久しぶりに制服に袖を通したその日、私は、懐かしい黄色い電車に乗って学校の最寄り駅に降り立ち、改札口を抜けて、ホームズパンとお団子屋の前を通り、江戸時代に造られた用水路を渡って校門の前に辿り着いた。

 梅雨が明けたばかりの暑い日だった。若々しい陽光が校舎や中庭、桜並木に差して、鮮やかな風景を描いている。一歩踏み出すごとに生命の匂いが鼻を突いて、弱った体にエネルギーを注いでくれる…また元の生活に戻れる、学校に通う毎日が始まるんだ、そんな妄想がもこもこと膨らんだ。

「じゃあ、あとでね」

 校長先生と大船先生に挨拶し、二年生の教室から駆けつけてくれた奏と千沙に国分寺ゆきの件を告げると、大きく息を吸い込んで身をひるがえす。もう迷うことはない、と鼻息を荒くして廊下に踏み出そうとしたら、後ろから追いかけてきた二人に抱きつかれた。

「なになに、どうかした?」

 また何かやらかしたか…鼓動を激しくしていると、

「別に…」

「そうだよ。何でもない」

 何て言いながら、奏がポンポンと私の頭を撫で、千沙がすりすりと背中をさする。

 いかにも、という感じで送られたエールにどんな意味があるか、普段の私なら理解できなかっただろう。でも、この時は、ニヤニヤしている顔を見たら分かってしまった。

『がんばれ、リン。ぐうたらイケメンに女の子の根性を見せてやれ…』

 これまで、テンドウに振り回される私をからかっているだけかと思ったが、奏も千沙もちゃんと見抜いていた。ある意味、私より先に林田鈴の本心に気づいて、見守っていてくれたのだ。

 そんなことをされたものだから、私の頭もネジが一本外れた状態になってしまったのかもしれない。

「行ってきます…」

 奏と千沙と別れ、ここまで付き添ってくれた父と祖母にそう言って、一年生の教室が並ぶ二階に向かう。ここから先は、さすがに家族同伴という訳にはいかない。どんなにつらくても一人で行かなければ…と気合を入れて背中を向けたが、やっぱり伝えておくべきだと思って、もう一度父と祖母に向き直って、二人の懐に飛び込んだ。

 今まで、いっぱいありがとう。ひどいこと、悪いこと、たくさんしてごめんね…。

 口に出したら泣いてしまうので、何も言わず、ただギュウッと抱きしめて、二人に想いを伝えた。何だかお嫁に行く娘みたいだな、最後に父が漏らした言葉に三人で大笑いしてしまった。


 そうして、覚悟を決めて天道翔がいる一年A組の教室に乗り込み、教壇側の扉から場違いな王朝貴族オーラを放っている姿を捜したが…どんなに目を凝らしても彼を見つけられない。おかしい、クラスを間違ったか、なんて思いながら声を掛けてくれた子に聞いたら、意外な答えが返ってきた。

「天道くんはここにいないです。多分、外で時間を潰してる…」

 真夏の昼休みに何故?またもやテンドウの行動に首を傾げながら、まるで責任を感じているように縮こまっているその子を目にしてふと思った。

もしかして…いや、やっぱり。

「あの。天道くんって、今、付き合っている子とかいるのかな?」

 それを聞いた途端、彼女が泣き崩れたものだから、慌てて抱き留めた。私と同じくらい華奢な体。でも私と正反対の華やいだ雰囲気、男子受けしそうな可愛い仕草。いかにもアイツ好みの子を前にして、ごくりと唾を飲みこんだ。

 果たして、彼女は私に告げた。

「私…昨日、振られたんです。悪いけど、きみとは付き合えないって言われて…」

 そう言うと、向けようのない気持ちが込み上げたのか、また泣きじゃくる。初対面の子を慰めている自分に空しいため息をついた。

 つまりテンドウは、相変わらず女の子を取っ換え引っ換えしながら高校生活を謳歌していて、彼女も昨日、短い交際期間の終わりを告げられて失恋の痛みを噛みしめている、ということだ。元カノが悲嘆に暮れている最中、彼の方は新しい彼女と思い浮かべるだけで恥ずかしい構図でイチャイチャしているに違いない。

 これまで何度も繰り返されてきた展開をまたも目撃した私は、呆れと絶望のため息をついて彼女と別れ、弱々しい足取りで玄関に向かった。

「……」

 やっぱりテンドウはテンドウだった。一か月の停学が解けてもう一度、高校一年生になってもやっていることは同じ。休学して、入院して、やっと一時退院した私が割って入る余地なんてこれっぽっちもない。うすうす分かっていたことだけれど、事実を突きつけられるとやっぱり体中の力が抜けた。こんな清々しい気持ちで乗り込んだのに、自分の能天気ぶり、おめでたい性格が悲しくなった。

さて、どうしよう。人生の最後でとてつもなく高い壁が目の前に現れた。このまま家に帰って泣こうか、とも思ったが…せっかくだからぶつかってみよう。せめて戦いを挑んで泣こう、そう決心して玄関に辿り着いた。そこで待っていた琴にギュッと抱きしめられ、やはりポンポンと背中を叩かれて外に押し出された。

「…何?」

 振り返ると、いつも姉をおちょくり、驚愕の事実を知らせて、煮え切らない気持ちに喝を入れてくれる妹が、晴れやかな顔で言った。

「行っておいで。外階段の下にいる」

「うん…」

「ファイトだ!スズ姉」

 心強い言葉。でも、何か企んでいるような眼差しに送り出されて中庭を通り抜け、附属中学生が使う外階段の下に辿り着いた。