気象庁が梅雨入り宣言して三週目、昨夜からの南風に乗って暖かく湿った空気が関東地方に流れ込み、近年頻発している線状降水帯というのが私が入院している病院周辺を襲った。一時間に120ミリの記録的な降水量。どす黒い雲から溢れでた雨粒がコンクリートの建物を打ち砕くような威力で叩きつけ、辺り一帯を霧の海に沈めていく。

そんな光景を私は、成仏できない幽霊みたいに病室の窓から覗いていた。神田川の水量が氾濫危険水域に達しようと、中央線が落雷で不通になろうと知ったことではない。都心にいる何百万という人が途方に暮れても何の関係もない。そんな不謹慎な気持ちに陥っている最中のことだ。ふと、彼はどうしているだろう、と思った。あの怠け者のことだから、クラスメートの女の子に泣きついて中間テストをギリギリの点で潜り抜けたのだろう。ありがとう、きみって本当にやさしいね、なんてセリフを吐いているに違いない。その姿を想像すると、体に溜まった毒を吐き出すように久しぶりに笑みが零れた。

 人生、何が起こるか分からない。社会で活躍している人にはもちろん、こんな余命幾ばくもない私にも思いがけない出来事が待っているのだから。最後まで油断するな、終わるまで終わっていない、ということだ。

 琴に促されて、全身ずぶ濡れ、ヨレヨレのワイシャツ姿のテンドウが病室に入ってきたのは、私の顔からまだ笑みが消えていないうちだった。

「帰りの電車で座ったらつい眠っちゃって。気が付いたら電車が止まっていて、リンが入院しているのを思い出して寄ってみた…」

 何故、国分寺から立川方面に乗る彼が、反対方向の御茶ノ水駅で目を覚ますのか。まさか、終点で折り返した電車にそのまま乗って都心に辿り着いてしまった?どれだけ悠長なお昼寝をしているんだ…。

自分の境遇とあまりにかけ離れた人間の登場に、私は開いた口が塞がらなかった。変わり果てたパジャマ姿を見られて恥ずかしい、と思ったが、それより何倍も強い驚きと温かな気持ちが湧いて、大きく、大きく、息を吸った。

「何しに来たの?こんな所に寄り道していると勉強遅れるよ」

 そんな言葉を口にした自分に驚いた。ほんの数分前まで一筋の光も差さなかった世界に、線状降水帯を貫いて真夏の陽光が降り注いだのだから無理もない。半年振りに再会した相手に一瞬で元の呼吸を取り戻しているのだから、節操のなさに呆れかえった。

 だが、油断したらいけない。相手は、あの天道翔…世界一幸運な没落王朝貴族の末裔だ。

「大丈夫。俺、もう一度、高一やっているから」

「…どういうこと?一か月の停学で済んだんじゃなかったの?」

「二月から学校に戻ったけど…期末テストがメタメタで、留年したんだ」

 それからどんな言葉を掛けたか、憶えていない。非難、説教、暴言、苦言の雨あられ。一時間に180ミリ相当の言葉を彼に浴びせて、廊下を通りかかった看護士さんに部屋を覗かれてしまった。

 やっぱり、テンドウはテンドウだった。せっかく、お咎めなしで学校に戻ったのに、心を入れ替えることなく生来の怠け心を発揮したらしい。私がいなくなってから一ミリも成長することなく高校一年生をリピートし、乗っていた中央線がたまたま御茶ノ水駅で停まったから、時間潰しのつもりで立ち寄ったのだという。

 嘘なのか本当なのか、どうだっていい。ただ、都心上空で急速に発達した積乱雲に感謝しながら、私は一心に噛みついた。そんなことをしているとロクな人生を送れないよ。大学進学はおろか、高校卒業だって出来ない。人生、お先真っ暗だ…そう言いながら、自分も同じ境遇にあることに気づいた。留年を繰り返す親不孝者…それなら、いっそ道連れにしてやろうと思い、自虐的な言葉を掛けた。

「私も来年、高二だからさ。一緒に進級して、高校生活を楽しもうよ」

「じゃあ、リンが戻るまで俺一人で勉強するのか…」

「当たり前でしょう?何、甘ったれたことを言っているの?」

「でも…大丈夫か?」

「…どうしても分からない所があったらお見舞いに来なさい。教えてあげるから」

 それを聞いて安堵のため息をついている。女子のハートを虜にするイケメンが、こんなチビで地味で余命幾ばくもない子を誰よりも頼りにしているのだから、呆れて笑えて、胸が熱くなった。ふと、体の一番深い所に沈めていた気持ちがプカリと浮かんで、大げさな仕草で喜んでいる姿を遠い眼差しで見つめていた。

「……」

 毎日悲嘆に暮れて、家族に怒りをぶつけていた私が、彼と顔を合わせただけで失ったものを取り戻している。一年前にタイムスリップしたみたいにどうしようもない話をしているのだから笑ってしまう。

 みんなテンドウのせいだ。彼と関わったために、私の高校生活は想像したものとずいぶん違うものになってしまった。図書委員の仕事を一つも覚えない姿にイライラしたのも、ため息をつきながらテスト勉強を見たのも、校門の前で堪忍袋の緒が切れたのも、胸を高鳴らせて名前を呼び捨てにしたのも、プレゼンの練習で宝物のような時間を送ったのも、大雪に見舞われた日に恋愛というものに足を踏み入れたのも…テンドウがいなかったら私は、病気のことを誰にも告げず消えていただろう。残された時間を静かに過ごしたに違いない。

でも…もう無理だった。彼と出会い、抱えきれない時間を一緒に過ごして、なお、先行きを断たれた中で再会してしまったら…願ってはいけない、と思っていたものを抑えることができなくなった。

 手に入らないと分かっていても…どんなに迷惑を掛けても…。

 学校に戻って、もう一度テンドウの前に立ちたい…。

 一瞬でいいから、彼の心を手に入れたい…。

 天道翔という男の子の中に、林田鈴という女の子を残したい…。

 ただ一つの願いが、目に見える景色、取り巻いた世界を変えていく。行きつく先は何も変わらないのに、目の前に別の人生が現れたみたいに、私は大きく息を吐き、そして静かに吸い込んだ。

「じゃあね。絶対、学校に戻るから、ちゃんと勉強して二年生になるんだよ」

「お前こそ、ちゃんと治してから戻ってこい。先生や看護師さんを困らすな」

「うるさい。さっさと帰れ…」

 高原の湖みたいに澄んだ瞳を揺らして、まっすぐに見つめてくる。まるで世界で一番愛しい人を見つけたみたいに、私のことをじっと見据えて立ち去ろうとしない…これ以上一緒にいたら、いつかみたいに変態行為に及びそうなので、疫病神を追い払う要領で大きな背中を病室から追い出した。入れ違いに入ってきた祖母に、たった今閃いたことを打ち明けた。一生のお願い、と付け加えて。

 祖母は、ベッドから身を乗り出した私を見つめて、分かった、と言ってくれた。一時退院のこと、今後の治療方針のこと、すべてこちらで手配するから、あなたは体力を戻すことだけ考えなさい…私の手を取って、涙を浮かべながら頷いた。いつも冷静沈着、厳格な人なのに、こんな無茶苦茶な話を全力で後押ししてくれるのだから、全くもってイカれている。それほど、私という人間が追い詰められているということか。一生のお願いというものは、かくも人の判断を狂わせてしまうものなのか。