六話 誤算


 勘兵衛が大声で軍団に指示をだす中、先程まで樽のような腹をしていた犬川太助は、伸びきった皮だけをそのままに、嘘のように痩せ細り、愛馬萩の身体の上で、仰向けに倒れこむ。
 すでに、小便連射砲は止まり、二つの半珠の光もすでに弱まっていた。


「安兵衛。穴はあいたぞーっ。後は任せた」

「ああ。太助兄ちゃんはゆっくり休んでな」


 萩の上からの力のない太助の声に、荷車の上で力強く答えた安兵衛は、抱えていた石臼を勢いよく回し始める。
 奇妙な石臼だった。
 吉乃の両腕に埋め込まれていた石棒と色が同じ石が使われていた。
 上半分が赤、下半分が青。間に薄い布らしき物が挟まれていて二つの石を隔てている。
 石臼上部の表面の中心には鉄棒が刺ささっていて、石臼の下部まで突き抜けており、その鉄棒には銅線が巻かれていた。銅線は鉄棒が突き出た箇所から、安兵衛の鉄脚と肉体の繋ぎ目へと伸びている。その繋ぎ目にあるのは……やはり、半珠。


「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」


 半珠の輝きと共に浮かび上がる文字
 右足の半珠に『仁』、左足の半珠に『如』。
 安兵衛が石臼を回す速度をさらにあげた。
 半珠の輝きが増し、安兵衛の鉄脚に稲光が走る!
 鉄脚と安兵衛の肉体の付け根、荷車と接していた面から突起物が出て、安兵衛の身体を起こす。
 遂には、動かぬ筈のその鉄脚で、荷車の上にしっかりと立って見せたのだ。
 さらに鉄脚の足の裏には車輪が飛び出し、側面からは、はめ込まれていた剥き出しの刀がキリキリと音をたてて倒れ始める。それは足首のあたりで地面と水平になって止まり、その刃は正面を向く。
 安兵衛は石臼から手を離し、半珠を軽く叩いた。
 瞬間、轟音が轟いたかと思うと、荷台の上から安兵衛の姿が消えていた。
北条軍は、塩沢勘兵衛が必死に声を張りあげたおかげか、小便連射砲の犠牲者は二十には届かなかった。
 そして、幸いにもこの馬鹿げた威力の兵器は、再度の使用が無い。兵器の持ち主が馬上で倒れこんでいることから、それは明らかである。
 なのに勘兵衛の悪夢は終わらない。
 八犬士の元から轟音がしたかと思えば、兵達から悲鳴があがった。
 小便連射砲を避けるために地面に伏した兵の上を、重量感たっぷりの鉄脚を持つ安兵衛が駆け抜けて行く。背中や後頭部といった体の背面に車輪の痕を深く刻みつけられ、伏した兵は呻き声をもらす。
 さらに、安兵衛が通り抜けた横では、伏せるまでもなく小便連射砲の難を逃れていた前衛の兵たちが、甲高い悲鳴をあげながら地面に転がる。
 倒れた体には脛から下がなかった。彼らの脛から下だけがいまもって尚、直立を貫いている。
 為す術が無い。勘兵衛の指示で倒れ伏した者はもちろんだが、そうでなかった者も足もとからの攻撃に備える訓練など受けていないし、予測すらしていない。そんな攻撃が人知を超えた速度で行われているのだ、足を止めてしまった彼らなど的以外のなにものでもない。
 唯一の救いは、この男の牙も短い時間しか突き立てられなかったことであろう。
 去っていく安兵衛の背中を見ながら、ようやく勘兵衛は己の判断の過ちと、いま一番にしなければいけないことに思い至る。
 ここを離れることだ。ただし、後方に逃げるのではない。上総に渡るための船が用意されている海岸まで急ぎ進軍し、渡海するのだ。自分の役割は別働隊を里見の領内へと連れていくことなのだから。
 兵の損失はおそらく多く見積もっても全体の五分の一程度。若干ではあるが、まだ合流予定の兵も残っている。これだけの数が渡海に成功し佐貫城にせまることになれば、そもそもの氏康の指示である里見家の後方撹乱の役目はまっとうできるはずだ。
 そもそも、立ち止まるべきではなかったと勘兵衛は後悔する。考えてみれば、たった七人でこの人数の突進を抑えきれる訳がない。多少の犠牲には目をつむり、進軍すべきだったのだ!
 進軍を止めたからこそ野生馬との衝突を回避できたことなど、すでに勘兵衛の頭にはない。目の前にいる得体の知れぬ技を行使する八犬士の恐怖から逃れるたいという無意識の思いが、その事実を勘兵衛の頭の中から追いやる。
 勘兵衛以上に現在の状況がわかっていない兵たちの方が、勘兵衛以上に恐怖心を抱いており、今から進軍の命を下したところで、兵達があの八犬士を踏み越えて先に進んでくれるかという冷静な判断も下せぬまま、勘兵衛は大声で部隊に進軍の指示をだそうとした。


「――――――――」


 声を張りあげることが出来なかった。誰かの手によって口が塞がれたのを勘兵衛の肌は感じとっていた。だが、驚きの為に大きく見開かれた目をもって口元を確認しても、そこには誰の手もみえぬ。ただ開かない自身の口があるだけ……。
 それでも勘兵衛は感じているのだ!
 自分の鼻の下から顎先までをしっかりと押さえつける誰かの手を!
 その見えざる手が、勘兵衛の顔を上に引き上げた。あらわになった喉元に真一文字に冷たき熱が走る。
 雲が再び月を隠そうとする様子を見ながら、勘兵衛は大事なことを思い出していた。彼らが八犬士と名乗りながら、七人しかいなかったことを……。