十話 出迎え


 獣道を覆い隠すように茂る藪をかきわけ、小太郎はついに山林を抜けた。
 切り立った崖が眼前に広がる。それ自体は懐かしい風景だった。
 ただそこには、小太郎が自身で見た古い記憶とは違い、小太郎が得た古い情報通りのつり橋がかけられていたのである。
 だが、感慨にふける時間はない。
 真の目的の場所へとたどり着く為には、あのつり橋を渡らねばならぬのだ。
 小太郎が決意を新たにつり橋へと近づくと、つり橋の前に、美しい少年が二人佇んでいるのが視界に映る。
 二人は警戒しながら歩み寄る小太郎に、笑みを向けてきた。


「風魔小太郎様でございますね」

「ようこそ、一夜の里へ」


 二人が揃って頭を下げた。


「わしが来ることを知っておったのか……」


 小太郎は通り抜けてきた山林を振り返る。誰も後を追ってきている気配はない。ここまで走ってくる間も、誰かに監視されているような視線は感じなかったのだが……。


「どうかお気になさらぬように。今は一刻を争う時でございましょう」

「われらが頭領一夜幻之丞が待っております。我らについてきてくださいませ」


 そう言って、二人が並んでつり橋を渡り始める。
 自分が来ることを事前に知られていたのは面白くないが、だからといって感情に任せて引き返す訳にもいかない。元々渡るつもりであったのだ。誰に先導されようと、小太郎に嫌はない。むすりと黙って二人のあとに続いてつり橋に足を踏み入れた。
 慎重かつ大胆な足取りの小太郎の眼下では、荒川が轟々と音を立てて流れている。その流れを目にしながら小太郎はぼそりと呟く。


「以前に来た時は、橋が落とされておったのだ」

「我らが生まれる前のことでございますね。聞いております」

「その時は、ご依頼ではなく、戦をしにまいられたと伺っております」


 二人の美少年は振り返ることなく言う。
 そう。そうだった。自分は前を歩く少年たちよりも、少し年上ぐらいで、その戦が自分にとって初めての実戦になるはずであった。
 三代目小太郎に率いられ、風魔衆はこのつり橋の向こうに住む忍びの一族を、力づくで従わせるために、小太郎が抜けてきたあの獣道を走ったのだ。
 その忍びの一族の名は……一夜衆。
 特定の主を持たぬ忍びの一族である。伊賀の流れを汲むらしいので、それ自体は珍しくはない。ただこの一夜衆は諜報活動のみを生業とし、仕事を請け負うのではなく、自分たちで率先して情報を集め、それを売り込むという忍びと言うよりも商人のような生き方をする。その顧客も大名家に限らず、その臣下、公家、寺社、商人などと幅広かった。
 ただ決して目立っていた訳ではない。風魔も諜報活動を仕事の一部としているにも関わらず、当時の北条家当主氏綱に、その存在を教えられるまで、風魔は彼らの存在を知らなかった。
 彼らは氏綱に関東中央への進出のための情報を売る。その情報は風魔がもたらしたものよりも、新しく詳細で、そして正確であった。そのため氏綱も何度か彼らから情報を買ったが、次第に恐怖を抱きはじめる。もしかしたら、自国の精細な情報も、このように他国に売られているのかもしれないと。
 そこで氏綱は、情報を売りに来た一夜の者に、北条の傘下に加わるようにと要求したが、一夜の者はこれをあっさりと拒否したうえでこう言ったらしい。


「氏綱様は情報の大切さを知る良きご主君とお見受けいたします。さればこそ、ご理解いただけるはず。どんな正確な情報も、活かすことができねば手にいれておらぬのと同じこと。仮に相手もこちらの情報を握っておるのならば、あいてより情報を上手く使いこなせば良いだけでござる。我らを恐れる必要などござらぬ」


 氏綱は、いけしゃあしゃあと語る一夜の者に怒りを覚えたが、ここでこの者を斬れば、それこそこちらが不利になる情報を流されかねない。
 氏綱は三代目小太郎を呼び出し、一夜衆の存在を教えたうえでこう命じた。一夜の忍びを風魔の傘下に組み入れよ。無理であれば滅ぼすようにと。
 風魔は伊賀や甲賀と似たような仕事をこなしているとはいえ、彼らと違い忍びとは呼ばれていない。風魔は乱波集団である。これは単に西と東の呼び名の違いではない。彼らは文字通り敵国に乱の波を引き起こすことを得意としていた。集団で敵領国の村落を襲い略奪行為を繰り返す。それが当時の風魔である。三代目小太郎は、配下の者にすぐさま一夜の者を捕えさせ、拷問をすることで一夜衆の本拠地を吐かせると、すぐさま戦仕度を整えた。
 本拠地は秩父の山奥。この頃はまだ北条家は西武蔵の支配を確立してはおらず、むしろ武田家の影響が強い時期であったため、正規軍を送るわけにはいかない。その意味でも乱波集団である風魔の方が、都合が良かった。


「いま思えば、あの時もわしらが来ることを事前に知っておったのだな……」


 小太郎は苦虫を噛み潰したような表情で昔を思い出す。
 風魔衆が一夜の者から聞き出した場所に行くと、あるはずのつり橋がなかった。あった跡ならば確かにあったのだが……。どうしたことかと思っていると、崖の向こうにこちらを見ている集団がいることに気がついた。おそらく、あれが一夜の忍びであろう。こちらがこれからどうするのか、様子を窺っているといったところだろうか。
 三代目小太郎は、もしもの時の抜け道があるはずだ、それを探せと皆に命じた。小太郎もその指示に従い、散ろうとした時だった。風魔の里から急を知らせる使者が到着する。自分たちがここに到着してからそれほど時は経っていない。自分たちが出発してすぐに、使者も後を追ってきたのだろう。それほど急に事態が変わったということか。使者が何事かを三代目小太郎の耳元で(ささや)くと、彼は暫し呆気にとられていたが、やがて憮然(ぶぜん)とした顔で崖向こうの一夜を睨みつけ、彼らにも聞こえるように「退くぞ」と吠える。
 その時はなにがなにやらわからず、ただ、初めての戦がふいになったことだけが悔しかった。
 それから十年以上の月日が流れ、三代目が病床に伏せると、彼から四代目小太郎に指名される。その時、長年気になっていた、あの時なにもせずに退却することになった理由を、北条になにがあったのかを三代目に尋ねた。
 すると三代目は寝具を握りしめ顔をしかめながら、わしにもわからんと吐き捨てるように言ったのだ。わかっていることは、一夜を滅ぼせと命じた本人の氏綱が、それを取りやめさせたこと。しかも、捕えていた一夜の者の解放まで命じたこと。理由は説明されなかったし、問いただせる立場でもなかったと、悔しそうに語っていた三代目を、小太郎は今でも忘れられない。