「……なに? 今の」
結局僕は、三番までフルコーラスで演奏をしきった。本当ならばイントロだけで終わらせようと思っていたのにここまで弾いてしまったのは、彼女の歌声があまりに美しかったからだ。
伸びやかで力強く、だけどどこか儚さも持つその歌声。音楽に精通しているわけではない僕でも、彼女の歌声が凡人のそれとは違うことくらいはわかった。
はあ、と小さく肩を揺らした彼女は、振り返ると満面の笑みを咲かせる。そのあまりの眩しさに、僕は一瞬目を閉じてしまったくらいだ。
彼女はいつも笑っている。だけど今の笑顔は、そのどれとも異なるような──本当の笑顔である気がしたのだ。
「わたしの歌、よかった?」
歌いきって満足したのか、晴れ晴れとした表情を浮かべた彼女は首をすくめてこちらを見る。「一年ぶりに歌ったからちょっと掠れちゃったなぁ」などと言いつつも楽しそうだ。
「すごいと思った、本気で。なんていうか……びっくりした……」
僕を覆っていた棘はいつの間にか綺麗に全て抜け落ちてしまったらしい。あまりに素直な口調に、僕自身がはっと口を抑えてしまう。だけどそれほどに、彼女の歌声は僕の心をひどく震えさせたのだ。
彼女は一瞬びっくりしたようにこちらを見て、それからふにゃふにゃと破顔していく。まさか僕に褒められるだなんて、思ってもいなかったのだろう。
全てがどうでもよくなって、何もかもを諦めた僕。
人との関わりを拒み、ひとりきりで過ごすことを選んだ僕。
だけど人間の根底というものはそう簡単に変わるものでもないらしい。もとの僕が顔を出せば、今この瞬間、再び棘で体を覆い尽くすことは不可能なようにも思えた。
「歌手とか……ならないわけ?」
明日になれば、また棘だらけの自分になっているかもしれない。それでも今は、もう少しこのままでいても許されるような気がする。だから僕はこの素直な自分のまま、浮かんだ疑問を口にした。
これほどに歌がうまければ、きっと小さい頃から持て囃されてきたことだろう。よくテレビ番組で〝歌うまキッズ〟なんて特集されているのを見たこともあるけれど、そういうものに出演したことがあってもおかしくはない。だってこの歌声を、周りが放っておいたとは思えないのだ。
しかし彼女は、そんな僕の視線から逃れるように川の方へと顔を向けた。そのまま、眉を下げて力なく笑う。
僕はこの笑顔を知っている。これは、諦めの表情だ。彼女も僕と同じように、何らかの理由で将来への希望を失ってしまったのだろうか。