教室のなかで笑う彼女の姿を見つけたとき、僕は時間がとまるような錯覚に一瞬おそわれた。四月特有の寄る辺なさや喧騒や雑多な空気まで、周囲から遠ざかっていく。
(やっと見つけた)
 知らぬ間に息をとめていた。どれほどこの瞬間を待ち望んだか分からない。 
 そう思っているのが、たとえ僕だけだったとしても。
 あまりに見つめていたからだろう。彼女はクラスメイトと談笑する合間、気づいたように、僕を見た。心臓が途端に早鐘を打つ。交錯したかに思えた視線は、直後ふいに外された。心臓はまだ鳴りやまない。僕はとめていた息を吐きだす。

 僕は彼女を見た瞬間、「やるべきこと」を思いだした。消してしまいたい記憶が奔流のようにあふれてきて、嫌でも過去を思いだす。
 彼女と関わりたい。関わりたくない。知りたい。もう知りたくない。
 相反する感情が渦巻いて息苦しくなる。胸の痛みが「忘れるな」と叱咤する声を聞きながら、もう一度さりげなく目をやった。
 高校に入学した日――それが、『彼女』との邂逅だった。



 三年前。
 中学一年だった春。初めて話しかけられた日を、僕は今でも覚えている。
古谷(ふるや)くんも帰宅部なの?」
 それは何でもない日常会話の一部だった。
 でも、中学に入ってから友達の一人もいなかった僕は、彼女の明るい声に雲間の光を見た気がした。
「そうだけど……」
 心象風景に反して、僕の返事はそっけなかった。何せ女子と話すことすら久しぶりすぎて、会話の仕方なんて、とうに忘れてしまったから。
 その態度を気にとめず、彼女はやわらかく微笑んだ。
「そっか、私も同じ」
 ただ、それだけの会話。
 それで終わるはずだったのに、『同じ帰宅部』という共通項を見つけてからは、なんとなく帰りが一緒になって、気づけば隣を歩いていた。冷やかされるのが嫌で、学校ではわざと距離を置くようにしていたし、彼女もそれ以上僕に近づいてくることはなかった。けれど、教室で誰ひとりと会話することができなくても、彼女とだけは一日の終わりに話ができるのだ。そのことが温かな熱をともなって、次第に日常を塗りかえた。

 季節が移ろっていくにつれ、お互い名字で呼んでいたのが、ふたりでいるときだけ名前で呼び合うようになった。僕たちは違うクラスで、お互いの接点も少なかった。でも、ある日、移動教室の途中、ひとりでいる彼女を見かけて――横顔が寂しそうに見えて、下校している途中、僕は思わず問いかけた。
(みお)も教室でひとりなの?」
 本当はそんなことを聞くべきじゃなかったのだろう。
 でも、僕はそのときすでに彼女に惹かれていて、たとえほんの少しでも屈託を抱えているのなら、それを共有したかった。
 彼女は「意外なことを言われた」というように目を見開き、ついで「そうだよ」と肯定した。
「グループとか、苦手なんだ」 
 ショートカットの髪が揺れる。
 教室には、目に見えないヒエラルキーが存在する。誰にも侵すことができない、変えられない空気は、当たり前のように日常の深部にはびこっている。
 自分が底辺にいると認識するのは、時に苦しいことだった。でも――それ以上に彼女が悩んでいることを、僕は全然見抜けなかった。
 ずっと、帰り道一緒にいたのに。
 僕の隣を歩く彼女は穏やかな空気をまとっていて、苦悩の片鱗さえ僕に見せなかったから。

 あのとき、もう少し踏みこんだ話をしていたら、未来を変えられただろうかって、今も後悔が湧いてくる。その胸の痛みを強く感じるときだけ、僕は「やるべきこと」を忘れないでいられたのだ。