであるこの姿を隠している。
 我が国は、亜人への差別が色濃い。
 私が生まれた時、陛下が出産に関わった者、全員に箝口令を敷いたと聞いている。
 バルシュミーデ伯爵であるパルは、陛下からの勅命で、護衛騎士としてその場に立ち会っていた。
 彼もまた王家の隠し事を知っている秘密の共有者のひとりだ。
 王家の秘密、ひとつは先祖返りをした者が王位継承権第一位となることだ。
 しかし、私の先祖返りは、陛下が公表をしないと決断されたため、ないものとなった。私は正妃の第二子のため、王女ながら王位継承権があるだけなのだ。
 そして最大の秘密は、王家に亜人の血が流れていることである。
 私の先祖返りは、まだ亜人への差別がなかった数十代前の後宮にいた獣族の妃の血である。
 現在は禁止されている近親婚があった時代であり、王家の系図でもその血筋が流れていることがわかる。
 私が王家の秘密である『先祖返りをした者が王位継承権第一位』を知ったのは、トビアスお兄様が誰かと話をしていたのを偶然耳にしたからだ。
 トビアスお兄様は、私の先祖返りをご存じではない。
 私のお母様と第一側室エレオノーラ様は、当時から犬猿の仲だった。
 それを危惧した陛下が、出産までの間、エレオノーラ様をご実家へ帰郷させていた。
 お兄様たちも共に帰郷したため、私の秘密を共有した者は、ごくわずかであり、いずれも陛下への忠誠心が高い者だった。
 この情報が漏れ、トビアスお兄様の耳に入るものなら、私は、きっとここにはいない。
 トビアス兄様が、亜人を毛嫌いしていたことは、とても有名な話だ。
 あの時のトビアスお兄様の激昂は、思い出すだけでも身震いするほど、常識を逸脱していた。
 ご自身の中に亜人の血が流れている事実と、嫌悪の狭間での心の葛藤が、表に出た嘆きの叫びだったのかもしれない。
 隠蔽マントを取り出し、なぜ裏迷宮の到達ボーナスがこれだったのか考える。
 偽りの王女もそうだが、隠蔽マントも意図されたような気がする。
 わからない。だけど、調べるきっかけにはなった。
 先祖返りした者がなぜ、王位継承権第一位となるのか。
 今まで疑問に持たなかったのが不思議だった。その事実をそうなのだと素直に受け入れていた。

「こちらにいましたか」
「アルベルト様、いかがなさいましたか?」

 突然の呼びかけに体がビクッと反応するが、身に染みた所作で、動揺を見せないように対応する。

「えぇ……歴史書ですか?」

 用件を言いかけたアルベルトが、ディアーナが手にしていた分厚い歴史書を見て問いかけた。

「はい。エスタニア王国の歴史について調べておりました。お恥ずかしい話、本国の歴史をあまり存じません。少し興味を惹かれることがありまして、調べております」

 ディアーナの説明に、アルベルトの顔がほんの一瞬動いた。

 アーベル家の屋敷に賓客として招いてからの王女は、アーベル家の教育に加え、ジークの婚約者としての対応。お茶会や魔法修練の日々だったはず。
 アン・フェンガーの迷宮から帰宅後、書庫へ通っているとの報告を受けていたが、迷宮の刺激から、魔法書で知識を深めているとばかり思っていた。
 まさか、ご自身が本来、王位継承権第一位であるとご存じなのか。
 いや、バルシュミーデ伯爵の話では、王女はそれを知らされていない。
 先祖返りはなかったとの王のご意向を暗黙の了解で認識されており、慎ましやかに第三王女として活動されていたと伺っている。
 ここ数日の報告をアルベルトは頭の中で目まぐるしく回転するが、興味を惹かれるような行動はなかった。
 考え過ぎか……。
 王女と歴史書があまりにも不釣り合いに見えたが、王族や上位貴族は、自国や他国の歴史を徹底的に教育される。王女は七歳、既に教育が始まっているはずだが、ご本人が無知であると申されている。
 我が国で過ごされている間に、自国の歴史に触れる何かを感じとられたのか。
 本当に?
 いや下手な詮索はしないでおこう。
 聡明な王女だ。こちらが詮索することで、疑問を持ち行動に移されたらまずい。
 だが、心には留めておこう。

「そうですね。他国の歴史などの本はこちらの棚ですね。我が家の書庫は、近隣諸国の歴史書は多くありますが、エスタニア王国の歴史が記載されている本は少ないですね」
「ありがとうございます。実は我が国にも古い迷宮があります。今回の裏迷宮の件で思うことがありまして、歴史を調べておりました」
「あぁ、なるほど」

 ディアーナの返答に、やはり聡いなとアルベルトは感じる。
 この短時間で、アルベルトの思考を読み取り、疑問を払拭するために、調べている内容を故意に伝えたのだ。
 その言葉を鵜呑みにはしない。
 幼いながらも彼女は、王族だ。 彼が常々、腹の探り合いは、王族としての嗜みだと語っていたことを思いだす。
 日頃の行動を考えれば迷惑極まりない馬鹿な友人だが、役には立つ。
 今は素直に引き下がろう。
 王女周辺を警戒するよう指示を出すと決め、本来の目的を告げる。

「じつは──」

 ディアーナは話を聞きながら、失敗したわと、アルベルトの対応を見て悟る。
 嘘は伝えていない。
 我が国に古い迷宮があるのも事実であるし、裏迷宮で先祖返りについて思うことがあり、王家の秘密の手がかりが歴史にないかを調べていたのだ。
 アルベルト様を甘く見ていたわ。
 彼の近くにこの国の王太子が、そばにいたことを思い出す。
 これで私の周辺は警戒される。どちらにしても私が求めている情報は、ここにはないようね。
 これはもうジークベルト様にご相談するべきね。私には手にあまる内容だったようだわ。
 私自身のことなのに皮肉なものね。
 ディアーナは自嘲気味に微笑みながら、アルベルトの話に集中した。



『至宝がいた。だから、なんだ?』

 エスタニア王国の近衛の鎧をきた女は、額に大粒の汗を掻き弁明を述べる。
 その顔には色濃い疲れと焦りがまじっており、緊迫した空気を打開する策がもう彼女にはなかった。

『もういい。この役立たずが──』
『お願いします。マティアス様にお目通りを!』
『この女をあそこへ連れて行け。少しは役に立つだろう』
『いや、それだけは、どうか──。マティアス様、助けて!』


 ***


 昨日、エスタニア王国入りした俺たちは、バルシュミーデ伯爵家の王都の屋敷に滞在することになった。
 高級宿屋一軒を丸ごと借りる予定だったが、伯爵家の現当主であるエトムント殿より申し出があり、厚意に甘えることにした。
 王城に滞在すれば、暗殺や陰謀に巻き込まれる可能性があり、警備を考えるとありがたい申し出であった。
 エトムント殿は、バルシュミーデ伯爵の息子で、現バルシュミーデ伯爵である。
 先日の反乱で、伯爵家の家督は、エトムント殿へ移ったのだ。
 ただし、マンジェスタ王国の力添えで、ディアーナと前伯爵が、反乱へ関与した事実はないと発表され、名誉は回復したが、前伯爵は、混乱を招いた責任を取り、王都より離れた片田舎で監視の下、隠居したことになっている。
 本人は俺の真正面で、のんきにお茶を飲んでいるけどね。
 ディアーナの護衛の冒険者パルとして、伯爵家に滞在している設定になっている。
 護衛が伯爵家の客間で寛いでいるけどね。

「トビアス殿下は、相変わらずですな。王の器にあらず。なぜビーガー侯がうしろ盾するのか、傀儡にするとしても個が強すぎる。見当がつかん」
「父上、不敬ですよ」
「エトムント、お前は心配しすぎだ。伯爵家に間者がいない限り、ここでの会話は漏れん。わしも謁見に付き添えばよかった。姫様から借りたこれがどこまで通用するのか、調べる絶好の機会だったな。惜しいことをした」

 パルは羽織っている『隠蔽マント』を触り、心底残念そうな顔をした。
 ツルピカの強面おっさんが落胆しても、まったくもって心に響かない。
 それに軽率な行動は控えてほしい。
 片田舎で隠居中のパルが、王都にいるとバレたら大変なことになる。
 それこそ内乱の引き金になりかねない。
 トビアス殿下、二度と会いたくない人物を思い浮かべ、俺は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
 俺には到底理解できないエスタニア王国の思想を、昨日痛いぐらい味わった。
 昨日の耐え忍んだ謁見を思い出した──。


 ***


 多くの思惑を含んだ王城での謁見は、エスタニア王国入りしたその日に行われた。
 旅の疲れ? そんなものはないよ。
 叔父の『移動』魔法で入国したのだから、疲れるはずは……。
 そう。アーベル家の屋敷を出る時の方が、とても大変だった。
 例の如く、マリー姉様が大暴走をはじめて、前日から俺は雁字搦めで……愛ゆえの行動だから耐えたけど。
 なにか? 疲れなんてないよ……。
 エスタニア王国側には事前に書簡を送り、武道大会の一週間前にエスタニア王国入りする旨を伝えていた。
 しかし、マンジェスタ王国一行は、貴賓室の中で長く待たされた。
 国賓である我が国への軽視ともとれる対応に、マンジェスタ王国一行は憤り、エスタニア王国への不信感を募らせていった。
 そして、やっと通された謁見の間の玉座は空であった
 空の玉座を前に、マンジェスタ王国一行に動揺が走る。
 他国の王族に挨拶もできないとは──。
 それは、エスタニア王の病が深刻であることを物語っていた。
 動揺が走る中、王の代わりに対応したのは、マティアス王太子殿下とトビアス殿下だった。
 殿下たちは、玉座の下に直立し、マンジェスタ王国一行を迎え入れた。
 マンジェスタ王国の代表として、ユリウス王太子殿下が、訪問の挨拶のため一歩前に出る。
 慣例に従い口上を述べようと口を開いた瞬間、トビアス殿下の声が謁見の間に響いた。

「ディアーナ、よくもおめおめと戻ってきたものだ。恥を知れ! しかも他国の侯爵家と婚約だと、貴様の嫁ぎ先は決まっている。お前は見目はいいからな、俺が有効に活用してやる。婚約はすぐに破談にしろ!」

 その言葉に一同唖然とする。
 こいつ正気か? 国賓である他国の王太子殿下の言葉を遮り、発した内容がひどすぎる。
 ディアーナから男尊女卑思想が根強く、特に高位の貴族はその傾向が著しいので、嫌な思いをするかもしれないと恐縮していた。
 たしかにディアーナに対する臣下たちの態度には憤りを感じた。
 その場はこらえたけど、これは我慢できない。
 俺はユリウス王太子殿下に発言の許可を得ようと動く。
 それを察した叔父が、素早く俺の腕を掴んで阻止した。

『ヴィリー叔父さん、なぜ止めるのですか』
『今はダメだ。殿下を信じるんだ』
『なにか策があるのですか』
『まぁ、見ていればわかるよ』

 俺と叔父は視線を交え、声を出さずに会話をした。
 心情的に納得はいかないが、公式の場で我儘を通すより、後の影響を考えればここは耐えるしかない。
 俺はぐっと手を強く握り、感情に蓋をした。
 すると、ユリウス王太子殿下が「あははっは──」と、声を出して盛大に笑った。
 その姿に「殿下!?」と、マンジェスタ王国側の臣下たちが大慌てだ。
 騒ぐ臣下の中で、叔父の黒い笑みが光り、王太子殿下の専属護衛兼大会出場者のアル兄さんは微動だにせず、その場を静観していた。
 これは想定内の行動のようだ。
 だけど、こんなわかりやすい挑発に、王族が乗るとは思えない。

「貴様! なにがおかしい、無礼だぞ!」

 トビアス殿下が激昂して前に出るが、それを近衛兵たちが抑えた。
 うわぁー。挑発に乗ったよ。まじか……。
 しかも、他国の王太子殿下を正式な場で貴様呼び。不敬どころか、国家間で大きな溝をつくったこと理解できているのか。
 一応、王子だよね……?。

「……っ、失礼。あまりにも滑稽で」
「貴様!」
「トビアス兄上、落ち着いてください。兄上は疲れているようだ。休憩室へお連れして」

 マティアス王太子殿下が、近衛兵に指示する。
 近衛兵たちは、今にも飛びかかりそうなトビアス殿下を囲うと、謁見の間から退場させる。
「マティアス、貴様!」と、叫びながら、その場を後にするトビアス殿下に、一時でも王太子教育を受けた人なのだろうかと、疑問に思う。
 王族としての品位がなさすぎる。
 言動もそうだが、成人していない弟に尻拭いされる大人ってどうなんだ。
 それにこの問題児が、国の代表として各国の使者に会っている事実に、排除できないエスタニア王国の権力闘争が垣間見える。
 これは一波乱も二波乱もありそうだ。
 関わりたくない。けど、俺、この国の第三王女の婚約者なんだよね。
 あの相談もあるし……詰んだ。確実に詰んだよね、これ。
 武道大会を純粋に楽しみたいだけなのにぃー。
 俺が悶々と心の中で嘆いている間に、トビアス殿下の姿が、謁見の間から消える。
 沈黙と緊張が走る中、その空気を払拭するように優雅に気品あふれる所作で、マティアス王太子殿下が、深々と頭を下げた。

「ユリウス殿下、大変失礼をいたしました。エスタニア王国の王太子として非礼をお詫び申し上げます」
「マティアス殿下、頭を上げてください。今回の件は、双方に非があるので不問としましょう。ただ今後、彼とお会いすることはないでしょう。またディアーナ殿下とアーベル家の四男ジークベルトとの婚約は、両国合意の上での婚約であったと認識しておりましたが、いささか情報に誤りがあったようですね。早急に対応をお願いします」
「はい」
「あぁ、そうだ、忘れるところでした。ディアーナ殿下は、我が国の庇護下であることも、臣下の方々にくれぐれもお忘れなくお伝えください」
「えぇ、もちろんです」

 マティアス王太子殿下は、ユリウス王太子殿下の言葉を肯定しつつ、苦笑いした。
 そりゃー王族でも表情にでちゃうよね。
 ふたりの会話を要約するに、公式、非公式にかかわらず、マンジェスタ王国は、トビアス殿下とは二度と会わない。
 交渉の場に姿を現したら、その瞬間に決裂する。
 事実上の絶縁宣言だ。
 俺たちの婚約は、国同士が合意した上での婚約なので、異議があるなら、それ相応の覚悟があるととるよ。
 それが嫌なら二度と同じことがないよう徹底してね。次はないからね。ということだ。
 そして、ユリウス王太子殿下は、臣下たちのディアーナへの態度にも言及した。
 マンジェスタ王国の庇護下であると公式の場で宣言することで、ディアーナの立場が明確となり、今までと同じ対応ができなくなった。
 殿下の気遣いに、胸のつかえが下りる。
 両国は、改めて正式な訪問の挨拶を交わし、お互いの国の情報を交換、次回の会談を約束する。

「エスタニア国王に代わり、今回の訪問歓迎いたします。我が国は、マンジェスタ王国一行を歓迎いたします」

 マティアス王太子殿下がそう宣言して、その場を締める。
 こうして、両国の挨拶は終了した。
 退出するマンジェスタ王国一行に、マティアス王太子殿下が声をかける。

「ユリウス殿下、妹ディアーナとジークベルト殿と個人的に話がしたいのですが、よろしいですか」
「すでに挨拶は終了しました。あとは個人の自由です。私どもが関与することはありません」
「感謝します」

 要するに、非公式に会うのはいいよ。だけどマンジェスタ王国はいっさい関わらないからそのつもりでね。とのことのようだ。
 王族の言葉って、本当に面倒だよね。



 俺とディアーナは、一行から離れ、王城の奥にあるこぢんまりした部屋へ案内された。
 その部屋は、内側に魔法陣が張り巡らされ、おびただしい魔力が充満していた。
 しかも、外側から魔力感知されない仕様となっている。
 これはすごい。
 術者の技術もさることながら、この部屋自体になにかありそうだ。
 俺が感心して部屋の中を見ていると、扉が開く音がした。
 颯爽と現れた殿下は、脇目も振らずディアーナを抱擁し、頬に口づけを落とした。
 その行動を目撃した俺は、殿下からアル兄さんと同じ匂いを感じた。

「待たせたね」
「マティアスお兄様、お久し振りです」
「ディ、元気にしてたかい? 母上も会いたがっていたが、許可が下りなくてね。すまないね」
「いえ、わかっております。一時でも反乱の汚名がかかった者が、王妃に会うことはできません。お母様には、わたくしは元気に楽しく過ごしておりますと、お伝えください」
「元気に楽しくか……。ディ、今幸せかい?」
「はい。ジークベルト様の婚約者となり、わたくしは幸せです。お兄様、わたくしの婚約にご尽力いただき、ありがとうございます」
「かわいい妹のお願いだったからね。それにディを守るには婚約しかなかった。なんの力もない兄で申し訳ないね」
「いいえ、いいえ、お兄様……」

 その謝罪に、ディアーナは首を何度も横に振り、殿下の服をギュッと握った。
 殿下は、彼女を強く抱きしめなおすと、その頭を優しくなで、そっと放した。
 そして、ジークベルトのほうへ体を向けて、一歩距離を詰めた。
 俺は、予想よりもはるかに早い殿下の行動に、大きく目を開く。
 あれ? もういいの? あっさりすぎない?
 アル兄さんなら、抱擁したまま数十分は放してくれないよ。
 その間にじっくり部屋を観察する予定だったのに……。
 俺が読み違えるとは……。
 はっ! うわぁー。俺、過保護兄姉に染まりつつある。
 そんなはずは……ないと信じたい。
 自己嫌悪に陥って落胆している俺に、殿下は訝しげな表情を見せるがすぐに改めると、俺に向かって手を差し出してきた。

「挨拶が遅れてすまない。ディアーナの兄のマティアスだ」
「ジークベルト・フォン・アーベルです」

 殿下にならい簡易的な挨拶をした俺はその手に自分の手を重ねる。
 非公式であっても本来なら最上級の敬意で挨拶をするのが礼儀だが、殿下の気持ちをくみ取った。
 俺の対応に、殿下は満足そうにうなずいた。

「ジークベルト殿、どうか妹を頼む」

 殿下はそう言ったあと俺の返答を聞く間もなく、緊迫した雰囲気を醸しだし、真顔で俺を見る。

「ジークベルト殿、もう察しがついていると思うが、近々この国は荒れる」
「お兄様!」
「ディ、心配するな。この部屋の防犯は、陛下の寝室並だ。事前に信を置いている者に手配し強化もしてある。盗聴の恐れはない。だから心配無用だ。あまり時間がない。ジークベルト殿に頼みがある」

 殿下の力強く真剣な眼差しを受けて、俺は緊張からゴクリと喉を鳴らす。
 目を閉じ、気持ちを落ち着かせてから、彼の目を見る。

「はい。なんでしょう」
「この国を捨て置いてほしい」
「っ、私にはそのような権限はありません」
「貴殿は『アーベル家の至宝』だ。貴殿が望めば、アーベル家が動く。世界もそれに準ずる」
「殿下のおっしゃっている意味がわかりません」
「今はそれでいい。貴殿がエスタニア王国を捨て置きさえすれば、この国は自然と滅亡へ進んでいくだろう。私はこの国の王太子だが、成人していない。後見人筆頭であったバルシュミーデ伯爵は、こたびの反乱で責を取らされた」

 彼は一旦言葉を切ると覚悟を決めた顔で告げる。

「陛下が逝去すれば、兄上たちと王位を争うことになる。今は宰相が、トビアス兄上を抑えてはいるが、時間の問題だ。背後のビーガー侯爵も動きだしている。ディアーナは、婚約はしたが、降嫁したわけではない。王位継承権がまだある。反乱の首謀者は、いまだ不明だ。ディアーナを旗にする者も出てくるだろう。君たちを巻き込みたくはない。武道大会終了後、すぐに自国へ戻ってほしい」

 一方的な言い分に、俺は唖然としてうまい言葉が出てこない。
 すると、それまで静観していたディアーナが、怒りに体を震わせ、殿下に詰め寄った。

「お兄様……民を、民をお捨てになるのですか!」
「ディアーナ、私はこの国の膿を出しきる。王家の腐敗は、もう手遅れだ。重鎮たちもほぼ染まっている。民を捨てるつもりはない。だが、新しい国として生まれ変わるには、多少の犠牲はやむをえない。私には今力がない。兄上に王位が移っても、他国の支援がなければ長くはない。長い戦いとなるがその覚悟はある」

 殿下はディアーナの怒りを表面上受け入れながら、なだめるように話すが、その方針は変わらないと暗に伝える。
 その話に『それは偽善だ』と、俺は心で叫ぶが、彼に伝えることはしなかった。
 殿下はまだ代々王にのみ引き継がれる古の契約、『王家の真実』を知らないのだ。
 これは困ったことになった。
 陛下の状態は、思っている以上にとても悪いのだろう。
 古の契約が破棄されることはない。ただ宿い主を間違えれば、国が消えてしまう。
 あぁ、本当に厄介なことになったかもしれない。
 俺は純粋に武道大会を楽しみたいだけだったのにぃ……。
 俺が苦渋に思案している中でも、殿下の話は続いていた。

「ディアーナ、トビアス兄上もそうだが、エリーアス兄上には、くれぐれも注意するんだ。エリーアス兄上は、表には出てこないが、着実に支持者を集めている。有力者がうしろ盾についたとの情報もある」
「お兄様……」
「ディ、そのように訴えてもダメだ。私の意志は変わらない。ジークベルト殿、ディアーナを頼みましたよ」

 殿下はそう言って一方的に会話を終了すると、足早に部屋から出ていった。
 俺とふたり、去る背中を無言で見つめる。
 ディアーナは、その手のひらに爪が食い込むほど強く、拳を握っていた。
 その手を労わるように、俺が拳に手を重ねると、彼女が泣きそうな顔して、俺を見上げた。
 金の瞳が、さまようように揺れている。

 性質は違うが、殿下とトビアスは兄弟だ。
 ある意味、同じ帝王学を学んだのだとわかる。
 王位継承権のあるディアーナが、臣下たちに軽視されている理由は、彼ら兄弟が原因であることがわかる。
 いくら男尊女卑思想が根強くても、彼女の意見も聞かないで、一方的に話を決めるなんて横暴すぎる。
 普段から彼女が意見を述べる機会はなかったのだろうと確信した。
 殿下は、無意識の己の行いが、妹を苦しめているなんて思ってもいないだろう。
 あぁー、一番面倒なタイプだ。
 いっときでもアル兄さんと同じだと思った自分が情けない。
 アル兄さんは、極度のブラコンだけど、俺を精神的に追いつめたりはしない。
 適度な距離を保ちつつも、常に俺の最善を考えて行動してくれる。
 超絶に甘いのだ。
 たまーに、暴走するけどね。
 ディアーナは何度も口を開こうとするが、そのたびに言葉をのみ込んでいる。
 その仕草に彼女の心の葛藤が見える。
 俺はただ彼女の答えを待った。

「……ジークベルト様、ここでのお話、マティアス王太子殿下との会話は忘れてください」
「わかった」

 俺の返事に、つないだ手が震えた。
 うつむきながら耐える姿はとても悲壮で、思わず手を貸したくなるが思いとどまった。
 ディアーナは殿下を兄とは呼ばず、王太子殿下と呼んだことで、彼女が国の方針を受け入れたことがわかった。
 だけど……きっと、俺の答えにかすかな希望を見ていたのだと思う。
 ごめん。
 俺は君の求める答えは返せない。
 俺にその覚悟はない。
 しばらくして、ディアーナがうつむいた顔を上げ、痛々しげに笑った。
 理不尽な痛みに耐え、笑ったその顔を生涯忘れないと、心に刻んだ。
 今俺にできるのは、屈託のないディアーナの笑顔を守ることだけだ。

「ディア、俺は、どんなことがあっても、君のそばにいる」

 その頬に手をあて、浮かべた涙をすくい取る。
「ジークベルト様っ」と、胸に飛び込んできた彼女を抱きとめた。
 本当は『助けて』と、叫びたいだろう。
 それを彼女が口にすることは決してない。
 この小さな体は、どれほどの重圧をかかえ、苦しんでいるのか。
 想像に難くない。
 痛みを分け合うように、俺たちは強く抱きしめ合った。


 ***


 翌日。俺は今後のエスタニア王国について考えていた。
 内戦の回避は難しい。だけど最小限の被害に抑えることはできるかもしれない。
 だいぶ曖昧な答えだが、今はこうとしか言えない。
 たくさんの人の命がかかっている以上、慎重にことを進める必要があるし、失敗はできない。
 俺の受け皿は小さいが、目の前の大切な人の愁いを少しでも晴らすように努力はできる。
 まずは、事前準備と協力者の確保が必須だ。
 この短期間でエスタニア王国の協力者を見極めること、最難関ではある。
 協力者が見つからなければ、この話は頓挫する。
 協力者として最適だった伯爵は、権力の中枢から離れてしまった。
 エトムント殿も、その影響で下手に動けないだろう。
 そうなると、外部の人間となる。まだ会えぬ人なのか、もう会った人のなのか。これは俺の幸運にかけるしかない。
 あと……。これとは別件で、ディアーナに伝えることもある。
 俺は彼女の知りたい答えを持っている。今それを伝えれば、彼女は必ず行動に移すだろう。
 内乱を止めるために、矢面に立つ彼女が想像できる。
 時期尚早。冷静に考えれば、浅はかな行動だと気づくが、今の彼女にその余裕はない。
 ディアーナには、王の器がある。
 生まれながらにして所持しているそれに、彼女も誰も気づいてはいない。
 そもそも『覚醒』していないから、ステータスに表示されない状況ではある。
 現状、俺の『鑑定眼』だけが、見える内容だ。
 うーん……。話すタイミング逃したよなぁ。



『──伯の倅に渡しました』
『そのまま次の作戦を遂行しろ』
『御意』

 マントを目深に被った男は、深く敬礼してその場から消える。
 残された者のその手には、真黒く濁った石が握られていた。


 ***


 談話室では、昨日の王城の謁見話から、話に花が咲いていた。
 いつの間に途中参加したのか、ヴィリー叔父さんの姿もあった。

「閣下」
「アーベル伯、私は姫様の護衛を依頼されたただの冒険者パルです」
「あっ、そういった設定ですか。ではパル殿。そのマントは、なかなかのものですね」

 叔父はあっさりその設定をのみ込むと、パルの羽織っているマントに注目した。
 えー、ヴィリー叔父さん。そこは突っ込もうよ。
 護衛が姫様呼びは馴れ馴れしいのではとか、他にも色々あるでしょ。
 話を膨らます気が、そもそも興味がないんですね。

「これは姫様からお借りしているもので、裏迷宮の到達ボーナスでしたかな」
「えぇ、そうです。ジークベルト様たちと踏破したアン・フェンガーの迷宮の裏迷宮の到達ボーナスです」

 パルの問いかけに、ディアーナがうなずき、補足すると、叔父が興味深そうに目を見開く。

「へぇー。裏迷宮の到達ボーナスですか。これはまた興味を引く品ですね。認識阻害と解除。両方を持ち合わせているのは、素晴らしい。ますますエスタニア王国の迷宮に行くのが楽しみですね」
「我が国の迷宮に行かれるのか。はてあそこは、古い迷宮ではありますが、冒険者が寄りつかない、実りがほぼない迷宮と聞いてますがな」
「えぇ、表ではなく裏へね、行く予定なんですよ。ねぇ、ジーク」

 話題を振られ「はい」と、渋々答える。
 エスタニア王国入りする前に、俺は叔父とある約束を交わしたのだ。
 テオ兄さんから裏迷宮の報告を受けた叔父は、すぐにでも迷宮に潜ろうとした。
 しかし周りがそれを許さなかった。
 目前に迫ったエスタニア王国入りには、どうしても叔父の『移動魔法』が必要だったからだ。
 そこで打開策として提案されたのが、エスタニア王国の迷宮だった。
 アル兄さんがどこからか調べてきたのか『我が国の迷宮はいつでも潜れますが、他国の迷宮に潜る機会はそうそうないのでは? エスタニア王国の迷宮はとても古いとのことですし、調べるには古い迷宮のほうが、なにかヒントがあるかもしれませんよ』と、説得し、叔父はそれを条件付きで受け入れた。
 その条件が、俺の同行だ。
 初めは関わりたくなくて、拒否した。
 しかし叔父が俺の耳もとで『聖獣』と、ささやいたことに戦慄を覚えた。
 あのおしゃべり精霊め!
 あれほど内緒だと言ったのに!
 当分プリンはなしだ!
 叔父と取引をした結果、俺たちの秘密を漏らさない代わりに、泣く泣く同行を受け入れたのだった。

「ほぉー。それはぜひとも参加したいですな」
「残念ですが、パル殿は、ディアーナ様の護衛。ディアーナ様は、今回の迷宮には、参加しません」
「むぅ。そうなのですか……。それは残念ですな」

 パルはそう言って、何度もディアーナを窺い見るが、ディアーナはその度に頭を横に振る。
 諦め悪いよパル。
 ディアーナは、裏迷宮の話が出た際に、同行を拒否している。なにか思うところがあるようだ。
 それに加えて、昨日の殿下の警告もあるし、そうそうに国を出ると思う。
 隣に座るディアーナを見ると、困ったような表情を浮かべていた。
 やはり元気がないようだが、昨日の空元気よりは幾分ましだ。

「姫さまからはなれろ! ジークベルト!」

 突然、頭上から幼い声が聞こえると、ソファの上に小さな体が落ちてくる。
 やんちゃなこの少年は、エトムント殿の息子ヨハン君、四歳だ。
 俺とディアーナの間に収まったヨハンは、グイグイと俺を押す。少しでもディアーナから俺を遠ざけたいようだ。
 ふっ、無駄なあがきである。

「ヨハン! お行儀が悪い。姫様、ジークベルト殿、申し訳ございません」
「とうさまっ……」

 エトムント殿が、ヨハンを叱咤して、その行動に頭を下げる。そんな父親の姿を見たヨハンが悲壮感漂う顔で、こんなはずではなかったと体を縮めた。
 微妙な空気が流れる。
 それを変えるように叔父が、笑いながら話題を振った。

「元気があっていいね。アルの昔を見ているようだ」
「ほぉ、あのアルベルト殿がですか、今の姿では考えられませんな。では、ヨハンも大物になる可能性はあるということですな。はははっ」
「そうですね。将来が楽しみですね。パル殿」
「父上、ヨハンの行動を正す発言はやめてください。アーベル伯も父上に乗らないでください」

 エトムント殿に、怒られた大人たちは、肩をすくめながらも反省はしていない。
 とても生真面目な人だ。
 本当にパルの息子?
 パルの行動に一番気苦労しているのは、この人なんだろうなと思い、心の中で合掌する。
 大人たちの会話を聞いて、縮こまった体が息を吹き返す。ヨハンが、俺を睨みながら本来の目的を遂行する。

「ぼくは、お前が姫さまの婚約者だなんて認めないぞ。姫さまは、ぼくがお嫁さんにもらうんだ」
「ほお、ヨハンは姫様を嫁にもらう気だったのか。それは愉快だな」
「おじいさまは、姫さまの騎士でしょ。なぜこんな奴を婚約者にしたのですか」

 ピシッと指をさされ、俺は苦笑いをする。
 初対面から俺をライバルと認識したヨハンは、お客様扱いではなく、対等だと思ったようだ。顔を合わすたびに「認めないぞ」と、突っかかってくる。
 本人は至って本気なのだが、はたから見ると、かわいいだけなんだよね。
 ヨハンの態度に、エトムント殿が注意しようと動くが、それをパルが遮る。

「それは強者だからだな」
「こんな女みたいな奴が、強いはずがない。おじいさまはだまされているんだ」
「残念だがヨハン。姫様も、わしも、ジークベルト殿に命を救ってもらった。それにジークベルト殿は、エトムントより強いぞ」
「うっ、うそだ! とうさまより、強いはずがない! おじいさま、うそはダメなんだぞ」

 ヨハンは、衝撃を受けた様子で動揺する。
 そんなヨハンを見てパルがおもしろそうに笑い、エトムント殿に同意を求めた。

「嘘ではないぞ。なぁエトムント」
「父上、ヨハンで遊ぶのは、控えてください。後々大変なんですから……」
「とうさま! とうさまがジークベルトより弱いなんてないよね! ねっ!」
「ヨハン。父上の戦闘能力の評価に嘘はない。総合的に考えてジークベルト殿のほうが、戦闘能力が上なのだろう。だが私も武人だ。自分で力量を把握していない相手より下だと評価されれば、納得いかない」

 エトムント殿、温和に見えて実は熱血さんでしたか。やはり血は争えませんね。
 はっはは。雲行きが大変怪しくなってきた。
 逃げ道を探ろうと考えていると、エトムント殿と目が合った。
 あっ、やばい!

「ジークベルト殿、よければ軽く一戦交えませんか」
「バルシュミーデ伯、ありがたい申し──」
「よし! そうとなれば早速裏庭にまいりましょう!」

 どんだけ短気!? 俺の言葉を途中で遮って、勝手に了承を得たと思ってるし、いや断る予定なんですが……。
 えっ、もう部屋を出ている。
 あっ、いつの間にかヨハン君もいない。
 常識人だと思っていたけど、素早い動きに開いた口が塞がらない。

「ジーク、おもしろいことになったね」
「ヴィリー叔父さん、代わりに一戦してください」
「それは無理な話だよ。ねぇパル殿」
「そうですぞ。ジークベルト殿、あぁなったエトムントは、わしでも止められません」
「パル、わざと煽りましたね」
「ん? なんのことですかな?」

 俺のジト目にパルは顔を横に傾ける。
 ツルピカの強面おっさんがとぼけても、まったくもってかわいくない。気色悪いだけだから!
 まじでありえない……。
 心の中で悪態をついていると、隣から笑い声が漏れる。

「うふふ。ジークベルト様、エトは、あぁ見えて、一度言い出したら、納得するまであきらめないんです。お付き合いしてあげてください」
「ディアの頼みなら、しかたないなぁ」

 ディアーナが自然と笑っていた。
 その笑顔に、俺は重い腰を上げるのだった。



 裏庭に全員が集まると、ヴィリー叔父さんが発言する。

「ジーク、この一戦での攻撃魔法はなしだ。バルシュミーデ伯もいいですね」
「いえ、攻撃魔法ありの全力でお願いしたい」
「エトムント、アーベル伯の提案を受け入れろ」
「父上しかし──」

 エトムント殿の反論する声を遮って、パルが真顔で言い放つ。

「瞬殺だぞ。ジークベルト殿に攻撃魔法を使用されてみろ、それこそ剣を合わせる前に終了だ」
「……そこまでなのですか」
「お前、ヨハンにわしの戦闘能力の評価は間違いないと言ったな。ここで断言してやろう。総合力だけで言えば、この場で一番の強者は、アーベル伯、次点でジークベルト殿だ。わしやお前など、足もとにも及ばんわ」
「……っ」
「おっ、おじいさま?」

 その言葉に絶句するエトムント殿。ヨハンは、信じられないものを見る目で、祖父を凝視している。
 そのふたりの表情を見て、パルがニヤリと笑う。

「だが、攻撃魔法なしで、補助魔法のみであれば、お前にも勝機はある」

 うわぁー。息子を煽ってるよ。この親父。
 それに俺の評価、高すぎるでしょ。
 プレッシャー半端ないんですが……、期待された分はかえさないと。
 たしかに、攻撃魔法を中心に戦えば、負けない自信はある。
 純粋に剣だけの手合せなら、体格差や経験値、熟練度を考えると、エトムント殿が圧勝するだろう。
 だけど、身体能力を上げる補助魔法を使用すれば、互角、いや俺が勝てる可能性が高い。
 パルは存外に、補助魔法のみでも勝てないが、隙をつくれば勝てると言っているのだ。
 それにしても、息子に発破をかける親って、どうなのだろう。
 この場合、有効なのか?
 はて?
 ん? 俺相当やばくない?
 しばらくして、エトムント殿の俺を見る顔つきが変わる。
 鋭く俺を見据えると「攻撃魔法はなしの全力で、お願いしたい」と、頭を下げる。
 その思ってもいない行動に、俺が慌てた。

「バルシュミーデ伯、頭を上げてください。軽く一戦を交えるだけですよね」
「軽くではなく、攻撃魔法なしのジークベルト殿の本気をお願いしたい」

 エトムント殿は、そう言って再び頭を下げる。
 その様子に、ヨハンが「とうさま」と、困惑を隠せないでいた。
 ヨハン、その気持ちわかるぞ。俺もだよ。
 エトムント殿もわざわざ頭を下げる必要ないでしょ。
 生真面目すぎるんですよ。
 そこは、お互い攻撃魔法なしで、最善を尽くしましょう。とか、言いようがあるでしょうよ。
 この微妙な空気どうするの。
 俺が対応に困っていると、叔父から助け舟が入る。

「バルシュミーデ伯、ジークが困っているので、頭を上げてください」
「しかし、私は、ジークベルト殿のことを侮っていました。誠意を見せるのは、あたり前のことです」
「大丈夫ですよ。そのあたりジークは、きちんとわきまえていますので、安心してください。さぁ親善試合を始めましょう」
「親善試合ですか」
「えぇ、親善試合です。ジークベルトもいいね」
「はい」

 軽く一戦が、非公式での国の親善試合になったよ。
 今回の叔父の肩書は、マンジェスタ王国の副代表だ。
 叔父の発言には、効力がある。
 たぶん、エトムント殿を納得させるための発言なので、気にはしない。
 もともと本気で戦うつもりだったし、手加減なんて大それた考えは毛頭ない。
 なにより剣を交えれば、相手が加減しているかどうかなどすぐにわかるのだ。
 なんだかんだ言って、俺も環境に染まってしまった。
 剣を交えるのを楽しみにしている自分に笑ってしまう。

「ではこれより、ジークベルトとバルシュミーデ伯の親善試合を行う。ルールは簡単。攻撃魔法なしの一本勝負。どちらかが降参、戦意喪失をした時点で、勝敗は決する。ただし、私が危険だと判断すれば、途中で試合を止める。両者いいね」
「「はい」」
「それでは、始め!」

 叔父の号令と同時に、俺は『倍速』『守り』『強化』を展開する。
 素早くエトムント殿との距離を縮め、まずは小手試しのひと振り。キンッと、小高い金属音が響く。
 くっ、さすが、剣が重い。
 ……まっ、まずい……つっ。
 エトムント殿が、すかさず身長差を生かし、剣を合わせたまま体重をかけてくる。
 圧がハンパない。
 くっ、このままだと、押し負ける。
 どうする。いったん引いて、体勢を立てなおすしかないが、この優位な状況でエトムント殿が、やすやすと引いてくれるはずはない。
 だが、剣を押しつつ、うしろに引くしかない。
 そうだ!

『沈下』
「!」

 ふー。焦った。
 危ない、危ない。
 序盤だからと油断した。

 状況を説明すると、エトムント殿の足もとにある土を沈め、慌てたエトムント殿が、剣を引き後退した。
 これは攻撃魔法ではないから、ルール上、問題はない。
 んー。フィールドを変更してみるか。
『沈下』『隆起』を使い、数十秒で裏庭を高低差のあるフィールドへ変える。
 俺のこの奇妙な行動に、エトムント殿は動けないでいた。
 魔法能力の高さと、一刀目で把握した剣の技量を踏まえ、警戒している。だが、勝機が見えていたはずだ。
 先ほど剣を合わせた結果、このまま戦えば、ジリ貧で俺の負けが確定してしまうからだ。
 魔法で『強化』したにもかかわらず、五分どころか押し負けていた。パッシブスキルの身体強化も効いているのにだ。
 過信していた。
 魔法で強化できても、もとが発展途上の子供の体なのだ。
 強化にも限度があるのだ。
 そこで思いついたのが、速さと身を隠せるフィルードだ。
 小さな体を生かし、奇襲をかける。体力は消耗するが、エトムント殿の精神負荷は、相当なものだ。
 もちろん気配察知されないよう、うまく『隠蔽』を使用する。
 これでどこから攻撃されるかわからない状況だ。
 なかなかの作戦だと思う。
 何度目かの奇襲で、相手の懐に入る隙が生まれた。だが、あと数センチのところでかわされる。
 俺はザッーと、うしろに下がり、エトムント殿の動向をうかがう。

「なかなかやりますね。気配が掴めない。これでは私がもたない」
「負けを認めますか」
「まさか! このような機会はそうそうない! 己を高める絶好のチャンスだ! これで私もまた成長できる!」

 あっ、変なスイッチ押したかも……。
 エトムント殿の目が大きく見開かれ、口から「フフフフフ……」との声が漏れる。
 精神が削られる現状をあきらかに喜んでいる。
 うわぁー。エトムント殿って、マゾか。この表情、教育的にもヨハンに見せていい表情なのか。
 いやダメなやつだと思う……。
 ハッと、ヨハンたちの位置を確認して、安堵する。
 ヨハンたちからは、エトムント殿の背中しか見えない。
 高低差のあるフィールドへ変更した際、叔父が気を利かして観覧席をフィールドよりも高くしたため、全体が見渡せるのだ。
 この表情を子供に特に父親を尊敬しているヨハンに見せないでよかったと油断していると、すぐ横から剣圧が飛んできた。
「あぶなっ」と、ギリギリのところで回避する。
 いらぬ心配をした隙に、攻撃を受けた。
 俺の代わりに剣圧を受けた土壁は、斜め横に切断され、ズッズッズと、上が落ちた。
 えっ、あれ、まともに受けたら死にますが……。
 ぶるっと身震いし、攻撃したエトムント殿を確認するが、そこにはいない。
「しまった! 上かっ」と、声をあげた時には、剣が俺の頭上めがけて振り下ろされていた。
 間一髪、『倍速』で避ける。
 ドスンと、先ほどまで俺がいた場所は、直径一メートルほどの穴があいていた。
 えっ、あれ、デジャブ?
 死ぬよ俺!
 これ親善試合だよね。

「これも避けるか……フフフ。なかなかしぶとい。さていつまで避けれるか」

 その宣言から始まった剣圧の嵐。
 せっかくつくった高低差のフィールドが跡形もない。怒濤の攻撃で、ふたりとも、息が荒い。
 ただやはり武人。攻撃力が回を増すごとに上がっている。
 そろそろ決着をつけないと、俺自身の身が危ない。
『守り』を展開しているので、攻撃は死守できているが、なんだかそれも、エトムント殿に突破されそうなのだ。
 ここで仕掛けないと、負ける。
 俺の直感がそう言っている。
 顔の横を剣圧が飛ぶ。
 考えている間にも攻撃の手はやまない。
 俺も慣れたもので、剣圧の動きに体が自然と反応し、軽々と避けるようになった。
 それに気づいたエトムント殿は、剣圧の速さと攻撃力を高めていく。それを俺が軽々と避ける。
 さらに──と、もう悪循環だ。もちろん俺が避けた先は、土壁だったものの残骸だ。
 俺が、あぁなった可能性はある。
 決着をつけよう。
 俺は魔力循環に集中する。
 黒い剣に、おびただしい量の魔力を注ぐ。
 まだいける。まだだ。
 黒い剣が、赤黒く光りだす。まだだ。まだお前の限界はそこじゃない。
 エトムント殿の息をのむ声が聞こえた。

「バルシュミーデ伯、決着をつけましょう」

 そう言った俺の手には、俺の全魔力を注いだ赤黒く光る黒い剣が、不気味に光っている。
「えぇ」と、エトムント殿は、受けの姿勢で構える。
 俺はひとつうなずき、今できる最大限で、エトムント殿に向かい剣を振る。
 それを全身で受けとめようと剣で支えるが、真っぷたつに剣が折れ、防御魔法の障壁も割れ、黒い剣がエトムント殿の体につく寸前で止めた。だが、勢いのついた剣圧は、エトムント殿の体を切り裂く……直前で、二重いや三重の『守り』が展開されていた。
 叔父の『守り』だ。

「そこまで! 勝者ジークベルト!!」

 叔父の声が響き渡る。
 終わった。
 勝てた。勝利を噛みしめる。

「最後の一刀は、手出しできない。完敗だ。ジークベルト殿は強い」
「いえ、今回はたまたまです。一時はどうなるかと……」

 健闘をたたえ合いながら、お互いに握手を交わす。
 そこに叔父たちが、近づいてくる。

「ジーク、最後の一刀はすさまじかったね。剣を折った上に、防御魔法を三枚壊した威力はすごいね」
「ヴィリー叔父さん『守り』ありがとうございました」
「親善試合で、怪我人が出る事態になれば、私の責任だからね。でも保険をかけておいてよかったよ。判断を誤れば取り返しのつかないことになったからね。で、あれは、剣にジークの魔力を注いだだけなんだね」
「はい。魔法剣は、攻撃魔法と判断しました。序盤で、バルシュミーデ伯との力量差がわかり、精神攻撃へ戦略を変えたのですが、あの通りの結果となったので、どうしたものかと考えていた時に思いついたんです。剣に魔力を注げば、体と同じく攻撃力が増すのではないかと」
「普通の剣なら、魔力に耐えきれず折れるだろうけど、その剣は特別だからね」

 俺の説明に叔父は納得したかのようにうなずく。
 横にいたパルも「試合中に思いつくとは、さすがジークベルト殿ですな」と称賛する。
 だけど、ヴィリー叔父さん、パル、俺は忘れませんからね。
 試合中、エトムント殿の殺気を間近で察した俺は、ふたりへ必死に合図していた。
 それにもかかわらず、無視しましたね。
 危険と判断したら止めるって言いましたよね。
 覚えていろよ。狸親父ども。

「お、おれは、みとめない! こんなの……。お前、ずるしたんだ!」

 ヨハンの叫び声が、裏庭に響く。
 ヨハンはひどく動揺しているようで、普段の呼称に変わり、その場で地団駄を踏むと、ブルブルと肩を震わせ、涙を浮かべて癇癪を起している姿が目に入る。
 尊敬する父親の負けを認めたくないのだろう。
 その姿に妙に納得する俺がいた。
 そうだよな。四歳児の反応ってこれがあたり前だよな。
 俺の周りは、ほぼ大人であり、子供であるはずのディアーナも、精神年齢が高い。
 俺はもともとアドバンテージがあるので除外だが、そうなると見た目と精神が合致するヨハンが、新鮮に見えるのはしかたがないことだ。
 俺がその様子を傍観していると、ヨハンから魔力があふれ出している。
 これは感情の起伏に、魔力が反応しているようだ。
 魔力制御が上手にできない子供には、たびたび起こる現象だ。
 それといって珍しいことではない。
 ヨハンは、ひと通り暴れるとらちが明かないと悟ったのか、荒くれた感情のまま屋敷に向かい走りだした。
『今彼をひとりにしてはまずい』と、頭の中で警戒音が鳴り響いた。俺は慌ててヨハンを追いかける。
 俺が追っていることに気づいたヨハンは立ち止まり、俺に指をさして警告する。

「ついてくるな! とうさまに勝てたのは、たまたまなんだからな。おれだって、大きくなれば、お前なんか倒せるんだっ!」

 その手には『移動石』が、握られていた。
 なぜここに、それが! まずい!
 ヨハンは感情が制御できず、魔力が暴走している。このままだと『移動石』が、発動されてしまう。

「ヨッ、ヨハン君、落ち着こう。うん、今回はたまたま俺が、勝ったんだ」
「うるさい! うるさいぞっ!! あたり前だ。とうさまが、お前なんかに負けるはずないんだ!」

 火に油を注ぐとは、こういった場面のことを表すのだろう。
 ヨハンは、さらに魔力を暴走させた。
『移動石』が発動する魔力の限界を超え、辺り一面、光に包まれた。