「いっくんは? 小さい頃、何になりたかった?」
そして彼女が放った、その場の雰囲気を変えるための質問。きっとこれは、ただの言葉のやりとりだ。彼女は心に秘めた将来の夢を僕に打ち明けた。だから僕にも同じことを聞いてきたという、それだけのことだ。それでも今の僕にとって、その質問は何よりも鈍く痛む傷に触れるのと同じ。一気にあの棘が生まれるかと思いきや僕の心は落ち着いたままで、考えるよりも早く口が勝手に動いた。
「……サッカー選手」
長年口に出し続けてきた想いを再び思い返すことは、ズキズキと傷に響く。それでも不思議と、彼女には少しくらい話してもいいのではないだろうかという気持ちにもなっていた。その心境の変化は自分でも驚くもので、もしかしたら今僕は夢の中にいるのではないかと馬鹿げたことを思ってしまったほどだ。
僕が全てを投げ出した理由。人と関わりたくない理由。前野を過度に遠ざける理由。それは全て、サッカーによるものだ。僕にとって、サッカーは人生そのものだった。
「小さい頃からサッカーしかやってこなかった。キャプテンもやってたし中学のときは地区予選で優勝とかして。高校でも期待の新入部員とか言われてさ。だけど一年前、試合中にでかい怪我をして。それで全部終わり」
わざと傷をえぐるよう、僕は淡々と事実を話した。やはり今でも、じくりじくりと傷は痛む。それと同時に気付いたのだ。こうして話してしまえば、たったの十秒ほどで語り終えてしまうものだということに。
僕にとってサッカーは何にも替えられないもので、それを失ったことは地球が終わりを迎えるのとほぼ同義だった。それでも客観的に見ればこんなことは世の中にありふれた出来事で、腐らずしっかりと前向きに生きている人もたくさんいるのだろう。
だけど僕にはそれができない。他人が「それくらいで」と言おうとも、「命まで取られたわけじゃないんだし」なんて励まそうとも、そんな言葉は僕にとって何の意味も持たなかった。
だってサッカーを取り上げられた僕は、中身が何もない、空っぽな抜け殻でしかなかったのだから。
「──まあ、現実なんてこんなもんだろ」
誤魔化すようにそっけなくそう言いながら、いつの間にか隣で丸くなって眠っていた猫の背中をつんつんと軽く突付く。猫は時折ひげをぴくぴくと動かすだけで、僕の攻撃に顔も上げなかった。
素直に自分のことを話してしまったことに、じわじわと気まずさと後悔が顔をもたげる。よく知りもしない相手に、余計なことを話してしまった。極力他人とは関係を持ちたくないのに、一歩踏み込ませる隙を与えてしまったかもしれない。
しかし、いつまで経っても咲果の口から何かが語られることはなかった。彼女はただ、右手でまるい石を拾いあげると、それを大きく腕を振りかぶったのだ。
ぽーんと投げられた石は夜空に大きく弧を描き、やがて川の中へちゃぽんと音を立てて落ちる。それから僕に別の石を手渡すと、穏やかな表情で言った。
「こうやって何もかも、遠くへ投げられたらいいのにね」
眠っていたはずの猫が顔をあげ、彼女の言葉に「ニャオォ」としわがれ声で鳴いた。
──きっと多分、込み上がる何かで声を出せなくなった、僕の代わりに。