俺は屋敷内である人物の帰宅を今か今かと待っていた。
 ディアーナたちはマリー姉様とお茶会中だ。俺も誘われたが適当な理由をつけて断った。
 女性の話は長いし、気を使う。幼児の時はただ座っているだけでいろいろと情報を得られたが、今は必ずといってもいいほど、意見を求められるし、言葉選びを間違えると集中砲火だ。
 普段優しい姉様や侍女たちの冷めた目は、実に心にくるものがある。
 その現場を思い出し、背筋が一瞬震えるが、ハクのなめらかな毛をなで心を落ち着かせる。
 動物には癒しの効果があると前世の書籍で読んだ記憶がよみがえる。
 動物と接することで、心を癒すなんとかホルモンが分泌されるのだ。
 ハクは動物ではなく聖獣だし、異世界の人間の構造に果たして同じ成分のホルモンがあるかは不明だけど、このモフモフは最高だ。
 ハクの背中に顔をうずめる。

「はぁーー落ち着く」

 癒されているところで、階下が慌ただしくなった。
 俺はハクの背中から顔を上げ、私室の廊下を出る。
 すぐにテオ兄さんの姿を見つけ、駈駆け出したい気持ちを抑えながら挨拶をした。

「テオ兄さん、おかえりなさい」
「ただいま、ジーク。その顔は、なにかお願いがあるんだね」
「さすがテオ兄さん! 話が早いです」と、俺の声色が一段階上がる。
「うん。長年の付き合いだからわかるよ。僕の部屋に行こうか。ハクもおいで」
「ガゥ?〈いいの?〉」
「うん、もちろんだよ。ジークがいない間は僕にベッタリだっただろう。遠慮しなくても、僕の部屋には自由に入っても大丈夫だよ」
「ガゥー〈ありがとう、テオバルト〉」
「テオ兄さん、改めてあの時は、ありがとうございました」
「ジーク。もう何度目の感謝だい。感謝の気持ちは十分もらったよ。だから気にしなくていいんだ。さぁ行こう」

 これ以上の言葉は不要だと、テオ兄さんは手を前に出し制すると、自分の部屋へ歩きだす。
 そのスマートさに、男の俺でもほれぼれするし、マンジェスタ王国の王女様が、夢中になるのもしかたがないと思う。
 これで本人は、まったくもって無自覚なんだ。すごいよね、本当。
 テオ兄さんと関われば、女性は必ず恋に落ちると確信が持てる。ただ親密な関係になるまでに、テオ兄さん特有の存在感の薄さが影響して、発展しないのだろう。
 難儀だよなぁ。兄さんを正しく評価して、支えてくれる人が、この先現れることを願う。

「ガウ?〈行かないの?〉」

 ハクの呼びかけに、俺は思考を戻すと、その頼りがいのある背を追った。

「なるほど、エマの短剣技術を上げたいと」
「はい。僕ではもう限界で、短剣の扱いに優れているテオ兄さんに協力いただきたいのです」
「うーん、それはいいけど……修練場での指導だけでは、短期間でそうそうの上達は難しいよね。エマはその、なんというか、筋金入りのお間抜けさんだよね。武道大会での留守番に含むことは難しいか。ディアーナ様の侍女見習いだしね。たしかにジークの懸念事項はないとは断言できないし、最低身を守る術は必要だね。そういえばアンナの体術指導は……うん、ごめん。聞いた僕が悪かったよ」

 アンナの体術指導の言葉が出ると、俺は目に見えて落胆する。
 あのアンナに『指導教育を再勉強するため、お暇が欲しい』と、追いつめたのだ。この申し出に、そこにいた全員が驚き、アンナをなんとか説得した。
 そしてエマの体術指導は、当分延期となった。
 アンナの心を折ったエマをなぜテオ兄さんに頼むのか。それにはテオ兄さんの短剣技術の高さと、面倒見のよさが関係している。
 エマがこの先何年も地道にがんばれば習得できそうな戦闘スキルが、唯一短剣だったからだ。
 テオ兄さんも、少なからずエマの噂は耳にしているようだ。
 だけど、指導は引き受けてくれるようで安心する。
 ただ、修練場での指導に難色を示している。
 そりゃー、実戦での指導が一番身につくけど、その提案は俺からできない。
 しばらく考え込んでいたテオ兄さんが、大きくうなずく。

「よし。父様に相談しよう」
「えっ?」
「数年前に発見された『アン・フェンガーの迷宮』は、ジークたちが踏破したコアンの下級ダンジョンより、初心者向けの迷宮なんだ。そこの踏破を目指そう。戦闘経験も稼げるし、レベル上げも考えれば一石二鳥だね。早速父様に許可をいただいて、アン・フェンガーの迷宮へ挑もう」
「父上の許可は下りるでしょうか」
「大丈夫。あてはあるから心配不要だよ。ジーク!」

 自信満々にテオ兄さんが宣言する。
 その姿に、すべてを託すしかない俺は頼もしいと思うが、話の展開が早すぎて、いささか頭が混乱していた。
 あれ? これって、俺にとって一番都合のいいことになっている。
 エマの短剣指導、迷宮の踏破、レベル上げ、父上の説得、全部テオ兄さんが主動だよね。
 これは、俺が、楽をできるパターン。
 テオ兄さん、ありがとう!
 降って湧いた幸運を、じっくりと噛みしめるのだった。


 ***


「アン・フェンガーの迷宮に挑むと」
「はい。僕もジークも適正は十分ありますし、ジークの懸念はもっともです。すべてを網羅できると自負するのはいささか傲慢だと考えます。いざとなれば身を守る技術は必要ですし、守る対象を見誤らないためにも必要かと判断しました。父様がご心配されるのでしたら、護衛に冒険者を雇いましょう。もしよければ腕のいいBランクの冒険者をひとり紹介できます。彼は信頼できる人物です。父様さえよければ、武道大会での護衛も頼んではいかがでしょうか」
「その冒険者の名は」
「ニコライ・フォン・バーデンです」
「バーデン家のせがれだな」
「ご存じでしたか」
「あぁ、バーデン家は先々代の当主が騙され没落したが、先代はとても優秀な人だった。お家再興半ばにして病に倒れたのだ。惜しい人物を亡くしたと一時噂になったぐらいだ。そして最近噂になっている『金の獅子』とは、ニコライ・フォン・バーデンであろう」
「はい。彼とは討伐を共にしたことがあり、その技術の高さは筋金入りです」
「わかった。一度屋敷に連れてきなさい。その際に信頼に値する人物かどうか を見極める。彼と契約できたならアン・フェンガーの迷宮への挑戦を許そう」
「ありがとうございます」

 テオ兄さんが頭を下げる。俺もそれに追従した。
 俺が口を挟む間もなくトントン拍子に話が進んだ。
 ほぼ間違いなく迷宮挑戦が決まった。
 俺もテオ兄さんも、ニコライが信頼に値する人物であると確信しているし、本人は隠しているが、ぶっきらぼうな態度の反面、とても面倒見がいいのだ。
 どんな条件であっても俺たちとの契約を断ることはない。
 テオ兄さんが、俺に向かってにっこりと微笑む。
 うっわーー、貴公子がいる。ここに貴公子がいる!
 一瞬、叔父と重なって見えたのは、秘密にしておこう。