三十三話 煎十郎の迷い


 煎十郎が、天井から机の上に置いた白紙の巻物に視線を移し、緩慢な動きで墨を染み込ませた筆を落していく。
 筆が重い。書くことは決まっているのに、筆が進んでくれぬ。自分のあまりの情けなさに、大きくため息をつくと、障子に人影が映った。


「煎十郎様、乙霧にございます。白湯(さゆ)をお持ちいたしました」


 男の脳髄を痺れさせるような乙霧の声に、煎十郎の背筋がぴんと伸びる。


「は、はいどうぞ。お入りください」


 障子が開き、乙霧がほんのりと甘い香りを従えて部屋に入ってきた。椀をのせた盆を手に持ち、なぜか小脇には竹でできた長くて大きい鑷子(せっし)(現代でいうピンセット)のようなものを挟んでいる。
 乙霧はこれまで通り、離れた位置に座ると、盆を小脇に挟んでいた鑷子のようなもので挟み込み、盆を煎十郎の前に突き出してきた。
 煎十郎は筆を置き盆の上から白湯を受け取る。


「どうぞ」

「か、かたじけない」


 湯呑を盆から椀を取ると盆がするするとさがっていく。


「どうかご無礼をお許しください」


 乙霧が申し訳なさそうに謝った。おそらくいまの行動に対してだろう。


「いや、お気になさらず」


 詳しい事情は知らないが、乙霧が男の側に寄れないことは、小太郎から風魔衆に固く言い含められている。
 別に煎十郎は特に失礼には感じないが、こんなことで夫婦生活が成り立つのであろうか?
 煎十郎の疑問を感じとったのか、乙霧が一際甘い声をだす。


「共に一夜の里に戻りましたら、もっとお側でお世話させていただきます。……昼も夜も」

「ひ、昼も夜も」

「はい。()()()()。ウフフ」


 妖艶に微笑む乙霧に、煎十郎は思わず生唾を飲み込んだ。その音が、乙霧にまで聞こえてしまった気がして恥ずかしくなり、ごまかすように書と向き合い、筆を取って墨をつける。今の言葉を聞く限り、乙霧が煎十郎を望んだという小太郎の話は嘘ではなさそうである。
 いざ書くのを再開しようとしたが、自分の横顔に乙霧の視線が注がれているのを感じ、煎十郎はまた筆を置いた。


「あ、申し訳ございません」


 煎十郎が筆を置いた理由を悟ったのだろう。乙霧はそそくさと立ちあがり、煎十郎の背後にまわった。
 視線の注がれる箇所が背中に変わっただけで、やはり落ち着かない。
 いったん書くのを諦め、乙霧と正面から向かい合った。仕事に集中したいので一人にしていただけまいかと言おうとしたが、乙霧の顔がこれまでに見ないほど真剣なものであったので、言葉に詰まってしまう。
 それを見かねたのか、乙霧が先に口を開いた。


「……一夜に来ることが、いえ、風魔を離れることが不安でございますか」


 見透かされている。昨日から、乙霧が知恵のまわる娘であることは感じていた。自分程度の考えなどお見通しなのだろう。誤魔化すだけ無駄だと、煎十郎は正直に話すことにした。


「はい。お恥ずかしい限りですが……。里の外に出るのは気にはなりません。里の外で生きた時も決して短い訳ではありませんから。
 でもそれは、風魔の里の者として頭領の指示に従ったにすぎないのです。今度も頭領の指示には従います。ですがそれは風魔ではなくなるということです。そうなったらいったい自分はどうなってしまうのか不安なのです。あ、いえ別に、乙霧殿の婿になるのが嫌だという訳では決してありません。むしろ、私などを選んでいただいて光栄と思っております」


 頭を掻きながらいう煎十郎を、乙霧は表情を崩さずに見つめ、おもむろに口を開く。


「……わたしは一夜の忍びとして、里では落ちこぼれなのです」


 乙霧の視線が畳に落ちる。


「風魔ほど厳しいものではないのでしょうが、一夜でも幼少の頃からの鍛錬は行われます。ただ、比重が体よりも頭に注がれております。話術や芸事。字、歴史、算術といった知識。それらのことを身につけたうえで、それぞれの仕事につきます。ある者は全国に散りその土地に根付いて情報を集める。またある者は全国を渡り歩き、土地に根付いた者たちが集めた情報を回収する。他にも、情報を欲する者と繋ぎをとり、情報を売ることに従事する者などがおります。
 一夜衆は里にいる者より、いない者の方が多いのです。外で産まれる子も大勢いる。里の中と外のどちらで産まれようとも一夜の秘術をその身に宿した者だけが、一夜の情報収集の為の技術を叩きこまれるために、一夜の里の中で育てられるのです」


 私もそういう子供の一人でしたと、寂しげに笑った。


「私は父の名も顔を知りません。ですが、それを悲しいと思ったことはありません。修行はもちろん厳しくされますが、一夜の里で子供たちは宝物のように大切に育てられます。年によっては飢饉の時もあったでしょうに、私達はそういった苦労を味わっておりません。せいぜいが、餓えに耐える鍛錬を積むくらいでした。
 私も他の子と一緒に、半ば楽しみながら日々の鍛練を続けておりましたが、ある技能を身につける修行の時、わたしは一夜の女としては致命的な欠陥を負ってしまった」


 煎十郎はのどの渇きを覚え、ぬるくなった白湯を喉に流し込む。


「殿方のいる集団で、まともに生活ができなくなってしまったのです。殿方に近づきすぎると殿方の正気を奪ってしまう。全身から雌としての強烈な臭いを発してしまう病だと考えてくださればよいでしょうか?
 対策のための鍛錬を重ね、薬を服用したり、身体や身につける物を香で焚き染めるなどして、ようやくこのように同じ部屋にいる程度のことはできるようになりましたが、根本的にはなにも治っておりません。私がそばにいる時にだけ影響がでるので、相手が私の夫であれば、大きな問題はございませんが、情報を集めようとするたびに相手の正気を奪っていては、肝心の情報を得ることができません。女としか接点が持てないのでは、できる仕事がかなり制限されてしまう。それでは安心して仕事を任せることなどできない。
 本来、私ぐらいの歳の者であれば、すでに里を出てお役目についているのが当たり前なのです。ですがそのような欠陥を持つものを里の外にだすことはできず、これまで里の隅で一人悶々とする日々を重ねておりました」


 乙霧がしっかりと顔をあげ、煎十郎を見つめ幸せそうに微笑む。


「ですから、此度のお役目を頂き、私はとても嬉しいのです。一夜本来の務めではなくとも。
 それに婿を選び、その殿方の子をなすことは一夜にとっては最も大きく大切な役目。わたしはまだ里に必要とされているのだとそう思うことができました。
 ……煎十郎様。小太郎様が風魔を出て一夜の婿になるように言われましたのは、煎十郎様が不要になられたからではありません。
 むしろその逆でございます。いま、風魔の窮状をお救いになることができるのが、煎十郎様だけだからでございます。小太郎様や戻られた方々だけで八犬士をなんとかできるのであれば、こちらの要望をお聞きになる必要などないのです。それだけではありません。小太郎様は書を残すようにもおっしゃった。これは煎十郎様が里を去った後だけでなく、この世を去ったとしても風魔の里の力になると認められたようなもの。忍びの世に、死んだのちもその存在を求められる忍びがどれほどおりましょうか。これは、煎十郎様と風魔の絆の証になりましょう。煎十郎様が風魔を離れても永遠に消えることのない絆の証」


 煎十郎はもう一度ぬるくなった白湯を飲み込んだ。乙霧の言葉の意味も一緒に飲み込もうとするかのように。


「長々とお仕事の邪魔をいたしまして申し訳ございませんでした。私も煎十郎様を無事に婿に迎えさせて頂く為に、小太郎様とのお約束を果たしに行ってまいります」


 畳に両手をつき頭を下げ、乙霧は部屋を出ていく。
 煎十郎は乙霧が出てもしばらくの間考え込んでいたが、やがて姿勢をただし、閉められた障子の向こうに深々と頭を下げると、自身が風魔に生きた証を残すため、文机と向いあった。