六十話 裂ける炎


 生野は胸騒ぎを感じた。
 二の丸に到達しても、鉄砲や弓を持ち出してくるような者がいないことで不安が強くなる。
 お礼とお信磨の二人、が北条に見つかってしまったのではないのか? それで武具を持った者のほとんどが本丸に向かってしまっているのではないか? 
 二人は見つかったとしても、目的を成し遂げようと奮戦するに違いない。特にお礼は、八犬家に戻った生野に、苦難を共にしていない奴に頼る気はないと、正面から堂々と言ってくるほどに気が強い。生野が使わないで欲しいと願っているもう一つの『呪言』を使うことに、躊躇いはしないだろう。
 本丸へと続く門が見えたところで、生野は自分の不安が的中してしまったことを知る。
 堀を渡す橋の上、女がひとり、欄干に寄りかかっていたお礼を堀へと突き落す。
 生野は思わず身を乗り出しそうになり体勢を崩した。ぐらついた体を磁極の道から外れる寸前で、なんとか持ち直す。
 お礼を突き落した女が、こちらを見上げる。
 その視線を感じながら、生野はその場で深呼吸する。ぐらついてしまったのは、お礼のことに動揺したばかりではない。身体がかなりの熱を持ちはじめているからだ。
 光りを吸収し増幅させて放射する『呪言』。生野はこれを城下町から使い続けている。体に発生している熱量はかなりのものであろう。瞬間的に使用するだけでも水での冷却は必要なのだ。
 熱い息が口からこぼれる。いまは愛する者の死を悲しんでいる暇もない。涙さえ流れる前に蒸発する。
 大丈夫だ。お礼とは地獄で夫婦になろうと誓いを交わした。小田原城が炎上するのを見届けたら、その炎に身を投げるのも悪くない。きっと彼女に渡した自分の分身が、自分の魂を彼女の元へと導いてくれることだろう。
 一時の悲しみと苦しみを水がわりに飲み込んだ生野は、再び本丸へと歩きだす。だがこの磁極の道は、彼にとって茨の道であった。
 本丸を目前としたところで、風魔衆らしき男を道ずれに、屋根より転がり落ちるお信磨の姿を見る。屋根から離れた瞬間二人が炎に包まれる。一瞬だけお信磨と目が合った。
 生野は音にならない声で叫ぶ。死に行く妹に声をかけてやりたくとも、それすらできない。『呪言』を受け入れた我が身を呪いたかった。
 指に歯を当て、軽く噛み切った。指先を天にかざす。滲んだ血が、赤い蒸気となって天へと上る。
 せめてこれが、一年ほどしか共に過ごさなかった自分を、美しさも将来の希望さえも奪い去った男を、兄と慕ってくれた優しき妹を、天へと誘う道標になることを願う。
 生野は遂に眼下となった小田原城本丸を睨みつける。屋根の上には風魔衆らしき男たちが数人いた。本丸の周囲にも人が集まっている。彼らはなす術なく生野を見あげていた。
 生野は、彼らが宙を歩いてきた自分に心を奪われている間に行動を起こす。彼らが冷静さを取り戻し、弓や鉄砲を持ち出してきては面倒だ。おそらくは生野が歩いている磁極の道に吸い寄せられ止まるではあろうが、もしもを考えない訳にはいかない。失敗は許されないのだ。
 生野は残っていた宣伝用の紙をここでもばらまく。民衆への効果に比べれば、ささやかな効果しかなかろうが、やらないよりはまし。
 背中の二本の指し物を投げ捨て、両手を大きく広げる。特に意味のある行動ではない。だが、声を出せない生野には、相手に自分を意識させ目に焼き付けさせるには、目立つ行動は必須。
 地に縛られた者たちの視線を十分に感じ取り、生野は小太郎屋敷に火をつけた時に用いた、黒い円錐状の筒を取り出す。
『生』の半珠を、お信磨が油を塗りつけたであろう本丸の屋根にしっかりと向き合わせる。
 屋根の上にいた風魔衆が、慌てた様子で屋根に開いていた穴の中へと飛び込んでいく。彼らは小太郎屋敷がどうなったかを知っている。生野がなにをしようとしているかに気づき、身の危険を感じて逃げたのだろう。
 生野は黒い筒を、光を発し続ける『生』の半珠に被せた。筒の先端から細い光が、誰もいなくなった屋根に注がれる。
 誰かがあっと声をあげた。光の当たった箇所から火の手が上がり、それはあっという間に本丸の屋根全体に広がっていく。
 ……勝った。
 お信磨の呪いである油についた火は、水をかけたとて簡単に消えはしない。対処としては燃える物を遠ざけるのが一番である。だが、階下であれば火のついた箇所を壊すこともできたかもしれないが、屋根からの出火でそれをやろうとすれば、屋根全体を引き剥がすか、建物全体を壊すかしなければなるまい。どちらにしろ、すぐにできることではない。小田原城の本丸の炎上は、もはや免れぬ事実となる……筈であった。
 万感の思いで火を見つめていた生野の耳を、つんざく笛の音が襲った。
 生野が音の発生源を探す。生野の目が、先程お礼を堀へと突き落とした若い女の姿を捉えた。信じられぬほど整った顔立ちの女が、こちらを見上げて笑う。遅ればせながら、生野はあの女が昨夜暴漢に襲われているところを八風が救った女であることに気がついた。
 しかし、生野がそちらに目を奪われたのはほんの一瞬のこと。信じられない現象が生野の前で起きる。
 屋根を覆っていた炎が二つに割れた。二手に別れた炎は、屋根から滑り落ちていく。本丸の周りに集まっていた侍たちが、落ちて来る炎に驚き、狼狽して逃げたりその場に倒れこんだりしたが、炎は彼らの頭を飛び越え、地面へと落ちた。それでも炎は動くのをやめず、塀を乗り越え堀に落ちたところでようやく止まる。離れ離れになった屋根の炎は、本丸を挟んで反対側の堀で、それぞれ寂しそうに辺りを照らしていた。
 なにが起きた? 生野は自分のだす光を受けて黒光りする屋根瓦を凝視する。次に笛を鳴らした女に視線を移そうとしたが、女はすでにそこから姿を消していた。
 生野の体が大きく傾く。もはや、体力の限界であった。ここまで身体を支えてきた精神が、目の前で『呪言』が破られたことで、ぽっきりと折れたのだ。
 ついに生野の足が見えない磁極の道を踏み外す。本丸の屋根に一度叩きつけられ、お信磨と同じように屋根を転がり、また宙へと放り出される。
 地面へと落ちる最中、生野の心は、謝罪の思いでいっぱいであった。自分の愚かな策のために命を散らした七人への謝罪。呪いの力を使えるようにするために実験台となった家族への謝罪。呪いの力を得るために犠牲とした八海への謝罪。目的のために、聞かせてくれた話を利用してしまった友人への謝罪。
 謝罪、謝罪、謝罪。
 いったい、自分はなんのために生まれてきたのだろう。
 思考がその疑問にぶつかった時、体が地面にぶつかる感触を感じた。
 地面と言うのは案外柔らかいのだなと思ったのを最後に、生野は意識を手放した。