今夜12時、誰かが眠る。

ヒトはそれを地縛霊と呼ぶ。

地縛霊という言葉は近年できた造語であるが、
その存在は世界的に古くから知られている。

突然訪れた自身の不幸を受け入れられずに
死んだ者や、恨みや憎しみなどの感情が死後、
オバケになってもなお生前の強い妄執によって
土地に魂を縛りつける――というものだ。

交通事故だけではなく、戦争や災害、
事件によって何十年、何百年と
その場所にとどまることになる。

地縛霊は時代や昼夜を問わない。

古戦場で、深夜のバス停で、廃駅、廃病院など、
決まって好事家からの報告は多い。

――土地、などという線引きも
ヒトの都合に違いなく、実に曖昧ではある。

しかしながら現代においてそんな地縛霊は、
やや住みづらい時代となったと言えよう。

不動産や建設バブルの影響で
土地や建物は常に変化を続け、
オバケがひとつの場所に留まるには
時代の流れが早すぎた。

寿命が長くても居場所が無い。

納骨堂さえも近代化が進み、
骨壷はマンションのような建物に収容され
機械によって運ばれる様子を見て、
インターネットで参拝が可能となった。

お墓が七色に光る時代までやってきた。
ゲーミング墓石とさえ呼ばれるそうだ。

どれも化けて出るには雰囲気が冴えない。

バブル崩壊後には建物の老朽化、
人口集中と過疎化が進んだ近年では
路上生活を送るホームレスなオバケも多い。
不景気で若者が一軒家を買わないからではない。

建物や土地などには関係無く、
ただひとつの妄執が、ヒトをオバケへと変える。
成り立ちは至極一般的で、単純なものであった。

今日もまたひとり、前を見ずに路上を飛び出し、
ひとつの妄執によってオバケが誕生した。

生前大事に握っていたのはスマホであった。
一念発起して死んでみた。

記憶はおぼろげではあるが、
自分が自殺に及んだことを理解するのは早かった。

薄っすらとした霊体? とやらになったものの、
自分が何をすれば良いのか分からず
路上をさまようのみであったところに、
スーツ姿の男が突如目の前に現れて肝を冷やした。
この男も同じく薄っすらとした存在だった。

「あなたはここで何をされてるんですか?」

そう男に尋ねられても、自分が何をしているのか
わかっていればさまよう苦労はしない。

死ぬ時に頭でも打ったのであろうか、
意識はひどく朦朧としていた。

「死んだのですけど、何をどうすればよいやら。」

そう、おかしな相談をしてみたところ、
男のメガネが光ったようにも思えた。

「あなたはオバケになったのですね。
 最近、怪しいオバケがこの辺を
 さまよっていると通報がありました。
 私はオバケ管理局の者ですが、
 転入届けはお済みですか?」

「オバケ管理局? 転入?
 それで成仏するために
 必要な宗教か何かでしょうか?
 自分は無宗派なんですが…。」

「ははは。オバケに宗教は関係ありません。
 オバケは社会の一員ですので、きちんと
 ルールを守っていただかなければいけません。
 オバケが正しくオバケになるべく妄執の為に、
 我々オバケ管理局が目を光らせているのです。
 オバケだからと言ってヒトに取り憑いたり、
 脅かして事故を起こしてはおおごとです。
 過失または殺人容疑で裁かれてしまいます。
 いわゆる『地獄行き』というやつです。」

「オバケ社会ってそんなに厳しいんですか。」

「もちろんですとも。
 オバケには学校や会社はなく基本は自由ですが、
 自由な社会には責任が伴うことをお忘れなく。」

それから男に言われるがまま、
転入とやらの手続きを済ませると
再び路上をさまよう無為な時間を過ごした。

オバケになるとオバケとして
責任とやらを果たさなければならないが、
オバケ社会の責任においてまず
ヒトに危害を加えてはいけない。

なのでこうして路上をさまようことで、
オバケとしての務めを果たすのが
自分の仕事であるらしい。

自分はいったいどんな理由で死んで、
オバケになどなったのであろう。

頭にモヤが掛かったような気分であった。

時折生きたヒトに見つけられることもあるが、
すぐに逃げおおせてしまう。

しかし、日夜さまようだけで
オバケ足りうるのだろうか。

その上、オバケ社会においても、
オバケ税なるものが存在しており、
スーツの男が度々徴収をしに来るのである。

オバケ住民税、オバケ消費税、オバケ健康保険、
オバケ事業税、オバケ資産税、オバケ相続税…。

「いったいこの税金は
 どこに消えているんですか?」

今度はオバケ法人税を支払って、
オバケ管理局と名乗る男に尋ねてみた。

オバケに資産などそもそも無いし、
健康保険など死んだ自分に必要さえない。

すると男がまたメガネを光らせると、
ため息まじりに思わぬ返事が返ってきた。

「いまさら何を言ってるんですか、あなた。
 あなたがオバケとして妄執を失わない為に、
 我々オバケ管理局がこうして徴収に
 来ている居るんですよ。」

「俺の妄執って何なんですか?」

「そりゃあ税金の支払いですよ。」
オレはしがない普通の高校生で、
ごくごく平凡な日々を過ごしていた。

ある日、自分が勇者の記憶を覚醒させると、
元の世界に戻るためにある魔術を見つけた。

オレの新たな物語が今、幕を開ける。

駆け出しの冒険者で魔族との死闘を繰り広げ、
魔族軍の大攻勢から町を守ると功績を称えられた。

王国から聖騎士の勲章を授けられた時に、
前世の妻であった王女と運命の出会いを果たす。

しかし王女は毒を盛られてこの世を去り、
オレは無実の罪で投獄されかけたところを
仲間であった女騎士に助けられる。

オレたちは王国から追われることとなったが、
心強い仲間の女騎士に背中を預け
当初の目的である魔王討伐を目指した。

――だがその旅は長くは続かなかった。

暗黒竜との戦いで不覚にも致命傷を負った俺は、
暗黒竜の血肉を(にえ)とする女騎士の
生命分与の術によって一命をとりとめた。

実は彼女は異端とされる魔術師の家系であった。

女騎士はその代償で魔力の源である生命を失い、
強烈な禁呪の副作用でオレは心臓に
魔神の呪いを受けることとなった。

孤立無援の中、剣の腕前だけで生き延び、
ひとりで魔王を倒すと王国からの罪を免れた。

前妻の娘であった王女を殺した犯人である
女王を告発して、暗黒騎士と呼ばれ
行き場を失ったオレは各国を放浪した。

延命魔法で受けた魔神の呪いは次第に強まり、
魔術師の弟子と名乗る娘(女騎士の妹)の手助けで
転生術により現代に生まれ変わることができた。

どうやら転生の際に、
今までの記憶を封じられていたようだ。

心臓から左腕に巣食う魔神の呪いが暴れ、
ずっと押さえつけていたがもう限界らしい。

現世は悪霊たちの巣窟だ。

魔王死してもなお魔の勢力は衰えることなく、
勇者不在の世界をよいことに人々を病魔に冒す
悪逆無道な振る舞いを続けていた。

だけどオレが覚醒したからには
そんな勝手は許さない――。

「そうか。それは良かったですね。」

スーツ姿にメガネをした半透明な男が頷いた。
察するにインビジブル・スキルの能力者だ。

この男は自らを〈管理局〉と名乗った。

同じく半透明な隣の男は、
丸めた頭に腕を組んでため息をつく。

オレの周りの男たちと同じで、
悪霊に取り憑かれているのか、瞳に光はなく、
死んだ魚のような目をしている。

背の低いオレを見下しているが、
高い潜在能力を秘めていることに
まだ気づいていない大間抜けに間違いない。

こういう奴らはごまんと見てきた。

魚目の男がオレから目を背け、
スーツ姿の男に問いただした。

「そんで、こいつの死因は?」

「道路飛び出しです。転生魔術だとか言って。」
私が入った会社は忙しすぎた。

業務内容を確認した時に、
右から来た案件を左へ流すだけの
単純な仕事かと思っていた。

『自由な気風を大切に。』
という標語が貼られているのを空虚に眺め、
死相の出ていた前任者の顔を思い出す。

私も今同じ顔になっているのではなかろうか。

何度も書類の確認作業を行い、
不備があれば戻ってくる。

通常業務の合間に割り込む修正作業が、
しわ寄せとなって仕事は進まず、時間は進む。

名前、年齢、性別、職業、仕事内容、理由の確認。

漢字の間違い程度であれば可愛いものだ。
ふりがなの記入漏れ、ひらがな指定部分を
カタカナで書くなんてのもある。これも修正。

ひどいものは年齢詐称、性別欄への抗議、
さらに職業の記入誤りを質したところ
反社会勢力の一員でありひと悶着あった。

残業では終わらず翌日に作業をまわす。
昨日の分の残業、残業の残業、残業の残業の残業。
仕事は雪だるま式に膨れ上がる。

これでは私は過労死してしまう。

ヒトの死因は様々あるが、
なんでもここは自殺大国らしい。

ピーク時は年間3万4千人を超えた。
それは1日100人近いペースである。

死を扱うという、想像を絶する現場を
数字だけで語れるものではないが、
検死官はさぞ大変だったに違いない。

さてどうしてそんなに死ぬのか。

よく一番多いと考えられる理由が、
不況によるものであろう。

大きな会社が倒産すると、
周辺の関連会社も仕事を失い
会社を畳まなければならない。

これまで築き上げてきた地位や、
自らの城を壊すことになる。

従業員も同じことで、
積み上げてきた仕事が無駄に終わる。

私のやっている修正作業程度ならば、
まだまだ可愛げのあるものだ。

途中で崩落するドミノ倒しを見届けるのは、
誰でも精神的に堪えるに違いない。

他人からしてみれば
小さな石ころのつまずきであっても、
本人にとっては崖に落ちることに等しい。

安易に慰めの言葉を掛けようものなら、
相手を死に追い込む場合もある。

他の自殺理由には健康上の理由が挙がる。

難病を苦に安楽死を望んだ、
と単純で明白なものではない。

不治の病や、事故による怪我、
薬での重い副作用、後遺症や障害によって、
ヒトは孤独や疎外感に耐えられず、
これまでの関係を多く失えば
社会からの排除されたものと錯覚する。

または高額な治療費により治療を受けられず
死を選ぶしかなかったのかもしれないが、
結局それは死んだ本人にしか分かり得ない。

小さなニキビひとつでも、
死にたくなったらヒトは簡単に死ぬかもしれない。

ヒトの考える生命の重さはそのヒトそれぞれだ。

不況よりも健康上の理由で
自殺するヒトの方が実際に多い。

自殺理由はひとつだけと考えられるものではない。

経済的な困窮、家庭の問題、学校、地域、
男女の問題など、それこそ十人十色と言える。

中にはエクストリーム自殺などと蔑称され、
私も理解に苦しむものもある。

登山経験が浅く、訓練を受けていない者が
下調べもなしに厳しい山に登れば、
ただの迷子や擦り傷で済むわけもなく、
遭難や転落・滑落による事故は免れない。

未熟な者の登山と同じように、誰もが
死ぬと分かっている危険行為におよび、
ひと目を引こうとするのである。

自殺を意図しているいないは別に、その死は
スリルを求めてやった行為の代償に過ぎない。

過労死でさえ問題視されている現代で、
盛大なボタンの掛け違いが起きている。

死後そうしたヒトが私の職場に
毎日のようにやってきては、
書類不備で右往左往とさまよい歩く。

〈オバケ管理局〉にはそうしたヒトが
化けて現れ、窓口にあふれかえる。

『自由な気風を大切に。』
私たちオバケは誰かに拘束されるわけではない。

しかし私は仕事に忙殺されて、
今にも死んで楽になりたかった。

自死も自由のひとつなのかもしれないと思い、
私はさっさと会社を辞めた。

あぁ、無職最高。

私はオバケが苦手です。

中学校では女子たちの間で
怪談話が密かなブームだったので、
私は耳をふさいで恐怖に耐えました。

学校のトイレにある一番奥の個室、
近くの裏山にある無縁墓地の人影、
病院の地下にある霊安所のうめき声、
ヒトに姿を変えた妖怪など…。

怖い話は数多あり、勉強どころではありません。

受験が控える3年生の秋の終わり、
塾の帰りでへとへとになった夜の帰り道で
私はついにオバケに憑かれてしまったのです。

夜闇の中で目を光らせて私を呼ぶ。

耳目をふさいでも目が合った時点で
それは手遅れでした。

おどろおどろしい濁った黒色の影に
金色の瞳が脳裏に焼き付きました。

夜中には高い悲鳴のような声で呼ばれ、
私は睡眠までも奪われました。

朝になると気付かない内に腕や脚、
顔まで血まみれになっていました。

学校と塾とで勉強漬けの生活に加え、
さらにオバケによって勉強のみならず
安眠を妨害され続けると、
私は年末に倒れて入院をしました。

わずかひと晩の入院でしたが、
病院といえば怪談話を思い出してしまい
怖さに安静にするどころではありません。

取り憑いたオバケのほうが
もはや身近な存在になっていて、
感覚が麻痺していたのかもしれません。

受験前に再び入院する可能性を懸念して
塾を辞め、学校と家の往復で無理のない
生活を送るようになっても、オバケとの
憑き合いは長く続きました。

高校、大学を経て何とか入社した会社は
とても忙しくて塾の日々の再来でした。

即戦力が求められる中で、私に
専門知識が乏しかったのも問題でした。

また厳しい上司の指導の元で
任せられた作業にやりがいはありましたが、
人員不足で残業早出徹夜が当たり前でした。

そんな日々のある朝に、
オバケが私に向かって鳴きました。

金色の瞳を細め、私の目を見て
弱々しい声で鳴きました。

オバケは弱っていました。

私は自分の忙しさにかまけ
そのことに気づきませんでした。

上司にオバケの話をしましたが、
「こんな忙しい時期に馬鹿げた話で休むな!」
と罵倒を受けて、私は内心で酷く憤りました。

自分が今まで何に奉仕していたのか
考えさせられたのは、
この時だったのかもしれません。

会社を辞めて5年後、
私に取り憑いたオバケはこの世を去りました。

あの日の私になんかに取り憑いて、
ちゃんと成仏できたんでしょうか。
夜闇に浮かぶ、白い影に
あなたはさぞかし驚いたでしょう。

大きさはヒトの大人ほどのものや、
赤子サイズのものまであり様々です。

ヒトの大きさだからといって、
オバケが全員あなたを待って、目の前で
じっと立っているわけでもありません。

うずくまる姿に見間違えられた白猫。
夜風にゆらめくのは捨てられたレジ袋。
脱走した子ヤギ。

夜間に干された白いふんどしや股引(ももひき)
シーツなどもあなたは勘違いしました。

今どきふんどしの発見は、
オバケの発見よりもレアでしょうね。

干されたつなぎの隣にあるシャツを見て、
首吊り自殺の霊とも言い始めたのには
笑いが止まりませんでした。

死んでも尚、縊死(いし)を続けるオバケならば
よほどの自殺好きかもしれません。
未練も無さそうなものです。

山に灯る光を見て鬼火だと思った時もありました。
あそこは有名なキャンプ場です。

夜間は気温と共にヒトの体温が下がる為に、
悪寒を覚えたり普段とは異なる感覚を味わい
何も居ない場所を恐れる傾向があります。

虚空を見上げる犬猫にさえ、
恐怖を感じて怯えるヒトも居ます。

単なる木目や天井の模様を怨念としたり、
鏡のシケ(金属錆)を不吉に覚え、
終いにはカメラの顔面認証の影響で
コンセント穴まで恐怖の対象となるでしょう。

スマホのライトで照らした
カメラに映る暗闇の中、
目には見えないセンサの誤認識さえ
オバケと疑いはじめたらキリがありません。

あなたは見えないものに怯えているけれど、
それは全て勘違いに過ぎません。

わたしはずっとあなたの後ろに居るのだから。
夏期休講にサークルで催された合宿で、
肝試しがあってから私は怖がりになった。

夜道や電話の音、暗い部屋でさえ
恐怖を感じて何度も友人に相談した。

「小学生じゃないんだから。」と笑われたが、
そんな彼女は肝試しの時に怖がる演技で
男子らに色香を振り撒いていた。

この友人とは対照的に
私は小学生の頃から可愛気はなかった。

肝試しや怪談話に興味は無く、
怖がる友人を励ましつつも
腹の中では呆れていた。

女子たちの他愛ない会話よりも、
授業や勉強の方が幾分かマシだった。

そんな友人は、今では男子の顔目当てで
怖い振りをしているのだからそっちのが怖い。

くじ引きで私とペアになった男子は、
脅かし役のが似合いそうな霊力の高さに
私は一切興味が湧かなかった。

顔も名前もおぼろげな幾人かの男子と
連絡先を交換したが結局全て削除した。

グループで遊びに誘われることはあっても、
大学へは遊びで通っている訳ではないので
丁重にお断りした。

私は建築士になるために
試験勉強をしなければいけないし、
将来設計は大学生のお嫁さんではない。

こんなサークルに参加したことさえ、
今となっては間違えだったと後悔している。

肝試し以降、背中に妙な視線を感じたり
不自然な物音に対して敏感になった。

それで友人からお(はら)いを勧められたが、
お香と胡散臭(うさんくさ)さの混じるお坊様から
「きっと霊感が高まったのでしょう。」
と何の役にも立たないご助言を(たまわ)った。

私の計画にない、無駄な出費だった。

結局お祓いで何かが解決する事も無く、
今も私は不安な日々を過ごす。

オバケや妖怪などがもし現れたら
どのように対処すべきか、
お守りや盛り塩で撃退というには
あまりに現実味もない。

桃太郎ならば実力を行使して鬼を退治し、
バンパイアハンターも杭や銃弾など用意した。

きびだんごやニンニクで事が済むのなら、
話し合いから戦争に発展するはずもない。

オバケの出ないマンションが作れないものか。

電気を付けたまま床に就いた時、
電話が鳴って私は飛び起きた。

この電話には出てはいけないと直感する。

頭皮にジワジワと汗が(にじ)む。

コッ…。コッ…。

ベランダの窓が叩かれた。

外はもう真っ暗で、
ここはマンションの4階だ。

こんな夜にカラスが訪れて
イタズラをするわけがない。

私は怖くなった。

レースカーテンの向こう側。
ベランダに誰か居る。

人影が見える。オバケか、妖怪か。

電話は鳴り止むことはなく、
窓が叩かれる。

コッ…。コッ…。コッ…。コッ…。

強く、何度も叩かれる。

怖い。怖い。怖い。怖い――。

この恐怖に打ち勝つ方法を
私は知っていた。

そうして私は踏み出した。

カーテンを退けて、窓ガラスを開けた。
そこに立っていた人影はオバケだった。
それは見覚えのある、
脅かし役の似合いそうな男子。

オバケに肩を掴みかかられ、私は決心した。

私は踏み出した。踏み外した。

オバケの手を振り払い、
男子の身体を突き飛ばした。

男子はベランダの縁から
身を投げ出して地面に落ちる。

私は恐怖した。

これまで築いてきた
将来の計画が崩れることが、
私は何よりも怖かった。
足音がする。
破裂音がする。
女の笑い声がする。
まぶたを閉じているのに、
目の覚める閃光を時折感じる。
地震も無いのに本棚の物が落ちる。
テレビが点いてチャンネルが変わる。
それから蛇口が開いている。

鈍感な男が借りた部屋は事故物件であった。

事故や事件、または孤独死などによって
定義されて称されるが、明確な基準は無い。

中には、科学的な根拠の無いものまで
この世の中には多く存在している。

ポルターガイスト現象と呼ばれるものである。

そんなメリットと言えば家賃が少し下がる程度だ。

男は鈍感を貫いたが、
近所迷惑になるのを避けて
いくつかの対策を講じた。

まずは床に防音マットを敷いた。

厚さがあるので机の脚部がマットに沈み
椅子などのキャスターの動きが鈍るが、
エクササイズ用にも使えた。

それを機に運動を始めると冷え性を解消でき、
フローリングの冷たさも気にならなくなった。

本棚の物が床に落ちても、マットがあれば
衝撃は吸収されて壊れることもなくなった。

それからヘッドホンを買った。
ノイズキャンセル機能の付いたものだ。

マンションは繁華街に近く、周囲に夜の店も多い。

小さなライブハウスもご近所にある。
昼でも深夜でもお構いなしに若者たちが集まると、
花火を始めるなどで非常識に騒ぎ出しては
警察や救急車が来ることは少なくなかった。

雑音が減れば自宅作業にも集中でき、
夜もアイマスクを付けることで安眠出来た。

それからテレビを捨てた。

男はテレビ番組の時間に合わせて
生活することはなかったし、
テレビを点けたままの作業もしなかった。

録画は大半が映画の放送ばかりだったので、
配信主流となった今では無用の長物だった。

ついでに無駄な受信料を払わなくて済む。

蛇口の締め忘れは元々多かったのは
男自身のせいであったが、
一連の対策ついでに気にするようになった。

――ねえあなた、本当は
  私のこと見えてるんでしょ?

いつもの笑い声のあとで、
女が男に声を掛けてきた。

不法侵入ではない。
この女は男が部屋を契約する前から存在している。

女はいつも家の中をふわふわとうろつき、
無神経にも足音をどかどかと鳴らして歩き、
本棚の本を読んでは物を落として片付けず、
テレビを勝手に点けて自堕落に過ごした。

それがテレビを捨てたことで抗議に来たのだ。

だが男は目を合わせたまま返事をしない。

構って欲しがっている相手の
都合に合わせてしまっては思うつぼだ。

下手に反応して女の要求を飲めば、男は
テレビを買い直すだけで済むはずもなく、
要求がエスカレートするのは必然である。

鈍感を貫いた男は、
ずぼらな女と事故物件での同棲が続いた。
山奥の小さな村里に
朗報が舞いこんだのは秋頃であった。

農作物の収穫を終えて冷害にあった
今年の不作を嘆いていたところ、
山のような腹の巨漢が村にやってきた。

目の周りには濃いクマがあり
タヌキの焼き物を思わせる風貌で、
親しみやすくよく腹太鼓を叩き、
大いに笑う気っ風の良い男だった。

男は土地の下見に来たと言い、
小さな村を一週間掛けて滞在しては、
地元の者が見向きもしない特産品である
動物の毛を使った筆に目をつけると、
真新しい紙幣で大量に買い込んだ。

丸い頭の小さな背丈の村長は
この来訪者に喜んで接待し、
こんな山奥に来た理由を尋ねた。

話し方も実に大げさな男であった。

「こーんなに素晴らしい物は初めて見ますて。
 これらはやがて高い価値を持ちますよ。
 なんせこの村には近い内に家を求めて、
 土地を買うヒトが増えるでしょうからね。
 なんせ時代が、働き方が変わったんですよ。
 ここは都市部から近くて自然が豊かで、
 都市部の人たちが憧れるほど空気が綺麗だ。
 都会と隔離されたこの土地だでな、
 単身者であっても魅力的な場所と言えますな。」

村は山陰(やまかげ)の地ではあった為に、
土地は余らせており、若い働き手は
近くの都市部に移住するのが常であった。

山の近くには高速道路が走っているものの、
近くは耕作に不向きな不毛な土地で
水や空気は悪くなる一方であって、
村の者たちは山の穢れと忌避していた。

そんな場所でも都市部の淀んだ空気に比べれば
都会のヒトには幾分かマシなのかもしれない。

男が出ていって間もなく
土地に移住を求める者たちが、連日
何人か現れたので村長もそれを確信した。

それからしばらくしてふたたび顔を見せた巨漢が、
またしても土地の下見に来たのだが
以前に比べてどうやら様子がおかしい。

「私も古い人間ですんで
 こーんと忘れとりましたがね。
 今はブロードバンドが当然の時代でしてな。
 この村の通信設備が心もとないというので、
 移住を考え直してとるそうなのです。」

男の言う通り確かに移住を求める者たちは、
皆一様にスマートフォンなる画面を見ては
腕を上げたり振ったりしては電波を求めた。

「私の友人が通信大手のインフラ企業に
 関係するところに勤めてましてね。
 ここらの土地にアンテナを立てる
 調査をしようって話が進んどるんです。
 心苦しいとこですが村長さんには
 その費用の一部を負担していただきたく
 思っとるんです。もちろん私も出資しますよ。
 なんせここは宝の山ですからな。
 移住者が増えれば将来設備があって
 困ることはありますまいて。」

そう申し出た男に対して村長は
建前では相手の気持ちを喜んで汲み取り、
本音は利益を村で独占しようと腹黒い事を考え、
調査費用の一部だけを負担した。

男が出ていったあとに通信業者と挨拶し、
ほどなく調査の日程が決まると費用を支払い
順調に進むと思った。

しかし調査の日になっても一向に誰も現れない。
先方に連絡したものの連絡が付かない。

そこでようやく気がついた。
あのタヌキ面の男に騙されて、
村長はやすやすと金を出してしまったのだ。

村長は怒りのあまりに我を忘れて顔を赤くした。

すると全身にボッと毛が生え
茶色と黒色の毛に覆われて、頭には
葉っぱを乗せたタヌキの姿になった。

タヌキの村にやってきた
親しみあるタヌキ面の巨漢にまんまと騙され、
元から有りもしない利益に飛びついて
大金を失ったところに、今度は
村の住民から大変な報告を受けた。

男や移住希望者が支払った紙幣が、
全部葉っぱになったというのだ。

――してやられた。

紙幣を葉っぱにして騙すやり口は、
古くから決まっている。

あの巨漢はキツネが化けた姿であった。