五十二話 お礼の切り札


 風魔衆の三人に続いて、乙霧が角を曲がると、お礼は立ち上がりお信磨の油が詰まった皮袋を捨てる。
 代わりにもう一つの皮袋の口を開く。そこには、赤い液体がなみなみと入っていた。
 それは血。半年前、八犬士の力の源となった八つの珠の力を取り戻すために、その命をささげてくれたという八風の母、八海(やつうみ)の血だ。生野が八海の腸で作りし皮袋に納められたそれは、固まることなく一年前の姿を留めている。
 お礼は皮袋の中に手を入れた。抜きだされたお礼の手は血に染まり、相手から見えなくなる『呪言』の効果を打ち消し、その形を露わにする。
 お礼の血に濡れた手の中には、中身をくり抜かれ、薄い半球状の水晶板となった二つの半珠。その二つの半珠は、八海の血によって赤く染まり、妖しい光を周囲に放っている。
 お礼は、その二つの半珠をためらうことなく両目にはめ込む。半珠を通してみる世界が赤く染まる。


「我、礼をつくすに、我が命畜生に落とすことも(いと)わん!」


 両目にはめ込んだ半珠が赤く輝き、お礼の痩せ細った体がびくんと跳ねた。
 この枯れ枝のような体のどこに眠っていたのかと、自分でも驚くほどの力が体中に(みなぎ)る。
 色が人に及ぼす影響は思いのほか大きい。遠近感などの視覚的要素から、安らぎや興奮を覚える精神的要素まで、その効果も幅広い。
 いまお礼の目の前に広がる深き赤は、お礼の心を圧倒的な破壊の衝動で埋め尽くさんとする。それこそここに来た目的を忘れさせ、ただここで暴れるだけの獣へとお礼を変じさせようと……。


「……生野!」


 お礼は首から下げたお守り袋を握りしめる。八犬家を出立する時に生野がくれた、地獄で夫婦(めおと)になろうという証しの入ったお守り袋。
 お礼はこれをずっと身につけていた。呪いの水は塗布する箇所が多ければ、使用量も当然増える。お礼は少しでも効率よく使うため、体の余計な部分をことごとく捨て去った。耳を落し、鼻を削ぎ、骨と皮だけの体。こんな体にまでして節約をしようとした水なのに、このお守り袋を身につけるのをやめられなかった……。
 そのお守り袋が、最後の切り札である『呪言』から、お礼の心を守る。
 家族を想い、愛する者を想い、そのためだけに行動しようとするお礼の心を……。
 お礼が床を蹴った。床が大きな音をたてて砕けたが、もはや関係ない。
 一歩で曲がり角に到達し、二歩目で前を歩く乙霧の背中に肉薄する。
 音に気がついた乙霧は、振り返りながら横に跳ぶ。前を歩く二人の風魔も異変を感じ身体を横に逃がす。
 宙を滑空する血塗られた手が、三人と顔を合わすまいと、前だけを見て歩いていた剛心の後頭部を右手で掴み、剛心の顔を力任せに、床に釘のように打ち抜いてはまた引き上げる。剛心は声さえあげられず、血まみれになった顔をさらすのみ。
 お礼はその剛心の顔を左手でつかむ。剛心の血で左手も三人の目の前に浮かびあがる。
 血塗れた両手が剛心の首を捻った。ありえぬ方向に首が曲がった剛心の身体を、何事かとこちらに顔を向けた、上階へと続く階段を警備する二人の北条兵に投げつける。さらに投げられた剛心の体と同じ速度で手が宙を疾駆する。
 守備兵の一人が剛心の体に跳ね飛ばされ、一人がお礼に殴り飛ばされた。
 お礼は二つの文字が浮かぶ瞳で、なにも無い廊下の隅を一度だけ見たかと思うと、すぐに乙霧たちの方に向き直る。
 とたんに床の軋む大きな音が階段に向かう。音はさらに階段も駆け上って行く。
 乙霧がなにかを叫びかけたが、宙に浮かぶ赤い眼と両手が凄まじい勢いで迫るのをみると、口を噤んで身構える。
 お礼は思う。この女は殺さなければならないと。本来ならば、殺す前にこちらの計画に対して、どんな事後対策をしたのか聞きだすべきなのだろうが、この『呪言』を発動させたいまとなっては、この細身の女を殺さないように力加減する自信はない。
 お礼は剛心と乙霧の会話で、放火による陽動が上手くいかない可能性が高いと判断した。
 陽動の効き目が薄いならばと、お礼が選択したのは、己でもって、お信磨のために血路を切り開く方法。この命続く限りだ。
 この切り札として残しておいた『呪言』、いわば色の麻薬と表現できるものだが、これは八海の血によって薄く加工した半珠を赤く染め上げ、それを両目にはめ込むことで、異常な興奮状態を作りだし、生物に生まれながらに備わっている自己防衛機能を麻痺させる効果を持つ。
 そうすることで、体のすべての力を余すところなく発揮することができる。だが、それは諸刃の剣。自身を省みることなく発揮される力は最終的に己を滅ぼす。まさに最後の手段。
 接触しようとしていたお礼と乙霧の間に、二人の風魔衆が割り込む。二人は体を張ってお礼の突進を止めると同時に、なにかをお礼にぶつけた。お礼の透明だった体が、赤い輪郭となって現れる。
 お礼は憎らしいほど美しい顔立ちをした乙霧を、文字の浮かぶ両目で睨みつけた。
 この赤い染料は、目の前のこの女が用意させたものだと一瞬で悟ったのだ。なぜかはわからないが、この女は自分の呪いの力がどういうものかを見破り、対応策を用意させていた。
 お礼は『呪言』で増幅されている殺意を強靭な意思で抑え込み、乙霧を強引には襲わず、二人の風魔衆を両足で同時に蹴飛ばして、その反動で階段の前まで跳ぶ。そして、遠ざかる階段の軋む音を追って、階段を駆け上った。
 すでに身体の一部を晒していたお礼には、この染料はたいして意味を持たないが、問題はお信磨である。この染料はもしかしたら北条兵にも持たされている可能性がある。万が一にもお信磨にぶつけられでもしたら……。音だけが聞こえるのと、実際に眼でも確認できるのとでは、危険度が明確に違う。


「逃がしてはいけません! 追ってください! もう一人の八犬士も上の階に上がったはずです」


 背中越しに乙霧の言葉受け、お礼は舌打ちした。
 やはり生野に負けぬぐらい賢い。たぶん、狂節の死後の『呪言』を防いだのはあの女だ。それに死んだと思われる三人のうちの誰かの死にも関わっている。
 生野との違いは、あの女がおそらく傍観者であるということだ。
 風魔衆と行動してはいたが、会話の内容から考えて風魔の女ではない。どこか他所の忍び衆からの助っ人と思われる節がある。
 能力は身につけるよりも、発揮することの方がよっぽど難しい。発揮する時の方が個人の精神に左右される部分が大きいからだ。
 生野の知恵は、決してあの女に劣るものではない。
 ただ、あの女は第三者として、他人事として、今回の戦を客観的に見ている。生野よりも冷静に知恵を働かせることができているのだ。あの生野といえども裏をかかれてしまう恐れがある。
 あくまで、お信磨のために血路を開くのが最優先だが、できることなら、生野のためにあの女を殺してもおきたい。
 お礼は後ろ髪引かれる思いで、先に進んだであろうお信磨を追った。