十九話 狂節出陣
「雨がやんだのう」
雨の音に耳をかたむけていた犬山狂節が、誰に話しかけるでもなく、言葉を口にした。
昨夜の風魔の里の襲撃後、八犬士は先に目をつけておいた、小田原城下からは少し離れた所にある朽ち果てた堂に身を潜めていた。朝から雨が降りだしてしまったので、すぐには動けず、いまも外に出ずに体を休めている。
昨夜の風魔の里の襲撃は、残念ながら成功とは言えなかった。一番の標的だった風魔小太郎が不在であり、里の主力であろう者たちも揃って不在。こちらの手の内を知られる前に、小田原攻略の障害になりそうな者たちを排除しておきたかったのだが、そう事は上手く運ばないらしい。
やはり、行動を起こすには少しばかり情報と時間が足りなかった。
これまでひと所に押し込められていた犬八家に情報収集をすることなど不可能であったし、生野は犬八家を苦境から救う力を身につける為の十五年の旅路から戻ってからの一年半、『呪言』を八犬家に身につけさせるのにかかりきりで、北条の様子を探る暇などあろう筈もない。彼らが所持していたのは、協力者からもたらされたわずかな情報のみ。
今回、ようやく八犬家代表の八人が屋敷を抜け出し、海を渡って相模に入った訳だが、すでに彼らには諜報活動に力をさく時間は残されていない。とてもではないが、乱波の集団風魔衆の動向を監視したり、小太郎や里の主力が戻るのを待つことなどできなかった。姿を消す『呪言』を持つお礼が、申し訳程度に敵方に探りをいれる程度のことが精一杯。
「それでは、行くとするかの」
狂節が杖をささえに立ち上がった。
「夜が明けてからでもいいんじゃないかい。まだ安兵衛も戻ってきてないしさ」
お礼の言葉に狂節は寂しそうに首を振る。
「わしも死ぬ前に、犬江の坊主の声を聞きたかったがのう。どうやら、今夜が限界のようじゃ。お前たちのそばで死ぬわけにはいかぬからな」
狂節が戸の前に立つと、六人が立ち上がった。狂節は彼らに背を向けたまま言葉をかける。
「お前たちには本当に辛い思いをさせてしまった。すべてはわしら三代目の責任。それをお前たちにまで背負わせてしまった……。悔やんでも悔やみきれん。謝っても謝りきれん」
小三治が噛みつくように言葉を返す。
「爺さん達のせいじゃねぇ。爺さん達も爺さんの爺さん達も、俺達も、ただ家族が大事で、家族を守ろうとしただけだろう」
狂節はうむと短く答え、戸を開けた。雨の音で埋め尽くされていた世界は、今は虫の音でいっぱいだった。
狂節は虫の音に誘われるように、一歩また一歩と歩みを進める。
「じ、爺ぢゃん」
吉乃がたまりかねたように大きな声をあげる。
「ぎ、ぎをづけて」
吉乃にかけられた言葉に、狂節の表情が和らいだ。死ぬために小田原へ行こうとする自分にふさわしい言葉ではない。だが、それだけに裏表のない吉乃の気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。
「ありがとうよ。お前達も達者でな」
これもまた、この戦の為にすでに命を捨てている六人にはふさわしくない言葉ではある。ただそうだとしても、これが狂節の偽らざる本音であった。
六人に見送られ、狂節は杖を頼りに小田原城下をゆっくりと目指す。
他の八犬士と別れ、一人歩く狂節の胸に様々な思いが去来する。
この時より遡ること四十年ほど前。里見家は義成の嫡子義道からその子義豊の時代となり、八犬家は義道の弟実堯の配下としてそれぞれ城を預かる立場にあった。
そのころ初代八犬士たちは、すでに家督を子供たちに譲り、富山と呼ばれる地に庵を築き隠棲し、実堯に仕えていたのは、彼らの子供である二代目八犬士であった。
その子供たちが、直属の主である実堯と里見家の当主たる義豊の不仲を不安に感じ、初代たちの庵を訪ねたことが、現在の八犬家の受難の発端となったといえる。
訪れた子息に、初代八犬士の中でも随一の策士であった犬坂毛野胤智は言った。
「先君の威光はすでに衰え、いままさに内乱が起きようとしている。実堯様と義豊様を諫《いさ》めようと思うたが、すでに隠居して久しい身。実堯様のもとに行くのも時が経ち過ぎやぶさかであるし、義豊様も賢明とは言い難いお方。諫めてもお聞きになるとも思えん。むしろ諫めた我らの命が危うい。危うき所には近づかず、乱れる国にはいない方がよい。故に我らは他の山に移る。お前達も我らと共に、他の地へと移ろうぞ」
他の八犬士も各々の我が子に口々に言う。
「お前たちが迷い、今の職と禄を惜しんで、里見家を去らずに揃って居続ければ、必ずや我らの名を貶める事態になる。速やかに去るべきである」
そう説き伏せたのである。
二代目八犬士は、この時の初代の助言に従い、全員病を偽り、実堯からそれぞれ五千貫文ずつ与えられたうえで暇を許された。
そうして彼らは家族を連れて、里見家を去ったのである。
「雨がやんだのう」
雨の音に耳をかたむけていた犬山狂節が、誰に話しかけるでもなく、言葉を口にした。
昨夜の風魔の里の襲撃後、八犬士は先に目をつけておいた、小田原城下からは少し離れた所にある朽ち果てた堂に身を潜めていた。朝から雨が降りだしてしまったので、すぐには動けず、いまも外に出ずに体を休めている。
昨夜の風魔の里の襲撃は、残念ながら成功とは言えなかった。一番の標的だった風魔小太郎が不在であり、里の主力であろう者たちも揃って不在。こちらの手の内を知られる前に、小田原攻略の障害になりそうな者たちを排除しておきたかったのだが、そう事は上手く運ばないらしい。
やはり、行動を起こすには少しばかり情報と時間が足りなかった。
これまでひと所に押し込められていた犬八家に情報収集をすることなど不可能であったし、生野は犬八家を苦境から救う力を身につける為の十五年の旅路から戻ってからの一年半、『呪言』を八犬家に身につけさせるのにかかりきりで、北条の様子を探る暇などあろう筈もない。彼らが所持していたのは、協力者からもたらされたわずかな情報のみ。
今回、ようやく八犬家代表の八人が屋敷を抜け出し、海を渡って相模に入った訳だが、すでに彼らには諜報活動に力をさく時間は残されていない。とてもではないが、乱波の集団風魔衆の動向を監視したり、小太郎や里の主力が戻るのを待つことなどできなかった。姿を消す『呪言』を持つお礼が、申し訳程度に敵方に探りをいれる程度のことが精一杯。
「それでは、行くとするかの」
狂節が杖をささえに立ち上がった。
「夜が明けてからでもいいんじゃないかい。まだ安兵衛も戻ってきてないしさ」
お礼の言葉に狂節は寂しそうに首を振る。
「わしも死ぬ前に、犬江の坊主の声を聞きたかったがのう。どうやら、今夜が限界のようじゃ。お前たちのそばで死ぬわけにはいかぬからな」
狂節が戸の前に立つと、六人が立ち上がった。狂節は彼らに背を向けたまま言葉をかける。
「お前たちには本当に辛い思いをさせてしまった。すべてはわしら三代目の責任。それをお前たちにまで背負わせてしまった……。悔やんでも悔やみきれん。謝っても謝りきれん」
小三治が噛みつくように言葉を返す。
「爺さん達のせいじゃねぇ。爺さん達も爺さんの爺さん達も、俺達も、ただ家族が大事で、家族を守ろうとしただけだろう」
狂節はうむと短く答え、戸を開けた。雨の音で埋め尽くされていた世界は、今は虫の音でいっぱいだった。
狂節は虫の音に誘われるように、一歩また一歩と歩みを進める。
「じ、爺ぢゃん」
吉乃がたまりかねたように大きな声をあげる。
「ぎ、ぎをづけて」
吉乃にかけられた言葉に、狂節の表情が和らいだ。死ぬために小田原へ行こうとする自分にふさわしい言葉ではない。だが、それだけに裏表のない吉乃の気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。
「ありがとうよ。お前達も達者でな」
これもまた、この戦の為にすでに命を捨てている六人にはふさわしくない言葉ではある。ただそうだとしても、これが狂節の偽らざる本音であった。
六人に見送られ、狂節は杖を頼りに小田原城下をゆっくりと目指す。
他の八犬士と別れ、一人歩く狂節の胸に様々な思いが去来する。
この時より遡ること四十年ほど前。里見家は義成の嫡子義道からその子義豊の時代となり、八犬家は義道の弟実堯の配下としてそれぞれ城を預かる立場にあった。
そのころ初代八犬士たちは、すでに家督を子供たちに譲り、富山と呼ばれる地に庵を築き隠棲し、実堯に仕えていたのは、彼らの子供である二代目八犬士であった。
その子供たちが、直属の主である実堯と里見家の当主たる義豊の不仲を不安に感じ、初代たちの庵を訪ねたことが、現在の八犬家の受難の発端となったといえる。
訪れた子息に、初代八犬士の中でも随一の策士であった犬坂毛野胤智は言った。
「先君の威光はすでに衰え、いままさに内乱が起きようとしている。実堯様と義豊様を諫《いさ》めようと思うたが、すでに隠居して久しい身。実堯様のもとに行くのも時が経ち過ぎやぶさかであるし、義豊様も賢明とは言い難いお方。諫めてもお聞きになるとも思えん。むしろ諫めた我らの命が危うい。危うき所には近づかず、乱れる国にはいない方がよい。故に我らは他の山に移る。お前達も我らと共に、他の地へと移ろうぞ」
他の八犬士も各々の我が子に口々に言う。
「お前たちが迷い、今の職と禄を惜しんで、里見家を去らずに揃って居続ければ、必ずや我らの名を貶める事態になる。速やかに去るべきである」
そう説き伏せたのである。
二代目八犬士は、この時の初代の助言に従い、全員病を偽り、実堯からそれぞれ五千貫文ずつ与えられたうえで暇を許された。
そうして彼らは家族を連れて、里見家を去ったのである。