十五話 炎上
お信磨が地面に落ちた拍子に、すでに水たまりを作っていたお信磨の汗、涙、小便の混合液が飛び散り、最後に殴りつけた男の顔にかかった。
男は液体を拭き取ろうとしたが、その手がとまる。まず、かかった液体が黒いのに驚き、ついで臭いが気になるのか鼻をひくひくと動かす。
男が臭いの記憶を探り出す前に、起き上がったお信磨が、男に身を預けるように飛び込んできた。男はお信磨の両の乳首があったであろう箇所に埋められた『信』と『菩』の文字のうかぶ半珠に目を奪われながら、彼女の大きな体の下敷きになる。
お信磨はうつ伏せの状態のまま、濡れている様子のない手のひらと足の裏で地面をこいだ。
お信磨の体が滑るように前に出る。何度か繰り返すと勢いがつき、目の前の男たちを跳ね飛ばしながら、納屋の戸にぶつかり、そのまま戸を突き破った。
慌てて後を追おうとした男たちだったが、お信磨が通った跡を踏んだとたんに足を滑らせ、ぶつかり合いながら倒れこむ。
すでに暗くなった空の下、お信磨は全身から黒い液体を垂れ流し続け、腹で地面を滑りながら、今度は家屋へと飛び込む。
「で、であえ! 侵入者が逃げたぞ。屋敷の中だ」
「殺してかまわん! もとより全員殺すのだ」
お信磨の流した混合液にまみれ、やっとの思いで納屋から這い出てきた男たちの声に応え、いたる所から人がでてくる。
中には、また網による捕獲を試みる者もいたが、時には襖を突き破りながら、滑らかに移動するお信磨の動きを捉えきることができない。
男達がお信磨に翻弄される中、里の中では上等といえる着物に身を包んだ若く整った顔立ちの娘が一人、お信磨の正面にうまく回り込んだ。
「おお! 時雨殿!」
「なにをしているのですか! 小太郎がいないければなにもできないと、敵に嘲笑われるおつもりか!」
時雨と呼ばれた娘は、周囲の男どもを叱りつけるやいなや、袖から取りだした八方手裏剣をお信磨めがけて投げつける。八方手裏剣は狙い過たず、お信磨の額に命中した。ああ、それなのにその八方手裏剣はお信磨には刺さらず、お信磨の額の上を滑り、あらぬ方へと飛んでいってしまう。時雨は目を見開いたまま、突っ込んできたお信磨に跳ね飛ばされ、壁に叩きけられた。
「時雨殿!」
風魔衆の悲痛な叫びを遠くに聞きながら、時雨は意識を失う。
時雨があえなく撃退された後も、小太郎屋敷全体を使用したお信磨と風魔衆との奇妙な鬼ごっこは続く。お信磨は屋敷の中も屋根の上も、余すところなく逃げ回る。まともに追いかけようとする者は足を滑らせ転び、正面に立ちはだかるものは先程の時雨と同様に跳ね飛ばされる。追う者より逃げる者の方が鬼のようなこの鬼ごっこは、屋敷の外からの切羽詰まった声で終わることとなった。
「敵襲! 敵襲だ!」
屋敷の中がこれまで以上に騒がしくなる。
縦横無尽に逃げ回っていたお信磨は、その騒ぎを聞きつけると、屋敷の入り口へと向かう。
一気に庭まで出ると、里へと続く門の所に、彼女の異父兄犬坂生野が、抜き放っていた太刀から血を滴らせ、昨夜と同じようにうなじに光を集めながら立っていた。彼の隣の虚空には綺麗に折りたたまれた一枚の布が、さも当然のように浮いている。
「兄上、お礼姉さん!」
お信磨が声をかけると、厳しい顔つきで自身が斬り伏せた風魔衆をみていた生野が、顔をあげた。お信磨の姿を見て心底ほっとした表情になる。
お信磨は生野の側まで滑り寄り、両手を地面について止まると、ゆっくりと立ち上がった。その胸で燦然と輝いていた2個の半珠はすでに輝きを弱めている。
お信磨がほうと一息吐くと、宙に浮いていた布がひとりでに、しっかりとお信磨の身体を覆い隠す。
「お礼姉さん、ありがとう」
お信磨が誰もいない虚空に向かって礼を言う。
「兄上、予定通り屋敷は油まみれにしてやりましたが……、どうやら小太郎は里を空けて武蔵へと出向いているようにございます」
生野に向きなおり、お信磨が告げた言葉に、生野は形の良い眉をひそめる。
「そうかい。わるかったねぇ。あたしがもう少し詳しく調べ上げていれば……」
「いいえ。さすがは風魔の里。警戒は厳重でございました。無理に探れば姉さんのもう一つの呪いを使うことになっていたかもしれません。あれを使うのはここではありませんもの」
虚空から発せられた、すまなそうなお礼の声に、お信磨がそう答えていると、屋敷の中から四人の風魔衆が飛び出してきた。
「ここにいたか。曲者どもめ」
「もう逃がさんぞ。二人まとめて地獄に送ってくれるわ」
全員の衣服が黒く汚れており、顔には打ちつけたような痕が見られた。一人は鼻血さえ流している。
話は終わりだと言わんばかりに、無言の生野が太刀を地面に突き刺し、小太郎屋敷に向かって一歩前に出る。
生野は懐から黒い円錐状の筒を取り出し、顎をあげ、円の部分を黒い布のついた喉にあてた。
風魔衆のうちの二人が、嫌な気配を感じたのか、すぐさま忍び刀を抜いて走り寄ってくる。
お信磨がたるんだ腹の間にまだ溜まっていた黒い液体を手ですくい、二人の足元に投げつけた。先頭を走っていた者が見事に転び、もう一人もそれに巻き込まれて転倒する。
その隙に、生野は黒い布を、筒と喉の隙間から勢いよく引き抜いた。
黒い円錐の先端から、収束された強い一筋の光が、屋敷へと向かってのびる。
瞬間。悲鳴があがった。倒れた風魔衆たちは、突然あがった背後からの悲鳴に振り返る。
燃えていた。小太郎屋敷が燃えていた。屋敷の前に残っていた二人の風魔衆が、燃えていた。
瞬く間に屋敷中に燃え広がった炎は、入り口にとどまっていた二人の風魔衆にも飛び火したのだ。
「池だ! 池に飛び込め!」
転倒した風魔衆の一人がそう叫ぶと、二人の風魔衆は火をまといながら、一目散に池に走り、そのままの勢いで庭の池に飛び込む。水しぶきが高く上がり、それが収まると白い煙があがるが、それでも火は消えない。体の表面に、なにか膜のようなものが張られたかのように水をはじき、内側から体を焼いているように見える。なんとか火を消そうと、二人は池の中で転げまわっていたが、やがて動かなくなり、そのまま水の減った池に浮かんだ。
唖然とその様子を眺めていた残りの風魔衆は、まだ生野たちが目の前にいることを思い出し、慌てて振り返り身構える。
だが、残った風魔衆は襲われはしなかった。
生野が、お信磨といつの間にか姿を現したお礼に支えられながら、弱弱しく輝く、喉とうなじの半珠を隠すように黒布を巻きつけている最中だった。それを終えると、身構えるばかりで動くことのできない彼らに背をむけ、三匹の牙持つ犬は、静かに小太郎屋敷をあとにした。
お信磨が地面に落ちた拍子に、すでに水たまりを作っていたお信磨の汗、涙、小便の混合液が飛び散り、最後に殴りつけた男の顔にかかった。
男は液体を拭き取ろうとしたが、その手がとまる。まず、かかった液体が黒いのに驚き、ついで臭いが気になるのか鼻をひくひくと動かす。
男が臭いの記憶を探り出す前に、起き上がったお信磨が、男に身を預けるように飛び込んできた。男はお信磨の両の乳首があったであろう箇所に埋められた『信』と『菩』の文字のうかぶ半珠に目を奪われながら、彼女の大きな体の下敷きになる。
お信磨はうつ伏せの状態のまま、濡れている様子のない手のひらと足の裏で地面をこいだ。
お信磨の体が滑るように前に出る。何度か繰り返すと勢いがつき、目の前の男たちを跳ね飛ばしながら、納屋の戸にぶつかり、そのまま戸を突き破った。
慌てて後を追おうとした男たちだったが、お信磨が通った跡を踏んだとたんに足を滑らせ、ぶつかり合いながら倒れこむ。
すでに暗くなった空の下、お信磨は全身から黒い液体を垂れ流し続け、腹で地面を滑りながら、今度は家屋へと飛び込む。
「で、であえ! 侵入者が逃げたぞ。屋敷の中だ」
「殺してかまわん! もとより全員殺すのだ」
お信磨の流した混合液にまみれ、やっとの思いで納屋から這い出てきた男たちの声に応え、いたる所から人がでてくる。
中には、また網による捕獲を試みる者もいたが、時には襖を突き破りながら、滑らかに移動するお信磨の動きを捉えきることができない。
男達がお信磨に翻弄される中、里の中では上等といえる着物に身を包んだ若く整った顔立ちの娘が一人、お信磨の正面にうまく回り込んだ。
「おお! 時雨殿!」
「なにをしているのですか! 小太郎がいないければなにもできないと、敵に嘲笑われるおつもりか!」
時雨と呼ばれた娘は、周囲の男どもを叱りつけるやいなや、袖から取りだした八方手裏剣をお信磨めがけて投げつける。八方手裏剣は狙い過たず、お信磨の額に命中した。ああ、それなのにその八方手裏剣はお信磨には刺さらず、お信磨の額の上を滑り、あらぬ方へと飛んでいってしまう。時雨は目を見開いたまま、突っ込んできたお信磨に跳ね飛ばされ、壁に叩きけられた。
「時雨殿!」
風魔衆の悲痛な叫びを遠くに聞きながら、時雨は意識を失う。
時雨があえなく撃退された後も、小太郎屋敷全体を使用したお信磨と風魔衆との奇妙な鬼ごっこは続く。お信磨は屋敷の中も屋根の上も、余すところなく逃げ回る。まともに追いかけようとする者は足を滑らせ転び、正面に立ちはだかるものは先程の時雨と同様に跳ね飛ばされる。追う者より逃げる者の方が鬼のようなこの鬼ごっこは、屋敷の外からの切羽詰まった声で終わることとなった。
「敵襲! 敵襲だ!」
屋敷の中がこれまで以上に騒がしくなる。
縦横無尽に逃げ回っていたお信磨は、その騒ぎを聞きつけると、屋敷の入り口へと向かう。
一気に庭まで出ると、里へと続く門の所に、彼女の異父兄犬坂生野が、抜き放っていた太刀から血を滴らせ、昨夜と同じようにうなじに光を集めながら立っていた。彼の隣の虚空には綺麗に折りたたまれた一枚の布が、さも当然のように浮いている。
「兄上、お礼姉さん!」
お信磨が声をかけると、厳しい顔つきで自身が斬り伏せた風魔衆をみていた生野が、顔をあげた。お信磨の姿を見て心底ほっとした表情になる。
お信磨は生野の側まで滑り寄り、両手を地面について止まると、ゆっくりと立ち上がった。その胸で燦然と輝いていた2個の半珠はすでに輝きを弱めている。
お信磨がほうと一息吐くと、宙に浮いていた布がひとりでに、しっかりとお信磨の身体を覆い隠す。
「お礼姉さん、ありがとう」
お信磨が誰もいない虚空に向かって礼を言う。
「兄上、予定通り屋敷は油まみれにしてやりましたが……、どうやら小太郎は里を空けて武蔵へと出向いているようにございます」
生野に向きなおり、お信磨が告げた言葉に、生野は形の良い眉をひそめる。
「そうかい。わるかったねぇ。あたしがもう少し詳しく調べ上げていれば……」
「いいえ。さすがは風魔の里。警戒は厳重でございました。無理に探れば姉さんのもう一つの呪いを使うことになっていたかもしれません。あれを使うのはここではありませんもの」
虚空から発せられた、すまなそうなお礼の声に、お信磨がそう答えていると、屋敷の中から四人の風魔衆が飛び出してきた。
「ここにいたか。曲者どもめ」
「もう逃がさんぞ。二人まとめて地獄に送ってくれるわ」
全員の衣服が黒く汚れており、顔には打ちつけたような痕が見られた。一人は鼻血さえ流している。
話は終わりだと言わんばかりに、無言の生野が太刀を地面に突き刺し、小太郎屋敷に向かって一歩前に出る。
生野は懐から黒い円錐状の筒を取り出し、顎をあげ、円の部分を黒い布のついた喉にあてた。
風魔衆のうちの二人が、嫌な気配を感じたのか、すぐさま忍び刀を抜いて走り寄ってくる。
お信磨がたるんだ腹の間にまだ溜まっていた黒い液体を手ですくい、二人の足元に投げつけた。先頭を走っていた者が見事に転び、もう一人もそれに巻き込まれて転倒する。
その隙に、生野は黒い布を、筒と喉の隙間から勢いよく引き抜いた。
黒い円錐の先端から、収束された強い一筋の光が、屋敷へと向かってのびる。
瞬間。悲鳴があがった。倒れた風魔衆たちは、突然あがった背後からの悲鳴に振り返る。
燃えていた。小太郎屋敷が燃えていた。屋敷の前に残っていた二人の風魔衆が、燃えていた。
瞬く間に屋敷中に燃え広がった炎は、入り口にとどまっていた二人の風魔衆にも飛び火したのだ。
「池だ! 池に飛び込め!」
転倒した風魔衆の一人がそう叫ぶと、二人の風魔衆は火をまといながら、一目散に池に走り、そのままの勢いで庭の池に飛び込む。水しぶきが高く上がり、それが収まると白い煙があがるが、それでも火は消えない。体の表面に、なにか膜のようなものが張られたかのように水をはじき、内側から体を焼いているように見える。なんとか火を消そうと、二人は池の中で転げまわっていたが、やがて動かなくなり、そのまま水の減った池に浮かんだ。
唖然とその様子を眺めていた残りの風魔衆は、まだ生野たちが目の前にいることを思い出し、慌てて振り返り身構える。
だが、残った風魔衆は襲われはしなかった。
生野が、お信磨といつの間にか姿を現したお礼に支えられながら、弱弱しく輝く、喉とうなじの半珠を隠すように黒布を巻きつけている最中だった。それを終えると、身構えるばかりで動くことのできない彼らに背をむけ、三匹の牙持つ犬は、静かに小太郎屋敷をあとにした。