五十七話 八海との出会い


 日が西の山々の間に隠れようとしていた頃、生野は大荷物を背負いながらも、苦も無く小田原城下町へと入り込んでいた。
 城下町の警備が緩かった訳ではない。北条兵はもちろん、風魔と思しき者の姿も頻繁に眼についた。
 そんな状況の中、目指す小田原城南東へと、特に人目につくことなく来ることができたのは、八風の案内があればこそ。八風が自らの意志でついて来てくれたことに心から感謝せねばなるまい。どことなく誇らしげな顔で自分を見上げてくる八風の頭を、生野はしっかりと撫でてやる。
 小田原城下町。関東一の規模を誇る街であるだけに、この時刻になっても、出歩く人が多く活気がある。ただこれまで西国の大きな街を見てきた生野の目には、京や府内に比べて、いかにもみすぼらしく地味な町に映る。
 自分を先導する八風の背中を見ながら、生野は府内にいた頃を思い出す。
 思えば八風の母。八海に出会ったのが府内の街であった。いまから六年ほど前のことだ。
 京から府内へと、友人の煎十郎と共に移り住んでから三年の月日が流れていた。
 府内での三年間は、生野を外面的にも内面的にも魅力溢れる若者へと育てていた。
 決して強くはないが、明るく優しい気性の煎十郎との共同生活は、幼き頃の生活で荒んだ生野の心を癒した。ただ煎十郎と出会う前の十年間が消えてなくなる訳ではない。
 生野は煎十郎と共に異国の医学を学ぶかたわら、異国の他の技術や道具も手にいれ、八犬家救済の役に立てようと考えた。
 だが、さきだつ物がない。京で世話になった家から黙って拝借してきた金はそれほど多くなく、人脈も煎十郎を通したものしかない。
 結局、頼りとなったのは、京での生活と変わらず己の美貌であった。日本人はもちろんだが、府内に訪れていた外国人にとっては、この異国の美少年は大金や貴重な技術を引き換えにするほどの価値があったのだ。彼らの言葉をひと月で日常会話ていどなら習得してしまったことも、生野が彼らの寵愛を手にするのに大いに役立った。
 八海に出会ったのは、彼の生活の面倒をみてくれた南蛮商人の邸宅でのことだった。その商人の邸宅の庭に、呆れるほど大きく、見惚れるほど白い毛並みの犬の一家が飼われていた。
 白い熊かと思った巨大な犬の後ろを、おぼつかない足取りで、ついて回る四つの白い毛玉のうちの一つが八海だった。
 なんでも彼らの住む国の山岳地域に住む犬の血を引いているらしい。気性は大人しくて優しく、頭も良い。
 その一家は、生野に対しても友好的に接してきた。同じ『犬』として親しみを抱いたのかもしれない。
 特に八海は、親や兄弟とじゃれあうよりも、生野の側にいることの方が好み、生野が商人の邸宅に行くと、生野にまとわりついて片時も離れようとしなかった。
 その様子を半ば呆れて見ていた商人の薦めもあって、生野は八海を譲り受けることにする。
 八海が成長するたびに青くなる煎十郎の顔を思い出すと、いまでも吹き出しそうになってしまう。
 意識をいまに戻すと、八風が立ち止まってこちらを見上げていた。
 どうやら思い出に浸っている間に、目的地に到着したようだ。八風の頭をもう一度撫で、労をねぎらう。
 目の前に拳大の大きさに地面が盛り上がった箇所があった。盛りあがった箇所に、吉乃が使用していた二本の呪いの石棒の内の一本が埋められている。
 昨夜、小田原城の南東の、この路上に、お礼が埋めたのだ。小田原城を挟んで北西の森には、小三治と吉乃がもう一本を埋めたはずだ。二本を埋めた位置のちょうど真ん中に小田原城の本丸がある。
 吉乃と小三治、それと太助の三人は、昨夜のうちに、それぞれの役目を終えて、生野が身を隠していた小屋に戻って来る手はずであったが、三人とも朝まで待っても戻っては来なかった。
 一度、近くまで戻ってきてはいまいかと、八風を連れて探索にでた。八風が走り出した時には、無事に戻ったかと期待したが、美しい女が一人、ならず者に襲われていただけであった。
 吉乃と小三治が戻らぬので、昨日の首尾がどうなったのかはわからない。もしも不首尾であったなら、これから生野が行おうとしている作戦は成功しない。しかし、あの二人ならばきっと成し遂げてくれたと信じている。
 生野がひとり頷くと、不意に八風が唸り声をあげた。