「その、すっごくよくしてくれて……先輩、アドバイスありがとうございます!」
いつも恋愛と縁がない事をいじられていた同僚。その左手の薬指には、プラチナの輝きが灯っていた。え? いつの間に?
藍佳は自分の指を見る。聖矢からは何も贈られていない。いやそもそも、付き合ってから特別なプレゼントをされた記憶がない。
「これからも困ったことがあったら何でも相談して!」
「ありがとうございます!」
彼女はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべた。そうか。会社の空気に馴染めない同士だなんて思ってたのはアタシだけだったんだ……。
「ひょっとしてこのままゴールイン? キャ~」
「ふふっやめてくださいよ~」
結婚? そこまで考えてるの?? それに引き換えアタシの場合は……。
聖矢と結婚? ピンとこない。でも現状最も可能性が高いのは彼だ。仕事はするだろうか。するだろうな。聖矢の稼ぎだけでは専業主婦は出来ない。なら子供は? 絵は描く時間はあるのか?
ああ、そういえば……。藍佳は結婚して同人をやめてしまった知り合いの絵師を思い出した。最初は家庭を考えた上で断腸の思いで、といった感じだった。でも最近タイムラインに流れる子育てツイートは、とても楽しそうだ。
楽しいならいいんじゃないか。少なくとも楽しくない、苦しいばかりの趣味よりは……
趣味が……楽しくない?
ふと気づいてしまう。同人活動って苦しい事ばかりじゃないか? なんでそんな事やってんだ? なんで焦燥感に追われながらネタ出ししたり、同居人と喧嘩したりしなきゃいけないんだ? 大体そもそも……
「なんでアタシ、絵を描いてるんだっけ……」
藍佳は同僚たちに気づかれない大きさの声でつぶやいた。
時計は既に正午を回っていた。床に転がるように寝ている聖矢は当分起きそうにない。
今朝もいつも通り6:30のアラームで目が覚めた。けど、家に帰る気にはなれなかった。聖矢が起きてから2人で朝食をとり、午前中はそのままぼんやりとテレビを見ていた。
芸能人の入籍を話題にする情報番組を見ながら、ふと昨日のランチタイムに考えていたことを思い出した。聖矢はどう考えてるだろう。今までそんな事を気にしたこともない。過度に干渉し合わないのがアタシたちの良いところ、とすら考えていた。
こうして週末に会って、夜を共にし、たまにそのまま家で2人で過ごす。オタク趣味と両立可能な、ゆる~い関係に満足していた……はずだった。
『ねえ、アタシたちのこの先のことって考えたことある?』
冷蔵庫に飲み物を取りにいった聖矢に尋ねる。できるだけ平静を保ちながら。テレビの中の話題とも繋がっている。不自然な切り出しじゃないはずだ。けど……
チッ
はっきり聞こえた。わざとなのか無意識なのかわからないが、確かに舌打ちの音だった。その後、数秒間の静寂。
地雷踏んだ? 音がした方を振り向けない。すると背後から両腕が伸びてきて、藍佳の上半身を抑えるように抱き込んできた。
『そうだな、ゆくゆくはちゃんと考えなくちゃいけないね』
妙に優しい声が、耳元で囁かれる。
『けど、いいじゃん、今はまだ』
聖矢はそう言うと、藍佳の身体を横たえ、そこに覆いかぶさってきた。え? なんで? 今の話の流れで? このタイミングで、何故そういうことになるの? 訳がわからず、ゾッとする。昨夜あれだけ相手をしたのに、まだ足りないのか……?
そして現在に至る。思ってた通りではある。聖矢は将来のことなんか考えていない。けどそれは自分だって同じだ。それでも……こんな関係でも時間を重ねていけば、いつかは腰を据えて考えるようになるのだろうか?
「…………」
しばらく起きそうにない聖矢をそのまま床に転がして、藍佳は暇つぶしになるものはないか探す。壁際にはスライド式の本棚がひとつ置いてある。藍佳の部屋の蔵書ほどではないけど文庫本や漫画が並んでいた。何気なく手前の棚をスライドさせて奥の蔵書を見る。
「あれ?」
端の方に薄く版の大きい本が何冊か並んでいた。同人誌だ。その中一冊に目が止まる。
ああ、なんだかんだ言って大事にしてくれているんだな。気合を入れて作った箔押しの背表紙は忘れようもない。 藍佳の、[からすみうるて]の最高傑作、『トンネル坂の転校生』だ。
その他の同人誌も少ない数だけど、版の大きさを合わせてきれいに並べられている。読んだ片っ端から床に放り投げる誰かさんとは大違い……
いや、待って。
そこで気がつく。なんで複数冊あるんだ? これまでの気のない返事で分かっている。聖矢は出会った頃に話していたほど、同人誌に興味があるわけじゃない。せいぜい仕事で扱ってるもの、という程度の認識だろう。
自分で買って本棚に並べる趣味なんかあったのか? いや、あっても別におかしくないでしょ。そう自分に言い聞かせながら、自分の本以外を手に取る。
「なに……これ?」
奇妙な取り合わせだった。ジャンルにも作家にも共通点がない。二次創作とオリジナル。全年齢本と18禁本。ギャグとシリアス。全てバラバラだ。作家もSNSでよく見る有名所から、無名作家まで幅が広い。
いや……
違う。共通点がある。これ、アタシ含めて全員……女性だ。
嫌な予感がして、後ろの表紙を開き奥付を確認する。もう一つ共通点があった。みんな聖矢の務めている印刷所だ。
顧客の中から食えそうな女を探してただけなんじゃ……?
あの邪推が鎌首をもたげる。けど今日の藍佳は、それを打ち消すことはしなかった。それよりも素早く、藍佳の喉笛に食らいついてきたのだ。
「は?」
奥付の上にラベルが貼り付けてあった。そこには日付だけが書かれている。他の本も確認する。やはり奥付の上に同じラベルが貼られている。
何の日だ? 本を購入したイベントの日ではない。それなら大抵は奥付の発行日と同じになるはずだ。大体が、発行日の1~2ヶ月後の日付。アタシの場合は……。藍佳はもう一度、自分の本のラベルを確認し……そして目の前が真っ暗になった。
「何よコレ……」
自分でも戸惑うほど声が震えていた。それは藍佳が初めてこの部屋に来た日、つまり初めて聖矢と夜を共にした日だった。
頭の中に鹿の頭の剥製が並んでいる姿が浮かびあがった。そのうちの一つが自分だ。
彼女? 違う。都合のいい女? そんなもんじゃない……、トロフィーだ。こいつは女性を……というより女性同人作家を、野生の鹿くらいにしか考えていない。
怒りと恥ずかしさに震える指を落ち着けながら服を着て、荷物をまとめる。そして問題の奥付とラベルをスマホで撮影する。その間、聖矢は物音に目を覚ます様子もなく、高いびきをかいて寝ていた。
準備が整うと、最後に藍佳はハンドバッグからサインペンを取り出し、自分の本の最後のページに書きなぐった。
[アタシたちの好きを馬鹿にすんなカス!!]
パンプスにつま先をつっかけながら、スチール製のドアを開けて外に出る。ここに来ることはもう二度とない。藍佳の両目からはとめどなく涙が溢れていた。
藍佳が帰ったのはその日の夜だった。2日分のウーバーの空き容器が、彼女を出迎える。
「よお姉サン。今日は遅かったじゃねぇか」
「…………」
黙って、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。昨日の朝口論となり、今日も日が暮れるまで帰らなかったのでバツが悪い。
「まぁそんな事より、コイツはどうでぇ? 板海苔よりなんぼかマシだろ?」
「え?」
北斎は、タブレットの画面を藍佳に見せてきた。新しいイラストだ。内容はもちろん男女がまぐわう姿。和風の橋の上で、乱れる姿が月明かりに照らされている。
ぱっと見はどうという事ない屋外プレイの絵。けど北斎は、ひと工夫を加えていた。人物の手前に橋の欄干が描かれていて、ちょうど擬宝珠の部分が二人の結合部を隠している。
アイデア自体は、真新しいものではない。けど北斎のさじ加減は絶妙だ。ほんの少しアングルをずらせば、全てが見えてしまう。そんなギリギリの隠し方だ。黒塗り修正を良しとしない北斎の美意識と執念が、藍佳の要求を叶えるためにこのバランスを生み出したのだろう。
「あ……」
そんな北斎への畏敬の念が、藍佳の目元から涙滴をこぼした。泣いてばかりだ今日は。
「ずるいなぁ、ほんとずるいよホクサン」
何してるんだ自分は? 情けない。
「なんで……なんでそんなに、絵に打ち込めるの?」
会社の人間関係にビビり、男に勝手に甘え、勝手に絶望して……。少しはこの巨匠を見習え!
「そうだな。楽しいから……? いや、違ぇな。楽しいだけで突っ走れるのはせいぜい十年……いや五年程度よ。姉サンは描き始めて何年だい?」
藍佳が同人活動を始めたのは高校二年の頃だ。
「……えっと、そろそろ8年」
「じゃあ地獄の入口だな。五年を越えた先はむしろ辛ぇことの方が多い。手前ェの腕の無さに泣いて、同業の才能に泣いて、客の浅さに泣いて、ぼんくらな版元に泣いて、老い先の短さに泣いて、泣いてばかりの画狂人生よ」
北斎の声が妙に優しく感じられた。まるで不肖の弟子を諭すような……。そもそも弟子入り志願したのは向こうだけど、今や立場が逆転していた。
「それでもよ、手が勝手に動いちまう、目が勝手に捉えちまう、頭が勝手に回っちまう。俺にとって絵ってのはそういうもんだ」
そっか。……やっぱりこの人は
「やっぱりスゴいよ。アタシなんて立ち止まってばっか。勝手に動くものなんか無い」
「いいや姉サン、それは違ぇな。今日は吹っ切れた顔してやがるぜ。辛ぇ事があったのかも知れねぇが、何処かでこうも思ってるはずだ。いいネタが出来たって」
電撃が走る。そうだ。聖矢の部屋で覚えた怒りや屈辱、そして奥付に捨て台詞を書きなぐったときの……爽快感。そんな感情を確かに覚えている。
そして、頭の隅では常にネタ出しを、そう心がけてきたアタシの思考はどこかで確信しているはずだ。これは、ネタになると。
「それをそのまま使うのは駄目だぜ? まずはな、弱火にかけながらゆっくり、ゆーっくりとかき混ぜていくのよ」
北斎は鍋をかき回すように手を動かす。
「手は止めるな。かき混ぜ続けろ。そうするとな、じきにダマができる。そのダマを崩さないように、さらにかき混ぜていくのさ。ダマはますますデカくなる。そしてその挙げ句が……アレさ」
北斎が指差す先には小さな樹脂の塊があった。『神奈川県浪裏』、博物館で回したガチャガチャのオモチャだ。
「ダマを紙に写すときだけはよ、べらぼうに楽しいんだ。それまでの辛ぇことを覆すくらいにな! あの醍醐味に触れちまうと、男女の秘め事なんざガキのおふざけだな」
「そっか、何となくだけど……」
藍佳は手にしているペットボトルの水を頭からかぶった。ぼたぼたと髪と服と床が濡れる。頭が冷やされ、頭脳が覚醒する。
カレンダーを見る。ネームの予定はとっくに過ぎている。しかもまる2日無駄にした。入稿予定日までも対して余裕はない。けど、やれる。やれるはずだ。
「アタシにも分かったかもしれないや。ホクサン!」
その日から、藍佳の日常は一変した。
確実な時代考証が可能だから時代劇を描く。そんなふざけた動機から作られたネーム(のようなもの)は全部捨てた。そして自分の中に潜り込む。
特に今回の一見で味わった色んな感情。それをゆっくりとかき混ぜていく。北斎が言う通り、何度も、何度も……。
会社から帰宅するとまっすぐデスクに向かう。そして日付が変わるまでノートに鉛筆を走らせ、何が描けるか、何を描きたいか。模索し続ける。
目隠しされて、細い迷路をくぐり抜けるような作業。分岐点があれば、片方を進み、駄目だったら分岐点へ戻る。行き止まりだったらまた最初から。
書いては消し、描いては消しを日付が変わるまで繰り返す。そして、4時間寝たら早朝にもう3時間、デスクに向かった。
昼休みの時間は睡眠に回した、好きじゃない話題をじっとやり過ごすよりも遥かに有意義な時間の使い方だ。最初はソレで仕事がやり辛くなる事を覚悟した。が、思っていたほどの影響はなかった。
考えてみれば社内の人間関係で最も濃密な関わり合いは、ランチタイムそのものだった。だからその場に参加しなければ、嫌味を言われるような場もないのだ。最初こそ戸惑いの眼で見られたけど、3日もすれば「そういう人だから」と周囲の認識が変わるだけだった。
それより閉口したのは、聖矢からの怒涛のメッセージ攻勢だ。あの日の一件は、自分も状況証拠だけで判断したような所があった。それに考えてみれば、藍佳だっていえ年上の異性との同居を隠している。事情があるとはいえ、彼氏に対して誠実な態度とは言えない。だからメッセージの内容次第では。もう一度話し合ってもいいかなと思っていた。
しかし、メッセージの内容は言い訳になってない言い訳と、すぐにわかる嘘のみ。殊勝な気持ちもすっかり消え失せて、藍佳は躊躇なくブロックのボタンを押した。
そしてあの日撮った写真と、そのメッセージのスクショを、個人特定がされないように加工して裏アカウントで公開した。裏垢は見事に炎上。印刷所の悪徳営業が女性作家を食っているという噂はまたたく間に広まった。
「被害者を増やさないために」という大義名分で、本名や印刷所のさらしを迫るゲスな声もあったけど、全部無視した。こういう手口があるんだと、同性の作家に注意喚起ができればそれで良い。それに一応はお世話になってきた印刷所に、迷惑を掛けるのも本意ではない。
ただ特定しようとする動きはどうしたって出てくる。それを止めようとも思わなかった。顧客情報を悪用してのセクハラなんて言語道断だし、解雇でも何でもされればいい。
何にしても藍佳は、この問題にこれ以上関わるつもりはなかった。貴重な人生。これ以上、あんな奴ごときに浪費するのはまっぴら御免だ。
そんなことよりも今は目の前の作業だ。自分の感情をかき混ぜ続けたら何かが見えてきた。これがダマ? 慌てずじっくりそれを壊さないようにかき回し続けると、いつの間にか一本のネームが出来上がっていた。
ギャングの抗争が絶えない犯罪都市。元恋人のギャングリーダーが残したグラフィティを、自分のスプレーで塗りつぶして歩く少女の話だ。時代劇とは程遠いストーリーになった。
けど、取材対象はすぐ近くにいる。もちろん、あのカフェの店主だ。彼はノリノリで藍佳にグラフィティアートのことを教えてくれて、それが作品の説得力へと還元された。
ネームが決まれば後はひたすら描いていくだけだ。藍佳は夢中で、ペンタブを動かし続けた。
一方、北斎の描く作品も強烈だった。彼は江戸東京博物館に通い詰め、自分が知らない世界……つまり「東京」を学んだ。その結果誕生したのは、幕末から現代まで、激動の2世紀を渡り歩く不死の絵師の話だ。
こう説明するとシリアスな話を想像するかもしれない。けど基本的には、その時代その時代で出会う美少女とのえっちなやり取りが続く紙芝居だ。そしてホクサン節満載の例のテキストも健在で、シリアスとギャグとエロがないまぜになった不思議な作品が出現した。
こうして完成した二つの作品を一冊の本にまとめ[ワラスボ・ラボ]の新刊『令和草双紙』は完成した。
「できたか?」
「うん。今、アップロード終わった。入稿完了! 」
ふぅー……と、ふたり同時に息を吐き出した。肺がしぼむとともに、体中に充満した緊張も体外に流れ出ていくような感覚に襲われる。そして、どっとやってくる疲れと眠気。同人活動をを始めて以来、いつだって入稿直後は疲れ切っていたけど、ここまで強い疲労感は初めてかも知れない。
けど、この気だるさは嫌いじゃなかった。
「さてと、じゃあオレぁひとっ風呂浴びてくるわ」
そう言って北斎は腰を上げる。北斎から風呂に入ろうなんて珍しいな。そう思うとともに、自分も一昨日の夜から下着の着替えすらしていない事を思い出した。そして改めて身体中ベッタベタなことに気がつく。
「待ってホクサン。それならさ、シャワーじゃなくて銭湯行こう!」
そう言って藍佳も立ち上がる。
「悪かねえな」
「よし決定! 準備するからちょっとまってて」
で、帰ってきてから掃除だな。藍佳はこの数週間でうず高く積もった、ゴミや資料の山をかき分けながら思った。
「カンパーイ!!」
缶ビールで祝杯を上げる。藍佳は大の酒好き肴好きだ。ワラスボ、カラスミ、ウルテ、これらは全部藍佳の好物でもある。一方、北斎はこれまで全く酒を飲まなかったけど、下戸というわけじゃないらしい。
「うげぇっ!?」
が、初めて飲む麦酒の味に仰天したようだ。
「あははっ ポテチやブリトーはいけるホクサンもビールは苦手かぁ」
藍佳はケラケラと笑う。肩の荷が下りて声まで軽くなったようだ。
「苦手もなにも……こりゃあ馬のションベンじゃねえか!!」
「あっソレソレ! そういうの聞きたかったんだよアタシー!!」
タイムリーパーのステレオタイプな反応。アニメもタブレットもWebもジャンクフードも……21世紀の文明を難なく受け入れてきた江戸の絵師が初めて見せた顔に、藍佳は上機嫌だ。
「いやぁ~、イベント大成功だったね!」
「オレぁ疲れたわ、ああいうのは性に合わねえ」
即売会には沢山の人が来てくれた。元から藍佳の読者だけでなく、SNSに投稿した北斎の絵を見てきた人も大勢……中には、カフェの店主がアップした動画を見たという人もいた。
北斎は途中で人に酔ってしまい。会場の外でぐったりしていたらしいけど、それがたまたまコスプレ広場で、たまたま(?)北斎の服が例のSSR衣装だったものだから、大変だ。気がつくと北斎の周りには『フォーティチュード・ジーニアス・オンライン』のファンが殺到した。計画通り、今ネット上で彼の写真は絶賛バズリ中だった。
「まぁともかくお疲れ様。ホラ、お酒も買ってあるから飲んで飲んで」
藍佳は緑色のガラス瓶のキャップをひねり、透明な液体を紙コップに注いで北斎に渡した。藍佳は、北斎が飲み干す様を見て、にへへ……と嬉しそうに笑う。
「なんでぇ姉サン、笑い上戸だったのか」
「打ち上げで飲むお酒ほど美味しいものはないからねー。まぁ……この後の作品の反応が怖くもあるんだけど」
「怖いことがあるもんか」
北斎は酒瓶を手に取り、じゃぶじゃぶと注ぎ直す。
「手前ェが満足して出したものなんだ。その時点で親元を離れた鳥みてぇなもんさ。ウケなかったらそれはそれ、次に飛ばす鳥に活かしゃいいだけよ」
そう言いながら北斎はまたコップを空にする。さらに注ごうとするが、藍佳の手が割って入る。藍佳は二人のコップそれぞれに均等に注いだ。
「そだね。じゃあ、アタシたちのひな鳥の巣立ちに……カンパイ!」
二人で同時にくいっと紙コップを傾けた。
「そういえばさ、〈高位存在〉さんだっけ。来てたよね」
「え? ああ……」
[ワラスボ・ラボ]のスペースを訪れた参加者の中には、あの柔和な笑みをたたえたイケメンもやってきた。彼は、差し入れの栄養ドリンク数本とスマホのプリペイドカードを持って現れ、新刊を買っていった。
『北斎さん、あとでお話ありますから』
彼は、人の多さに目を回す北斎にそう言った。
「なんかホクサンに話しあるって言ったけどなんだったの?」
「ああ、ちょっとな……」
どことなくはぐらかすような感じで、北斎は言葉を濁した。
「それより、お前ェさんにも話が来てたろ、アレどうすんでぇ?」
「ああ、そうだね……」
〈高位存在〉には一人の連れがいた。なんと『フォーティチュード・ジーニアス・オンライン』のプロデューサーだ。
『いま次回作を構想中でして、他の人にない絵を描ける方を探しています』
仕事の話だった。しかも思ってもない有名所からの。とりあえず名詞を交換し、後日連絡を取り合う約束をした。
『今日までご協力いただいた、ささやかなお礼です』
柔和なイケメンは藍佳にそう言い残して立ち去っていった。
「もちろん条件次第だけど……受けようと思ってるよ。このサークルのまたとないチャンスだもん!」
「ふぅん、そうか」
北斎は顔をほんのり赤くしながら、新しい酒瓶に手を伸ばした。