それにしても困ったものだ。
 袴田くんが見えるからといって、授業中さえ静かにしてくれるなら大した問題ではない。屋上までついて来れるのなら、あの机に張り付いているわけでもなさそうだ。

 問題は、彼がなぜここに戻ってきたのか。

 やっぱり他校との喧嘩のため? 友人のため? まさか……彼女とか?
 中身はともかく、容姿だけは良い彼のことだ。噂で彼女の陰がある話は聞いたことないが、影でこっそり人気だった可能性もある。

 一人で唸っていると、突然校舎に繋がる扉が音を立てて開かれた。

 不味い。こんな中途半端なところに突っ立っていたら、一人漫才かと勘違いされてしまう。

 私は急いで給水タンクの後ろに隠れると、不思議そうな顔をしながら袴田くんもついてくる。
 『なんで隠れる必要があんだよ?』と聞いてくるのを流し、影からそっと覗くと、扉から生徒数名がわらわらと出てきた。

 女子が一人に対して男子が四人。上履きの色で同学年だとわかるが、男子がやけに荒々しい様子だった。無理やり連れてきたのか、彼女の顔は真っ青だ。
 すると、隣で袴田くんが呆れたように大きな溜息を吐いた。

岸谷(きしたに)か……懲りねぇヤツだな』
「知ってるの?」
『俺のこと敵対視してたサッカー部の奴だ。ずっと先発組で、部内でもクラスでも人望が厚い。確か前に女を取られたとか言って殴りこんできて、返り討ちにしてやったな。実際、人様の女なんて取ったことねぇし、価値もねぇ』

 逆恨みされて返り討ち……。少しだけその岸谷くんを理不尽に思ってしまった。
 懐かしそうに目を細めて、袴田くんはさらに続ける。

『あの後部活辞めさせられたって話を聞いたけど……なるほどな、堕ちたか』
「おちた?」
『まぁ、見てなって』

 そう言って、彼らのいる扉の近くに目を向ける。
 いつの間にか男子――岸谷くんが、女子の腕を乱暴に掴んでいた。

「離して……っ痛い!」
「だって吉川(よしかわ)、こうでもしなきゃ俺の話聞いてくんねーじゃん」
「こんなことする人の話なんて聞けないわ!」

 吉川と呼ばれた女子は、岸谷くんの手を強引に払ってその場から離れようとするが、残りの三人がドアの前で仁王立ちになって遮っていた。

「岸谷くんがこんな酷いことするような人たちとは思わなかった……どうして、どうしてこうなっちゃったの!?」
「うるせぇ! 大体、お前が袴田に近づいたからいけねぇんだよ!」

 岸谷くんの口から隣の彼の名前が出た。
 恐る恐る横目で彼を見ると表情は変わらず、ただ岸谷くんを見つめていた。

「それはっ! ……でも、それで岸谷くんを怒らせた理由には……」
「ああそうだよ! 単純な理由だよ! でもな、俺がどんな思いで、どんなに辛かったか、お前にはわからねぇだろ!」

 岸谷くんは叫びながら、彼女の制服を掴んで引き寄せると、反対の右手で拳を振り上げた。吉川さんは怯えて目をっぎゅっと瞑る。

 彼の拳が彼女の鼻先に届くまで、あと約三十センチ。
 目の前の光景がスローモーションのようにゆっくりと動いて見えた。

「――っ駄目ぇぇえ!」
「うおっ!?」
「え……?」

 気付けば私は、給水タンクから飛び出して、彼女の制服を掴む岸谷くんの腕に飛びついた。

 すると、その反動で彼の拳が吉川さんではなく、私に照準を切り替わった。驚いて焦った顔をしている岸谷くんだが、勢いのついた拳を逸らすことはできない。

 私は心底後悔した。
 どうして自分から突っ込んで行ったんだろう。
 痛いことも、あとから悪目立ちすることもわかっていたはずなのに。
 それでも、目の前で人が殴られるなんて、見てられない!

『……あーあ。やってらんねぇ』

 耳元で袴田くんの気怠そうな声が聞こえる。
 引っ付いてくるならなんとかしてくれ。 

 拳の衝撃を顔面で受けるまで、あと十センチ。
 私は目を瞑って、これから訪れるであろう痛みに備えた。