六十一話 風魔の敗北


「風魔の負けだな」


 静馬は兵之助の死体を検分しながらこの戦に決着がついたことを悟った。
 勝ったのは八犬士でも北条でも、ましてや風魔でもない。勝ったのは一夜。
 遠目に光を纏った八犬士が、悠悠と見えない階段を上って小田原城に向かうのを見て、薄々と感じていたことではあったが、こうして真っ二つに割れた兵之助の顔を見ると実感せざるをえない。
 やむにやまれぬ事情で、配置につくのが遅れた静馬は、小太郎の采配で兵之助との配置を交換させられていた。兵之助が城下町内の警備、静馬が外回りの巡回に。
 小太郎としては、残った者の中で一番腕の立つ静馬を重要度の高い城下町の警備につけたかったが、所定の時刻に静馬が現れなかった為、やむなく先に待機していた兵之助に城下町の警備を命じる。お蔭で小太郎からたっぷりとお小言を貰ってから、小田原の裏手にある山林方面への巡回に出立することになった。
 道すがら聞いた連絡役の話によれば、兵之助が先の光の八犬士を発見し交戦に至ったのは、静馬がここから離れた場所を巡回している時。まるでこちらの動きを監視していたかのように、連携できない時を見計らって動かれた。
 これはますます苦しくなったなと、かわいい弟妹のことを考えながら思わずにはいられない。あの光の八犬士の小田原城攻略はおそらく失敗に終わる。乙霧とて、まさか八犬士が宙を歩いて城に向かうとは考えもつかなかったろう。なにせ自分が小太郎から巡回を強化するように言われたのは小田原城を見下ろせる山側。もちろん乙霧の助言によるもので、彼女はそちら側から火付けを担当する八犬士が何らかの方法で『呪言』の力を届かせるのではと考えていた節がある。
 結果は違った訳だが、あの八犬士も乙霧の考えた炎に対する善後策に考えが及ぶとは思われない。誰が火を消すのではなく、火を移動させることを考えるというのか……。
 かわいい二人を不憫とは思いつつも、自分よりも遥かに荒唐無稽なことを思いつく者達がいる世間の広さに、静馬は口元が緩むのを抑えきれない。
 静馬は風魔の生き方が嫌いだった。
 これまでの風魔の生き方も。四代目小太郎の目指す、これからの風魔の生き方も。
 乱波衆は確かに命がけで戦い使命を果たす。だがそれを笠に着て、風魔のような小さな里で弱い者相手に威張り散らすような慣習も、ただ壊して奪うだけの乱波の務めもどちらも嫌いだ。
 小太郎が考える忍びという考え方にも賛同しかねる。乱波働きに主眼をおかず、諜報工作そう言った活動を地道にこなしながら、北条家の影となって忍び生きる。確かにそれならば戦闘を得意としない者もそれなりに評価されるかもしれない。そういった生き方を選んでする者は良い。だが里で生活をするということだけを条件にその生き方を強いるというのであれば、これまでの風魔の在り方と大差ないと静馬は考える。
 静馬はもっと自由に生きたい。個人がしたい生き方ができればいい。夫婦になりたいと思った者達が自由に夫婦になれればいい。静馬はそう思わずにはいられない。子供の頃から風魔の為だけにと言われて育った反動か、気がつけばこういう物の考え方をするようになっていた。もっとも、そんな静馬も、誰もが自由に生きることができる時代が、実際に来るなどとは微塵も思ってはいないのだが……。
 静馬は配下の風魔衆に、二人の死体の片づけを指示すると思案にふける。
 一夜の勝利はすでに揺るがない。これでは煎十郎が一夜に連れていかれてしまう。煎十郎から聞いた乙霧の体質が本当のことだとすれば、乙霧が役目を果たしたことを自身で認識し、煎十郎に近付いた時点で、時雨の敗北は決定的。一番の回避方法は、時雨にも迂遠に提示したが、乙霧に煎十郎より相性の良い相手を見つけさせることであった。だがもう風魔衆以外の男を乙霧に引き合わせている時間は残っていない。なにせ煎十郎がすでに小太郎から命じられた最後のお役目を終えてしまっている。まさか煎十郎の勤勉さがこのようなところで二人の首を絞めることになろうとは、さすがの静馬も考えてもみなかった。
 残されたあの二人を風魔のしがらみから解き放ってやる方法といえば……


「殺してやるほかないか……」


 だが、問題は時と場所。まかり間違えば風魔が一夜を敵に回すことになりかねない。おそらくいまの風魔では戦わずして一夜に敗れさる。一夜はそういう術に長けている。よほどうまく立ち回らなければ難しい。
 静馬は風魔の生き方や慣習は嫌いだが、小太郎自身も含めて、風魔の人々が嫌いな訳ではない。風魔がなくなるのはかまわぬが、風魔の人が滅ぶのは避けたい。


「生き残って逃げてくれると都合がいいのだがな……」


 呟きながら静馬は、足を使って、赤い石を周りの土で覆い隠す。


「どうかされましたか、静馬殿?」


 兵之助と共に八犬士を襲い生き残った風魔衆の一人が、静馬の呟きを聞きつけ声をかけてくる。


「いや、なんでもない。それより犬はどうした?」

「は?」

「犬だ。八犬士と一緒にいたという大きくて白い犬だ。お前たちがここに戻った時にはいたのか?」


 静馬が遠目に八犬士を確認した時には、そんな犬は連れていなかった。宙を歩いていたのは八犬士ひとりのみ。


「ああ。いえ、おりませんでしたが、所詮は犬でございましょう? 主がいなくなって野にでも帰ったのでは?」

「主人と別に行動して、風魔衆を一人殺してのける奴がか?」


 気にする必要はないのかもしれないが、もしその犬の目的があの八犬士の救出にあるとしたら……。
 あの八犬士自身は小田原攻略が成功しようとしまいと死ぬ覚悟であろうが、犬がその主人の覚悟とは別に行動を起こさないと誰が言えよう。相手はあの八犬士の犬なのだ。
 もしも。もしもだ。あの八犬士が生き延びて逃げるとすれば……安房。裏をかくような余裕があるとは思われないから、この際伊豆方面と甲斐方面はない。安房に逃げるには、陸路と海路があるが、海路を捨てる。氏政が敗れたといっても、海軍はほぼ無傷で戻って来る。これまで一ヶ所に閉じ込められていたという八犬士が海に慣れているとも思えない。隠れる場所のない海路よりも、距離はあっても隠れることができる陸路を選ぶ可能性が高い。特に武蔵の国の滝山城方面に向かえば、少し道を外れるだけで深い森が広がっている。


「そちらに逃げてくれれば、……望みがでてくるか……」


 静馬は厳しい眼つきで、また少し遠くなった光を見つめた。