十七話 光明


 三船山(みふねやま)近くに布陣していた里見軍に、無事に物資を届け終えた安兵衛は、生野たちと再び合流すべく、再び上総(かずさ)を抜け武蔵の国の海沿いを走っていた。
 三船山付近の里見家の陣に到着したのは昨日の昼前。荷車を四台も引いていたので、どうしたって目立つ。下手に隠れるより、発見されても相手が追いつけない速さで移動した方がよいと判断し、全力で石臼を回し続けた。実際、何度か北条の手勢と思われる者達と遭遇したが、荷車を引いているにも関わらず、騎馬に勝るとも劣らない速度で振り切る。呪いの力は消耗が激しい。最後はほとんど惰性だけで石臼を回し続けた。
 それにしても、自分は運がよかったと安兵衛は思う。
 まさか、義弘本人にお目通りがかなうとは考えていなかった。
 そもそも、戦利品を里見家へ献上することは、あの場での思いつきであった為、取り次いでもらう相手もいなかったから、生野には物資を陣の側に置いて来るだけでよいと指示された。
 それでも安兵衛個人としては、八犬士の手柄であることを吹聴して回りたいくらいの気持ちだった。八犬士を堂々と名乗れる時期でないことがわかっているから、余計にそうしたい気持ちにかられる。
 そんな安兵衛の思惑を裏切るように、現界を超えた肉体は休息を求め、安兵衛は陣へ辿り着くなり気を失ってしまう。目覚めた時、安兵衛は(むしろ)の上で寝かされていた。その安兵衛の顔を、身分の高そうな武士が一人、覗き込んでいた。武士は自ら里見義弘だと名乗り、他の者には公にできぬので人払いをしていると安兵衛に語る。
 安兵衛は血の気が引いていくのを感じ、慌てて平伏しようとしたが、この鉄の足では上手くいかない。もがく安兵衛に義弘は、そのままでよいと暖かみのある言葉をかけてくれ、安兵衛が八犬士の一人であることを確認し、安兵衛が物資を運んだ労をねぎらったうえで、八犬士の現状での戦果を尋ねてきた。
 安兵衛の話を聞き終えた義弘は言う。この戦に勝利すれば自分の義堯に対する発言力は強まる。そうなれば、別働隊の進軍を阻み物資を奪ったこと、ならびに本拠である小田原を攪乱し、戦を有利に導いた功に報いることができるであろうと。その言葉だけで安兵衛は胸がいっぱいになり、涙を流して謝意を表す。
 このことを少しでも早く他の八犬士に伝えてやりたかったが、なかなか体力が回復せず、今朝になってようやく出発できた。
 下総(しもうさ)を抜け武蔵の国に入り、気のはやる安兵衛の頭を冷やすかのように、雨がぱらついてきたのが今である。
 いったん雨をしのげそうな場所を見つけ、休憩をしようと安兵衛は判断する。本降りになってから探すのでは遅いのだ。安兵衛に与えられた『呪言』の力は雨に弱い。安兵衛の身体が濡れていると『呪言』の力が脚から逃げ、安兵衛の身体全身を駆け巡る。それこそ安兵衛の心の臓の動きをとめてしまうほどに。
 安兵衛は今も絶えず回し続けている石臼をあらためて見る。
 中央にささっている鉄芯には、糸のように細くした銅線が巻かれていた。吉乃が持っている石棒と同じ、二種類の石により作られたこの石臼を回すと、鉄芯に雷に似た微弱な力が生まれる。その微弱な力は銅の糸を伝い、両脚にはめ込まれた元はひとつの珠だった二つの半珠に送られ、爆発的な力を生む。
 この半珠こそが、八犬士の切り札である。
 『呪言』という名の力が込められたこの半珠は、石臼から送られてきた力を増幅させる。その増幅された力が、鉄足の内側のからくりを動かし、足の裏の車輪を高速回転させることで、安兵衛の爆発的な速力を生み出しているのだ。
 ただ、この力は鉄脚が濡れると水を伝って力が外側に逃げてしまう。だからといって、力が逃げにくい木製にしては強度的に弱く、生みだされる力に耐えきれずに壊れてしまう。さらに生身である上半身まで濡れていた場合、心臓にかかる負担が増す。それこそ、命が縮む程に。
 普通に使用しているだけでも、命を削っている。
 祖父が三日。父が六日。
 安兵衛と同じように自ら両脚を切断し、この鉄脚の力を使いはじめてから死ぬまでにかかった日数である。
 安兵衛はこの力を使いはじめて今日で五日目。祖父よりは体力があるだろうが、父と比べてはどうか……。
 まだ死ねない。義弘はああ言ってくれたが、八犬家を用いることは、義堯(よしたか)が強固に反対し続ける可能性が高い。やはり、義堯さえ黙らせる大きな手柄が欲しい。小田原を攻め落とし、犬江家の家督を継がせた弟の将来を明るいものに変えるのだと安兵衛は自身に言い聞かせる。
 海辺から少し外れたところに、あばら家を見つけた。誰もいないことを確認して中に入ると、雨が屋根を強く叩く音が聞こえてきた。間一髪。雨では、あせって戻っても仕方がない。他の八犬士の呪いも雨に弱いものがある。あちらも雨があがるまでは無理には動くまい。
 安兵衛は雨の強さを見ようと壁板の隙間から外の様子を窺う。


(なんだ、あやつらは?)


 安兵衛の目に映ったのは、三十人ほどで相模方面へ走る集団だった。数もそうだが、驚くのはその速さ。安兵衛と違い、命を縮める呪いの力を使っているわけでもないだろうに、全員が常人よりはるかに速い。あっという間にその背中が小さくなっていく。
 安兵衛には、彼らの正体にひとつ心当たりがあった。
 もしや、あれが風魔か。氏政の曽祖父北条早雲こと伊勢新九郎盛時の代から仕えていると聞く乱波(らっぱ)の集団。
 安兵衛が生野から事前に受けた説明では、小田原の前に彼らの里を急襲し無力化するということだったが、どうやら彼らは氏政の軍に同行していたようだ。訓練だけであれだけの速さで走ることのできる乱波。それがあんなに大勢……。
 

「我、仁を貫くは、我が命を全うするが如く!」


 考えるよりも先に体が動いていた。安兵衛は戸を開け放ち、雨が降っているにも関わらず、石臼を強く回して走りだした。