藍佳が帰ったのはその日の夜だった。2日分のウーバーの空き容器が、彼女を出迎える。

「よお姉サン。今日は遅かったじゃねぇか」
「…………」

 黙って、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。昨日の朝口論となり、今日も日が暮れるまで帰らなかったのでバツが悪い。

「まぁそんな事より、コイツはどうでぇ? 板海苔よりなんぼかマシだろ?」
「え?」

 北斎は、タブレットの画面を藍佳に見せてきた。新しいイラストだ。内容はもちろん男女がまぐわう姿。和風の橋の上で、乱れる姿が月明かりに照らされている。
 ぱっと見はどうという事ない屋外プレイの絵。けど北斎は、ひと工夫を加えていた。人物の手前に橋の欄干が描かれていて、ちょうど擬宝珠の部分が二人の結合部を隠している。

 アイデア自体は、真新しいものではない。けど北斎のさじ加減は絶妙だ。ほんの少しアングルをずらせば、全てが見えてしまう。そんなギリギリの隠し方だ。黒塗り修正を良しとしない北斎の美意識と執念が、藍佳の要求を叶えるためにこのバランスを生み出したのだろう。

「あ……」

 そんな北斎への畏敬の念が、藍佳の目元から涙滴をこぼした。泣いてばかりだ今日は。

「ずるいなぁ、ほんとずるいよホクサン」

 何してるんだ自分は? 情けない。

「なんで……なんでそんなに、絵に打ち込めるの?」

 会社の人間関係にビビり、男に勝手に甘え、勝手に絶望して……。少しはこの巨匠を見習え!

「そうだな。楽しいから……? いや、(ちげ)ぇな。楽しいだけで突っ走れるのはせいぜい十年……いや五年程度よ。姉サンは描き始めて何年だい?」

 藍佳が同人活動を始めたのは高校二年の頃だ。

「……えっと、そろそろ8年」
「じゃあ地獄の入口だな。五年を越えた先はむしろ(つれ)ぇことの方が多い。手前(テメ)ェの腕の無さに泣いて、同業の才能に泣いて、客の浅さに泣いて、ぼんくらな版元に泣いて、老い先の短さに泣いて、泣いてばかりの画狂人生よ」

 北斎の声が妙に優しく感じられた。まるで不肖の弟子を諭すような……。そもそも弟子入り志願したのは向こうだけど、今や立場が逆転していた。

「それでもよ、手が勝手に動いちまう、目が勝手に捉えちまう、頭が勝手に回っちまう。俺にとって絵ってのはそういうもんだ」

 そっか。……やっぱりこの人は

「やっぱりスゴいよ。アタシなんて立ち止まってばっか。勝手に動くものなんか無い」