アーベル家の客間に、三人の女性が入っていく。
 ひとりはアーベル家の長女マリアンネ、そのうしろにフードを目深にかぶった女性、その横には年配の女性が付き添っている。

「セラさん、こちらへどうぞ」
「マリアンネ様、ありがとうございます」
「セラお嬢様、足元に気をつけてください」
「大丈夫よハンナ、ありがとう」

 バーデン家の元侍女長ハンナの手を借りて、セラが部屋の中に足を踏み入れた。
 その部屋は、セラの好みのど真ん中で、かつてのバーデン家の自分の部屋を思い出させるような調度品であった。白で統一された中に、細部まで凝ったデザインの家具が配置され、明るく上品な雰囲気に気持ちが上がる。
 思わず「素敵な部屋」と口に出していた。
 その声が聞こえたのだろう。マリアンネがうれしそうに微笑む。
 とてもいい方だわ。私の顔を見ても表情ひとつ崩さず、逆に気遣われてしまった。
 高貴な方なのに身支度の手伝いまでしてもらい、あげくの果てには、髪結いまで。フードをかぶるだけと断ったのに「髪は女の命よ」と、高価なオイルをふんだんに使い、綺麗にまとめて流行の髪型に仕上げてくださった。
 ドレスも私の病を配慮して、一見、地味に見える配色とデザインだが、見る角度によりスタイルをよく見せ、落ち着いた配色が大人の女性を感じさせる。質のよさは一級品で、肌触りに違和感もない。
 この方のセンスのよさだわ。こんなお姉様がいたら素敵だわ。
 今日は驚きの連続。
 初めての『移動魔法』には驚いたし、噂の『赤の貴公子』を目の前で拝見できたことは、一生の記念になる。
 そしてなにより、この病を完治できるかもしれない。

「またお前を傷つけるかもしれない。癪だが最高峰の魔術師がお前の体を見てくれる。アーベル家の全面的サポートの中での治療だ。みすみすこの機会を逃したくはない。少しでも可能性があるなら、セラ、この話を受けてほしい」

 お兄様のその説明を受けて、私はすぐに承諾した。
 私はお兄様の足枷。病を克服して、お兄様を自由にしてあげたい。
 今までの恩を返せるなら、なんだってやってみせる。たとえそれが過酷な試練となっても、もう逃げたりしない。
 そう、極端に人との接触を避けていた私がそう思ったの。
 それになぜかしらもう大丈夫、私は助かると思ったの。だけど、助けてくれるのはここにいる人たちではないとも思った。
 我ながら不思議な直感だわ。
 ベッドに腰を掛けたセラは、フードをはずした。
 顔の右側は腫れ、皮膚が膨らみすぎて右目を覆い隠している。体のいたるところに小さな気泡のようなものができていた。
 これが予備軍であり、対処しなければ膨らみ破裂する。
 今日の分の『魔草』は、屋敷を訪れる前に煎じて飲み終わっている。少しでも良い状態で人に会いたいと願った結果である。

「お兄様たちは、後ほどこちらへ来られるんですね」
「えぇ、今はお父様に報告に行っているところです。治療が終わるまでセラさんのお部屋はここになります。必要なものがあれば言ってくださいね。後から侍女たちを紹介しますね」
「お兄様のお部屋はここから近いのでしょうか」
「バーデン殿の部屋は隣になります。あの内扉が隣の部屋につながっているので、わざわざ廊下を出ることなく会えますよ。ハンナさん夫婦の部屋も用意していますから安心してくださいね」
「私ども使用人にまで、お心遣いくださりありがとうございます。ですが、私どもの部屋は結構でございます。セラお嬢様が治療中の間は通いますので、ご心配無用です」
「いいえハンナさん、バーデン殿からお話があると思いますが、今のお住まいは引き払っていただきます。今後はアーベル家で過ごしていただくことになります」
「それはどういうことでしょうか」
「私の口から説明しても納得なさらないでしょう。バーデン殿にご確認ください」

 マリアンネは淡々とそう説明すると、ベッドから離れていった。
 ハンナは訝しげに離れたマリアンネを目で追っていたが、セラの不安気な表情に気づきやめた。
 ハンナ自身、今までマリアンネにした対応が不敬であることは重々承知していた。
 バーデン家の評判を落としている自覚もあるが、夫であるヤンがいない状況で、ハンナができる最大限は、セナを守ることだ。
 ニコライ様の言葉を信じたい。だが万が一騙されることがあってはご主人様に顔向けできない。
 バーデン家は騙されて没落したのだ。
 目の前にいるアーベル家の長女マリアンネが、良人であることは、セラの身支度でのきめ細かい配慮と、お嬢様の好みで統一されたこの部屋でわかる。
 だが、なにか不測の事態となった時、ニコライ様ではなくセラ様を一番に守る。
 ヤンと決めた、たった一つの約束だ。
 ニコライ様は病気治療のため屋敷を売り払い、今まで務た家人に退職金と次の職場の斡旋までし、最後まで手厚い対応をされた。
 そのご配慮に感激し成長を喜んだ。お給金などもう必要ない。今後、市井で過ごすご兄妹のお世話を続ける。ご主人様に拾って頂いた命、お子様たちに捧げようと決意した瞬間でもある。
 そして、ニコライ様が大事にされているセラ様を一番に考えることにしたのだ。


 ***


「──ニコライ様にお伺いいたします」

 ハンナの言葉にマリアンネは、そっと息を吐く。
 ハンナの疑心を払拭させるには、ハンナが信頼する人からの納得いく説明が必要なんだと、先ほどからのやり取りでマリアンネは感じていた。
 セラを迎えに行った際も、ハンナの説得に苦労した。
 ハンナは、元バーデン家の侍女長だった人物だ。主の危険を感じたのだろう。
 セラの部屋の前で、ハンナは立ちはだかり「セラ様は臥せっておいでです。今日のところはお引き取りくださいませ」との一方通行で、ニコライさえ、セラに会わせようとはしなかった。
 ニコライの説得で、どうにかセラとは対面できたが、部屋の中に入ることを許されたのはマリアンネのみだった。
 身支度のため、侍女たちを伴ったがそれは許されなかった。

「身支度であれば私一人でもできます」

 ハンナが頑なに拒否したからである。
 マリアンネは表情に出さないが、使用人が主の意向に背く姿はとても新鮮であり衝撃だった。
 アンナやハンスは、ギルベルトを叱ったり、お小言や注意することもあるけれど、主の意向に背くことはない。どのような理不尽な命令であっても否とは言わない。
 ギルベルトの命令は絶対だ。
 これはあきらかに主の重きがニコライではなくセラにあるようだ。
 その後もニコライが「セラの治療のためだ」と伝えたが、セラがアーベル家に伺うことに難色を示したのもハンナだ。

「治療のためになぜアーベル家にセラお嬢様が伺う必要があるのですか」と詰め寄り、ヴィリバルトが「では、ハンナさんもご一緒にどうぞ」と提案しなければ、ここでまたひと悶着あったに違いない。
 当の本人のセラは、兄の説明に納得して素直に受け入れていた。
 このかたくななまでの対応になにか理由があるのかともマリアンネは思ったが、今は深く考える必要はないと切り離した。
 だがハンナにもアーベル家の『教育』を受けてもらう。
 ヴィリバルトが、すでにアーベル家の屋敷に住む許可を出している人物である。きっとアーベル家の『教育』をクリアできる者なのであろう。
 その結果、主君が、アーベル家とバーデン家のふたりの主人になることもヴィリバルトの中では、想定内なのだろう。もちろん最優先はアーベル家であることに疑いはない。
 扉のノックの音がしたため、マリアンネはセラに目配せし、フードをかぶったことを確認してから返事をする。アンナが部屋に入ってきた。

「ギルベルト様よりご伝言です。女性の部屋へ大勢の男性が伺うのは失礼だろうとの配慮で、隣のニコライ様の部屋で待機するとのことです」
「お父様らしいわね。わかりました。セラさん、申し訳ないけど隣の部屋へ移動してくれないかしら」
「わかりました。ハンナお願い」
「はい。お嬢様」

 セラがハンナに補助されながら、内扉へ近づくそのうしろ姿を確認し、マリアンネはアンナに合図する。
 アンナは一度うなずき、その場を後にした。