澪が真新しいiPhoneを見せてくれたのは、梅雨入りした頃だった。そのときには、ふたりで下校するのが当たり前になっていた。といっても、学校を一緒に出るわけじゃない。
 彼女はたいてい、少し離れた公園のベンチに座っていた。
 僕に気づくと前置きもなく立ちあがり、隣を歩くのが常だった。
陸斗(りくと)はスマホないんだっけ」
 僕が未だにスマートフォンを所持していないことが分かると、彼女は残念そうに言った。
「せっかくメッセージアプリで繋がろうと思ったのに」
 僕は今までスマホの必要性を全然感じなかったけど、がっかりしている彼女を見ると、がぜんそれが欲しくなった。今は小学生でスマホ所持もめずらしくない。SNSやゲーム、動画投稿、色んなことができる時代だ。
 澪と会話できるのは、下校するわずかな時間だった。この大切な時間だって、いつまで続くか分からない。
「パスコード、何にしようかなぁ」
「パスコード?」
「スマホのロックを外すときに、数字が四つ必要なの。忘れない数字にしたいんだけど」
「自分の誕生日とかは?」
 そこで僕は、彼女の誕生日を知らないことに気がついた。
「澪って何月生まれなの?」
「私は六月十日。陸斗は何月生まれ?」
「十月七日」
「十月なんだ。秋生まれだね」
 ふわりと笑う気配がした。彼女に微笑みかけられると、いつも「普通の平日」でしかない自分の誕生日さえ、本当に特別なものに思えてくるから不思議だった。
(来年は、誕生日を一緒に祝ったりできるかな)
 一瞬だけ、そう思った。
 僕たちは、日常の隙間にある一時的な空白を共有しているに過ぎなかった。
(スマートフォンがあれば、この吹けば消えそうな関係性をもっと強固なものに――未来へ少しでも続くものに変えてくれるんだろうか)
そんな甘い幻想がまぶしい光のように浮かんで、目の前の風景をくらませた。かいま見えた想像は、夢のような甘苦しい痛みだけを残したまま、住宅街を満たしている夕闇のなかにまぎれていった。

*

「古谷、スマホ持ってないの?」
 夏休みが始まる前。
 移動教室の途中で久米にそう聞かれたとき、懐かしい台詞だな、と思った。それを欲しいと思ったときの願望はもう消えていた。それなのに、真新しいスマートフォンが鞄のなかには入っている。
「あるよ」
 僕がそう返すと、久米は大げさに肩をすくめた。
「なんだ、あるんじゃん。メッセージアプリ入れてる? クラスのグループ入っとけよ」
 全然気乗りしない申し出だったけど、
(彼女も入っているかもしれない)
 と考えて思い直した。もしそうだとしたら、アプローチもしやすくなる。
 期限は八月三日。
 それまでに、何らかの行動を僕は起こさなければいけない。
 久米は人懐こい性格なのか、入学当初から一人でいる僕に話しかけてくる。まだ七月半ばなのに、すでに日に焼けていた。なんでも水泳部に所属しているらしい。僕は相変わらず、高校でも帰宅部だった。でも、もう彼女の隣を歩くことはない。
 ――と、保健室の前を通りすぎようとしたせつな、ひとりの女子とすれ違った。うつむいたまま足早に廊下の先へ消えていく。ずいぶん顔色が悪かった。僕は妙な既視感を覚える。
(あの子、確か……)
「あれ、沢井(さわい)じゃん」
 まだ隣にいた久米が、めずらしそうにつぶやいた。
「沢井さん?」
「同じクラスだよ。入学して数カ月で学校に来なくなった女子。ここで見かけるってことは、保健室登校してるのか」
 僕は既視感のわけを知った。
(入学して、数カ月で)
 途端、背筋が粟だった。
 それは――三年前の、あのときの彼女と同じだった。

*

「古谷くん家近いみたいだし、これ届けてくれないかな」
 担任からそう言われたのは、澪が学校に来なくなって一週間後のことだった。
 何の前触れもなく、彼女は登校してこなくなった。
 最初は(体調不良かな?)と安易に考えていた僕も、日にちが経つにつれ、少しずつ心配の度合いは増していった。このときほど、スマホがないことを恨めしく思ったことはない。僕は了承した。どのみち、いずれ様子を見に行くつもりだったのだ。口実があるのは好都合だった。
 一週間分のプリントを手に、僕は彼女の家を目指した。家の場所は知っていた。帰る方向が一緒なのは、幸いだったと言うべきだろう。ようやくたどり着いた僕が家の玄関のチャイムを鳴らすと、ほどなくして母親と思しき人が現れた。
「あら、澪のクラスの?」
 僕がプリントを持参したことを告げると、その人は「ありがとう」と言いながら目をうるませた。けれど、それは錯覚かもしれない。
「そんなに悪いんですか」
 澪の容態について尋ねると、母親は曖昧に首を振った。
「それが、数日前から部屋にこもって、出てこようとしないの。何を聞いても答えてくれなくて」
 明らかに憔悴した様子の母親の言葉を聞いて、僕は思わず言いつのった。
「彼女に会えませんか」
 会って、話をしたかった。
 そうすれば、ひとりじゃ解決できないことも突破口が見つかるんじゃないかと。
 母親は、「澪に聞いてみるわね」と引き下がってくれたものの、「誰にも会いたくない」という伝言しか得られなかった。
「せっかくなのに、ごめんね」
 母親は心底申し訳なさそうだった。
 いったい何が彼女を追いつめたのか知りたかったけど、そう言われたら、僕はそのまま家に帰るしかなかった。そのとき、彼女はすでに深く傷つけられていて、修復さえ不可能な場所へひとりで行こうとしているなんて、想像することもできなかった。