一話 犬坂生野種智


 上総(かずさ)安房(あわ)を勢力圏とする里見家五代目当主里見義弘は、趣向をこらした庭の地面に頭をつけ平伏する若者を、しっかりと磨きあげられた縁側に立ち、厳しい目つきで見下ろしていた。
 この若者は、義弘が謁見を許可してやれるような立場の者ではない。
 こうして、邸宅にて極秘裏に会うのでさえ、本来は危うい。
 父である義堯(よしたか)に面会が露見すれば、どれだけの不興を買うことか。
 家督を譲り受けはしたが、実権は今も父に握られているのだ。不興を買いすぎれば、今からでも当主の座を弟の義頼に奪われかねない。己の野望の為に、力づくで従兄弟から家督を奪った男なのだ。父と言えど油断はならない。それが戦国の世というものだ。
 それでも会うことに決めたのには、もちろん理由がある。
 義弘は側に控える、禿頭(とくとう)好々爺然(こうこうやぜん)とした風貌の爺を見やった。
 岡本隨縁斎(ずいえんさい)。里見家の重臣であり、岡本城城主でもある。父義堯の信頼も厚く、いざとなればその身を犠牲にしても里見家を守ってくれると、義弘も信を置いている。
 その隨縁斎から、たっての願いと言われては、断れる訳もない。
 しかし、その隨縁斎が、父ではなく自分のところにこの話を持ってきたことの意味を、今更ながらに考えると、早まったかと思う気持ちも湧いてくる。
 そんな自分の不安を振り払うかのように、義弘は声を張った。


「よい。面をあげよ」

「犬塚種智(たねとも)、殿の御意である。面をあげよ」


 義弘の眉間によせられていた皺が、隨縁斎の言葉で若者が顔をあげたとたんに、大きく見開かれた目に引っ張られ、消えてなくなった。
 驚くほど美しい顔立ちの若者だった。しかも、ただ美しいだけではない。その双眸は若者の聡明さを象徴するような輝きに溢れ、唇は意思の強さを表すようにきつく引き締められている。義弘は視線だけではなく、心さえも奪われていく感覚に寒気さへ覚えた。
 義弘は脇に控えている隨縁斎を睨みつけるが、当の本人は若者に目を向け、義弘の視線を避けている。
 本来であれば、こんなにも目立つ若者が、ここまで無事に成長できるはずがないのだ。顔を傷つけられ、手足を折られていたとしても不思議はない。
 なぜなら彼は、かつて里見家の安房の支配確立に大きく貢献した、あの八犬士の血を引く者なのだから。おそらく、一筋縄ではいかぬこの爺が、陰ながら手助けをしていたに違いない。
 随縁斎は義弘の視線に気がついていないはずもないだろうに、素知らぬ顔で座っている。里見への忠誠は疑うべくもない忠臣であるが、喰えない禿頭には違いない。


「本日はお目通りをお許しいただき、恐悦至極に存じます。拙者、犬八家が一家犬坂の当主を務めさせて頂いております、犬坂生野(いくの)種智と申します」


 凛と響く声が、牡丹のような痣の見える喉を通り、端正な口元から流れ出る。
 義弘はその声を心地よく感じながらも、厄介ごとが増えそうなことを予感し、面白くなさそうにその場にどかりと腰をおろした。


「よい。だが、要件があるならば早く申せ。
 儂はお主たち一族のことなど気にもとめぬが、父は違うぞ。八犬士の血を引くお主がここにいると知れば、お主らの一族ただでは済むまい」


 こうして義弘が目通りすることを知っただけでも、父義堯の怒りが頂点に達するであろうことは、想像するに難くない。義弘に譲ったのは家督のみ。家中での義堯の影響力は、実権を持つ者のそれである。
 今回の件が義堯に知れれば、家中を揺るがす大騒ぎに発展する可能性さえ考えられる。


「はい。それではお言葉に甘えさせていただき、申し上げます。拙者、昨今の当家の動きから、近々北条との間に大きな戦をひかえているのではないかと思い至りました」

「ふん。なかなか目聡いではないか。幽閉されておるはずのお主ら八犬家が、どのように当家の動きを掴んだのかは知らぬがな」


 喰えない爺は、かわらず視線を犬坂生野種智に向けたままである。

 時は永禄九年。第二次国府台合戦の敗北により、北条氏に対して劣勢を強いられていた里見家は、上杉謙信の関東出陣に便乗し反撃に転じた。西上総の要衝佐貫(さぬき)城の奪還に成功したのもつい最近のことだ。ただ、上杉が下総臼井城の攻略に失敗し越後に撤退したため、北条にこちらに目を向ける余裕が生じた。近いうちに佐貫城の奪還に動くのではないかというのが、義弘と家臣団の共通の見解である。


「氏政の奴め、懲りずに上総へ兵を進める気配があるようなのでな。こちらもそれに対して備えを進めておるところよ」
 義弘は顎をひと撫でし、若者にきっぱりと申し渡す。

「先に申しておくが、お主ら八犬家の者を従軍させることなどできんぞ。父上の目がある。大事な戦を前に、家中でごたごたを起こされてはかなわぬ」

「承知しております。その戦に参加させていただく必要はございませぬ。ただその戦に際し、我ら八犬家が別働隊として、小田原に攻めいることをお許し頂きたいのです」


 義弘の口が、あんぐりと開いた。


「ば、馬鹿を申すな! そのほうが無理というものであろうが! お主たちに兵を率いらせるなど!」


 声を荒げる義弘とは対照的に、波一つ立たぬ水面の如く、若者は静かに言葉を紡ぐ。


「里見家を一度捨て、謀叛の罪を背負いし我ら八犬家に、疑念の目をお向けになるのは無理からぬこと。無論、兵を預けていただく必要はございませぬ。家族も残してゆきます。我ら八犬家各家から代表者を一名ずつ。計八名により小田原を落としてごらんにいれますゆえ、我らに小田原へ攻め入るご許可を賜りたく存じます」


 生野が再び地面に額を擦りつけるが、義弘の開いた口は塞がらない。


「まさか、氏政を暗殺すると申すのか……」


 ようやくその言葉が零れ出る。
 しかし、顔をあげた生野は首を振る。


「いえ。それでは里見家の名に傷がつきます。あくまで、小田原城を攻め落とすのです」

「……八名でか?」

「八名で」

「お主、正気か?」


 義弘は真っ直ぐに若者の目を見つめた。冗談を言っているふうではない。さりとて狂っているようにも見えない。瞳は知性に輝き、表情は真剣そのもの。横目で随縁斎の表情を窺うが、かわらずのすまし顔である。
 これでは、不可能だと考えている自分の方が狂っているかのように思えてくる。
 義弘は大きく息を吐いた。
 落ちつけと自身に言い聞かせる。

「上杉ですら落とせなかったあの小田原だぞ。それを八人で落とすと言うか……。あの父の子である儂が言えた義理ではないが、無駄に命を捨てるのは感心せんな」


 若者の目が、義弘の言葉に一段と輝きを増した。


「無駄にはなりませぬ。里見家の為。我ら八犬家の為でございます」


 それにと、生野は言葉を続ける。


「我らには、小田原を噛み砕く牙がございます」

「牙?」


 訝しむ義弘の言葉に、生野は強く頷く。
 その目と声は、鉄をも溶かすような熱を帯びていた。


「我らの祖、初代八犬士を一騎当千足らしめた呪いの力。それに南蛮の知識と技術を加えし力。
 名を『呪言(じゅごん)』と申します。
 我ら八名が『呪言』を宿し攻め入れば、いかに堅牢な小田原といえども、無傷では済ませませぬ!
 もしも、我らが牙が小田原を噛み砕き、氏政に到りましたその時は! どうか、どうか残されし我が一族に、どうか一滴のお情けを……」


 生野が額を地面に打ちつけられる音が、義弘のもとまで届く。
 八犬家が義堯に与えられし窮状は、義弘はもちろん知っている。哀れとは思っていた。しかし、義堯の意向に逆らってまで、なんとかしてやろうとも思わない。


「……お主らが手柄をあげたとて、必ずしも罪が許されるとは限らぬ。
 それなりの働きをみせれば、儂は報いてやらぬではないが、父上の横やりがはいれば、どうなるかはわからぬぞ」


 それだけ義堯の八犬士嫌い……いや、八犬士への恐れは根が深い。


「たとえ儚き望みであったとしても、我らの命、それにかける所存にございます」


 若者の真摯な言葉を聞きながら義弘は考える。これから北条との間に大きな戦が起きることは間違いない。そうなれば多くの戦死者が出ることは覚悟せねばならない。死体が八人分増えたところで大差はないだろう。将来有望そうな若者が早死にするのも珍しいことではない。惜しいとは思っても、それは仕方のないことである。
 義弘が悩むのは、八犬家を今の囲いから出してしまっても平気かということだ。
 義堯には、知られさえしなければ済むが、八犬士の牙が里見に向けられはしないか、むしろそちらの方が心配である。
 それだけ、今の八犬家に対する里見の、義堯の行いは酷い。義堯のみが、滅びるならそれも良いかも知れないが、里見家が内側から食い破られるような事態になっては目もあてられぬ。
 はたして、いま目の前にいる犬は、飼い犬か、はたまた狂犬か?
 義弘は、手で顔を覆い隠し、思案の海に沈みこんだ。