五十三話 赤き暴風


 やはり駄目だったかと、乙霧は胸の内でため息をついていた。
 できれば、八犬士の最後の策を未然に防ぎ、美男の八犬士を無傷で捕える機会を手にいれたかったが、そう上手くことは運ばない。
 最後の八犬士の呪いが姿を消すものというのは、あくまでも可能性の一つとして考えていたに過ぎない。確実と考えていたのは、なんらかの手段を講じて、油を撒く女を本丸の屋根へと導こうとすることだけだったのだ。
 打てる手はすべて打っておく。それが乙霧の基本方針。直接ではなくとも相手の耳に入ることがあればよいなと、乙霧はいたる所で小田原城の警備を担当することになった風魔衆に、最後の八犬士が女の八犬士を屋根にいかせるために、騒ぎをひき起こすのだ、本丸の屋根にあがる道だけは抑えなければならないと、大きな声で語りまわっていた。
 最後の八犬士がそれを耳にするようなことがあれば、小火(ぼや)を起こすといった迂遠な方法で騒ぎを起こすのではなく、姿を現すことで、女の八犬士が本丸の屋根に行く隙を生み出そうとするのではないかと期待していたのだ。
 その点に関してだけ言えば、乙霧の思惑通りに事は運ぶ。
 しかしまさかその最後の八犬士が、ここまでの戦闘力を秘めていようとは、乙霧の想像の域をはるかに超えていた。しかも、どうやら姿を消す呪いの効果は、他人にまで及ぼせるものらしく、女の八犬士まで姿を消している。結局最後の八犬士を取り押さえることも、女の八犬士の道を阻むこともできなかった。
 二人の風魔衆に続いて二階へと上がった乙霧は唖然とする。
 二階ではすでに赤い暴風が吹き荒れていたのだ。斬りかかる北条兵の槍は片っ端から折られ、刀を抜いて迂闊に近づく者は例外なく叩きのめされる。すでに多くの者が床に転がっていた。人数から見て上の階層からも人が下りてきているようではあったが、焼け石に水。人の倒れる音、壁にぶつかる音。これらの音が響き、とてもではないが、姿を消している女の歩く音を聞き分けることなどできない。
 乙霧と最後の八犬士の眼が合った。乙霧の背筋が凍る。あんな力を永続的に使えるとは思えないが、少なくともあの場所から乙霧の所まで走り、乙霧を捻り殺すくらいの時間は残されているだろう。
 ところが最後の八犬士はそうはしない。さらに上の階層に行くための階段に向かったのだ。
 まさか、姿を消したままの八犬士を最後まで守るつもりなのだろうか? 目的を果たすだけならば、ここに敵を引きつけた方が得策と思うが、最後の八犬士は、最後まで仲間である女の八犬士の進む道の露払いをしようとしているように見える。


「最上階には富蔵様がいらっしゃるのですよね?」


 乙霧の前で立ちつくす風魔衆に尋ねた。


「左様です。陰ながら、大殿の護衛につかれているはずでござる」


 乙霧が頷く。


「女の八犬士の対応の仕方は、富蔵様には伝わっております。女の八犬士にはここで氏康様を害するつもりはないでしょうから、富蔵様にはかの者が屋根に上がって来るのを待ち受けていただきたいのです。いま一番困るのは、氏康様のお側で戦闘行為が行われることでございます。武士団の方々の抵抗の仕方しだいでは、先程の者の『呪言』の力に氏康様が巻き込まれかねません。なんとか北条の方々に黙って道を譲らせることはできませぬか?」

「いや、さすがにそれは拙者らには……」


 わかっていたことだったが、乙霧は爪を噛む。どんなに優れた技量があっても、権力のなさはいかんともしがたい。
 現状では、被害を一番抑える方法は、八犬士の当初の目的である、火災を起こさせてやることだ。だが、北条の家臣団にはそれがわからない。わかっていても、ここまで入りこんだ敵を放っておくことなどできる筈がない。氏康がここにいる以上、守らないことが守ることにつながるとしても、氏康からの直接の命があったとしても、彼らが北条家臣団である以上、それができる筈もない。
 自分はどうするべきか?
 もはや仲間が屋根に到達するまで、あの八犬士が暴れるのを止める術はないだろう。
 問題は目的を達した後。あの者がどうでるか……。
 美男の八犬士がいつ現れるかにもよるだろう。小田原城の本丸に火を放ったあとならば、あの者は遠慮せずに氏康の命を狙うことだろう。密かに暗殺という手を取りたくないというだけで、高らかに名乗りを上げたならば、戦場で討ち取るという名目を手にするのに等しい。
 問題はすべて時間。犬坂種智が小田原城に到達する時間。あの者の命が尽きる時間。


「わたしはこれより城を離れます。お二人は、富蔵様に女の八犬士が上にあがったことを伝え、それを屋根にて待ち受け、討ち取るように伝えて欲しいのです。そのあとは、あの暴れている八犬士に私がここを離れようとしていることを伝わるようにしむけてください。目的を達しさえすれば、あの者は私を追ってくると思いますので……」


 下階にいた時、あの八犬士は明らかに自分を狙おうとした。この階でも、仲間を屋根に行かせることを優先してはいたが、眼だけは自分を捉えていた。
 いまはそれに懸けるほかない。