図書室の鍵を学生課に返し、玄関から外に出たのは、もうすぐお昼になる頃だった。
今日は一刻も早く帰ろうと思ったのに、図書室の片づけや新年の準備をしていたら結局、最終下校時間ぎりぎりになってしまった。最後まできちんと片づけないと気が済まない性分が、こんな所で仇になった。
言うまでもないことだが…この病気に罹ると、とても疲れやすくなる。心は何も変わらないのに、ちょっと張り切っただけで立ち眩みがしてその場にうずくまってしまう。まるで、体だけ別物に取り換えられたみたいに言うことを聞いてくれないのだ。
こんな私の前に立ちはだかったのは、三十センチを超える積雪と駅までの道を霞ませてしまうほどの猛烈な吹雪だった。
これは何の試練?青春のど真ん中にいる少女漫画の主人公じゃないんだから、どうしてこんな手の込んだ仕掛けを用意するの?
天に向かって因縁を付けたところで、雲間から一筋の光が差すこともない。いや、私の言い方が気に食わなかったのか、雪雲は一層激しい風を私の体に叩きつけ、都内の遭難者第一号を出そうとした。
凍った積雪に足を取られ、電線から降ってきた雪の塊に驚かされ、チェーンを履いた車が遠ざかる音を耳にしながら、変わり果てたいつもの風景に棒立ちになる。
どうしよう、やっぱり琴に連絡しようか…。
そうして普段の何倍も時間を掛けて辿り着いた最寄り駅で、さらなる困難が私の前に立ちふさがった。
『大雪のため、運転本数を大幅に削減して運行しています。次の電車の到着時刻は、各方面とも未定です…』
改札口の前に持ち出されたホワイトボードが、コンコースに上ってきた大勢の人を足止めさせている。
学校帰りの学生服、近隣の工場に出入りしている大人たち、お出かけ帰りの高齢者グループ。
そんな人たちの前で、拡声器を手にした駅員が声を張り上げ、西武線だけでなくJRにも遅れが出ている。電車が来ても大変な混雑で乗車できない場合もある、と悲痛な声で知らせていた。
じゃあ、どうしたらいいの?これから大事な用があるのに…そんなことを駅員に訴えるのは、足止めを食らった人のうちほんの一握りで、殆どの乗客は驚くほどあっさりと自分の運命を受け入れ、学校や職場に戻るか、近くの店で時間を潰そうと階段を降りていってしまう。
そうして電車に乗りたい人がやってきては、ため息をついて去っていく。吐いた息がいつまでも白く漂っている改札前で立ち尽くしているのは、憑りつかれたように携帯電話をいじっている年配の女性と電車の運行情報を流している電光掲示板を遠い眼差しで見上げている男子学生、そして青白い顔をした私の三人だけだった。
さぁ、どうしよう。家に帰れない。学校に戻る体力もない。家族の助けも望めない…琴から安否確認のメールがあったけれど、向こうも所沢の先で運転見合わせに巻き込まれているらしい。
このまま凍えてしまうのか。せめてホームズパンに寄って何か買っておくべきだった…そんなことを考えているうち、ふと閃いた。
夏休みの図書室当番、ホームの待合室でパンをかじりながらやった打ち合わせ…あの時、冷房が効いていたんだから、大雪の今日は暖房が掛かっているんじゃない?
そうだ、あそこならきっと体を温められる、そう思って改札を抜け、フラフラの足取りでホームに降りていったのが大きな間違いだった。
「へ…?」
果たしてそこには、私と同じことを閃いた老若男女が押し寄せ、決して広くない透明な箱の中を満員電車並みのすし詰め状態にしていた。
確かに暖かいだろう。コートで着ぶくれしているうえ、次々と新たな乗客が訪れ、僅かな隙間に割り込んでくるのだから。吹き込んだ雪が屋根の下まで積もっているホームとはまるで別世界だ。
でもそんな所に乗り込んで、子猫みたいに潜り込む愛嬌もふてぶてしさも心の余裕も、今の私は持ち合わせていない。いっそ吹きさらしのベンチに座って凍えた方が楽かも、と思ってしまう心境だ。
もう駄目かもしれない…最後の気力をため息で吐き出しながら、ぼんやりと霞んで見えるもう一本のホームに目をやる。その時だった。
「……」
追い詰められた人間を立ち直らせるには、励ましの声を掛けるより、もっと追い詰められている人間を見せるのが一番だ。手を貸してあげなきゃ、と突っ伏した心が立ち上がるから。
誰が言ったのか知らないが、そこに見覚えのある人影を見つけた私は、失いかけていた気力を取り戻してコンコースに上る階段に取って返し、白い息をもくもくと吐きながらもう一本のホームに降り立った。そこで公園に設置されたオブジェみたいにベンチに腰かけている大きな人影の前に立つと、何年ぶりかで再会を果たしたみたいな声で呼びかけた。
「テンドウ…」
どうして…お母さんと一緒に帰ったんじゃなかったの?
そう思ったのは、ほんの一瞬だった。それより、彼の様子がただごとでないと知った私は、返事を待つことなく隣に腰かけ、氷のように冷え切った手を取って、魂が抜けたみたいな横顔を覗いた。
「どうしたんだ…リン?」
テンドウは、自分がどんな状況にいて、どれだけ危なっかしい状態にあるか、まったく分かっていない様子で振り向いた。心優しい、落ちぶれた王朝貴族そのままの佇まいで。
「…そんなことしたら学校のみんなに誤解されるだろう。あいつ、性懲りもなくよくやるよって」
「関係ない…笑う子がいたら、私がぶっ飛ばしてやる」
「何言って…」
言い終わらぬうち、冷え切った体にピタリと寄り添い、彼の掌を両手で包んでいた。
一体、何処でスイッチが入ったのだろう。雪の中で振り返った顔に弱々しく微笑まれたら、恥ずかしいとか、誰かに見られてないだろうかとか、そんなことを考えるより先に体が反応した。待合室に潜り込む子猫より大胆に、テンドウの懐に忍び込んで、湯たんぽみたいに丸くなった。
四つの方向から次々と電車がやってきて、大勢の乗客を乗り降りさせ、それぞれの行く先に向けて発車していく。普段、人影の絶えないホームが、しんと静まり返っている。降り注ぐ雪は、電車の行き来が途絶えた線路を覆い隠し、ホームの端まで白く染めている。街の気配も建物の輪郭も、濃厚なミルクみたいな靄の向こうに遠ざけられ、二本のホームが取り残されたみたいにぽつんと浮かんでいる。
こんな切羽詰まった状況で、なお横殴りの雪に見舞われているというのに、どういう訳か私は、とても暖かく満たされた気分で彼の話を聞いていた。
「参ったなぁ…学校から怒られたばかりなのに。あなたは人を好きになる資格がない。一生、人の好意を踏みにじって生きていくんだって言われたのに…」
「それ…ゆずさんに?」
「うん。病院にお見舞いに行った時…」
そこに深く、重い傷があると感じて、恐る恐る聞いてみる。これまでだったら、触れたらいけない、じっと見守っていようと思ったに違いない。でも、ここで踏み出さないと…天道翔の何もかもを受け止める覚悟で問いかけた。
彼は、ずっと微笑みながら、里中ゆずから受け取った手紙のことを話してくれた。見舞いに行ったものの面会を断られ、帰り際に彼女の母親から差し出されたものを。
「…あなたは何も持っていない。たくさんの友達に囲まれているのも、次々と新しい恋人ができるのも、どれもお父さんとお母さんに与えられたもので、自分で手にしたもの一つもないじゃない?だから、失ったものの悲しみが分からないんだ。これからだって、どんなひどいことをしても、涼しい顔をして生きていくに違いない。そんなあなたから、きっとみんな離れていく。呆れて、失望して、見捨てられて、最後にきっと一人ぽっちなる。寂しい人生を生きていくんだ…」
もし誰かに自分の欠点を突かれても、反論できるならいい。心を潰されずに済むから。
でも、一つの逃げ道もなく、突き付けられた刃をただ受けるだったら…もう笑うしかないのかもしれない。どうしようもない自分に呆れて、息が絶えるのを待つだけ…。
実際、話し終えても、テンドウは笑っていた。すごいな、あの子。俺のことをちゃんと見ている…ゆずの指摘に感心し、自分にひたすらため息をついている。
きっと、一緒に面談を受けたお母さんにも、同じ類のことを言われたのだろう。一番寄り添ってほしいこの時に、ゆずが予言したとおり、一人ぽっちになっている。雪が降りしきるホームのベンチにうずくまり、凍えるような空気に身を任せているのだから。
その姿を目にして、私の中で、最後まで掛かっていた鍵が外れ、開かずの扉が開いた。
天道翔は、本当に里中ゆずが言ったとおりの人間だろうか。自分の力で手にしたものが一つもない。最後に一人ぽっちになる?…その話に誰かが反対の声を上げなければ。私の他に誰がいるだろう、そう思ったら告げていた。
「違うよ。テンドウは誰よりもやさしくて、苦しいことに向き合っている。いつも怠けているけど、夢中になったらとことん打ち込むし、素晴らしい才能だって持っている。世界中の誰も知らなくても私だけはちゃんと見ているから、これからも学校に行ってほしい。今までみたいにみんなに笑いかけて、素敵な人と出会って幸せな人生を送ってほしい…」
気がつくと、大きな掌が幼子みたいに震えて、私の小さな手につかまっている。これを逃したら底なしの暗闇に落ちてしまうと分かっているように、ギュッと掴んで放さない。
「ありがとう。リンに会えて、本当に良かった…」
その声が雪の中に消えていくとともに、私にしがみついている彼の手から少しずつ力が抜けていく。やがて、触れたら壊れてしまいそうな小さな小さな寝息が聞こえてきた。
「…テンドウ?」
まるで安住の地に辿り着いたみたいにすやすやと眠っている。可愛くて愛しい彼の寝顔を覗きながら、ふと、天道翔という不思議な縁で結ばれた男の子のことを考えた。
「……」
何度呼び掛けても、彼は他の女の子ばかり見ていて、こちらに振り向いてくれなかった。ずっと一番近い所で見つめてきたのに、最後まで友達のまま来てしまった。そもそも、自分の気持ちに気づかなかった私がいけないのだが…。
それでも、ここで二人の関わりを終わりにしてしまうのは堪えられない、と思った。入院したら、もう二度と会えないかもしれない。そう思うと、とても身勝手な気持ちが湧いて、私の心を無理やり前に踏み出させた。
テンドウ…。
私は、どうしようもない大馬鹿だ。あんなにたくさんチャンスがあったのに、きみの心を手に入れられなかったなんて…最後の最後で一番大切なものに気づくなんて、頭が悪いにも程がある。こんな悔しい気持ちを抱えてさよならするなんて嫌だ。せめて、きみが知らないうちに、きみの心のかけらを盗む。こっそり胸にしまって、残りの人生を生きていく。だから、許して…。
そう告げて、こんな吹雪の日にもそよ風が吹いている寝顔に顔を近づけ、そのまま重ねた。テンドウの体温を、感触を焼き付けるように、何度も、何度もキスをした。
「……」
我ながら、とんでもないことをしている。女の子が眠っている隙に悪戯をする下劣な男子顔負けの所業だ。きっと、天国にいるお母さんが泣いているだろう。
それでも、止めることができなかった。一度、堰を切った水は、すべて吐き出すまで止まらない。やがて目の前のホームに電車が滑り込んできて、満員の車内から大勢の乗客に見られたけれど、それでもテンドウにくっついていた。さすがにキスするのはやめたが、だらんと垂らした腕をマフラー代わりに首に巻いて、大きな体に身をくるめた。
好きだよ。ずっと見ていた、いつまでも喧嘩していたかった…。
何本もの電車が停まり、その度に車内の乗客が私たちを見て目を丸くしたが…針のように痛い吹雪が容赦なく体に吹きかけたが、暖かくて心地よくて、身も心も解けていくようで平気だった。
テンドウを、私の中に刻みつけた。
次の日、降り積もった雪が、通学路から校門の前、中庭に生々しく残っている学校に行って、休学届を出した。
校長先生と担任の大船先生に、病気が再発したこと、年明けから入院生活に入ることを報告すると、待っているから、しっかり治して戻ってきなさい、と言われ、初めて胸が熱くなった。
もう慣れている、自分は平気だ、と思っていたけれど…。
私は、この学校とみんなにさよならして、またあの世界に閉じ込められる。そう考えたら急に名残惜しくなり、祖母に断って、一人で学校の中をあちこち回った。教室や図書室はもちろん、見慣れた献立表が並んだ学生食堂やホームズパンが店を開けていた購買部、渡り廊下に並んだ自動販売機や附属中学生が使う外階段。そこに立つだけで様々な光景が浮かんでくるものを前にして、胸に刻み付けるように、深く深く息を吸った。
大丈夫、ここで過ごしたことは決して忘れない…そう思って、校門を後にした。
お正月が過ぎて、新学期が始まる前の日、私は、都内の御茶ノ水という駅の前にある病院に入院した。
二年前、病気が発症して入院したのと同じ建物の同じ階の個室。足元に神田川が流れ、公開空地と散策路には街路樹がふんだんに植えられていて、東京のど真ん中にしてはなかなかの環境だ。きっと、快適な闘病ライフを送れるだろう。
などと駅に降りた時、考えてみたが、いざ入院生活が始まるとそんなことになる筈もなく、毎日が検査と投薬治療、それに病室で安静に過ごすことの繰返しで、何処にも楽しいことが転がっていない。いや、おおよそこんな日々が続くのだろう、と過去の経験から知っていたから、驚いたり、戸惑うことはなかった。
でも、一つだけ…。
ほんの一年足らずだったけど、とびきり楽しくて、たくさんの出来事があった、思い出すだけで眩しい高校生活を経験したのが誤算だった。外の世界を何も知らずに入院していればよかったのに、一たびそこに足を踏み入れ、普通の女子高生をしてしまったらもう駄目だった。
つまらない。楽しいことが一つもない。何も起きないまま一日が過ぎていく。
一体、何処で間違ったんだろう。どうして、私だけこんな目に遭うの?
心の中で問いかけても、誰も答えてくれない。
私一人を取り残して、窓の外の時間がどんどん進んで行く。
ベッドの中から、いつまでも雲の行方を見つめていた。
それから私の中で、時間の経過というものがピタリと止まった。
毎朝、病院のベッドで目を覚まし、小さな窓から空模様を覗いて、朝食を採って薬を飲んで、午前中の検診を受け、午後になると祖母が訪れ、着替えと洗濯物を交換して、夕食を済ますと病室で一人ぽっちになる…毎日、その繰り返しだ。
体の具合は、このタイミングを待っていたみたいに悪くなった。病棟内を歩くことはおろか、ベッドで体を起こすことも辛い日が何日も続き、再発した病気が確実に進んでいることを私に知らせた。調子が戻るのは一週間に一日くらいで、今日は散策路を歩いてみたら、と看護師さんに薦められたが、またいつ眩暈に襲われて倒れるかも知れないと思うと恐ろしくて、外に出ることができなかった。
何日経っても出口が見えない。まるで灯りのない真っ暗な夜道をあてどなく歩くみたいに、どんなに進んでも同じ場所でさまよっている。一歩先に踏み出した途端、底なしの暗闇に堕ちていく、そんな恐怖に怯えながら、一週間、二週間と過ぎていった。
ところが、世の中には物好きな人がいるものだ。わざわざこんな所に足を運んで、先行きの見えない病人のために貴重な時間を使おうというのだから、その知らせを受け取った時、驚きと呆れと感謝の気持ちがいっぺんに込みあがった。
まるで春みたいに日差しが眩しい一月最後の土曜日、私の体調がいつになくいい日に奏と千沙が見舞いに来た。二人とも新学期が始まって、私が休学になったこと、病気治療のため入院し、退院まで半年以上掛かると聞いてびっくり仰天し、以降、雨あられのメールを送ってきた。その返信で、これまで黙っていたこちらの事情を打ち明け、何も言わずにいなくなったことをお詫びした。
だから顔を合わせても、もう何も話すことがない。懐かしい話をして終わりだ、と思っていたのだが、
「一つだけ言っていい?リン、あんたひどいね。こんな大切なことを言わずにいなくなるなんて、なめるにもほどがある」
と開口一番、奏に思い切り怒られた。
「そうだよ。友達なんだから、これからはつらいことがあったら何でも言って。何もできなくても、みんな受け止めるから」
千沙には腕にしがみつかれ、涙顔で訴えられた。
確かに、そうだと思った。友達というものを私はなめていた。重たい事情を抱えた自分は、彼女たちのような普通の子に何もかもさらして付き合えない。打ち明けたら気持ちが引いてしまうだろう、そう考えて、無意識のうちに距離を取っていた。
だが、二人はあくまで普通の友達として私と付き合い、事情を聞いても気持ちが引くことはなかった。かえって私の甘ったれた根性を揺さぶり、叩きなおしてくれた。
おかげで、ずっと飲み込んでいた話を口にすることができた。
「今まで言わなかったけど…私、本当は十七歳なんだ。中三の時も一年休んだから、二人の一個年上になる。今度、また留年するから、戻ったら一学年下になる。お姉さんなのに後輩になるけど、また付き合ってくれる?」
そう言った途端、また奏に叱られ、千沙に泣きつかれた。二人の姿に私も熱いものが込みあげ、入院して初めて涙を流した。三人揃って気が済むまでわんわん泣いて、駆けつけた看護師さんに怒られてしまった。
それから取り留めもない話をしてそろそろ帰る感じになったところで、聞きにくいけれど、どうしても確かめておきたいことを口にした。
「あの、天道くんのことなんだけど…停学処分になったって本当?」
先日、琴から聞いて、色々な意味で胸を騒がせた話だった。里中ゆずの一件で、その相手だった彼に学校からどんな処分があるのか、最悪の結果を考えると夜も眠れなかった。
果たして、迷子の子供みたいな顔をしている私に、奏が、分かってる、ちゃんと教えてあげるから、という顔で答えてくれた。
「あいつはいるよ。二月になったら戻ってくるって、大船先生が言っていた」
「本当に?それで、済んだんだよね」
「大丈夫。今までだって、何だかんだでピンチを切り抜けてきたんだから。リンが戻る頃には、きっと憎たらしい先輩になっている」
そうして、何もかも事情を飲み込んだ顔で、ぽん、と私の肩を叩く。
それを聞いて胸のつかえが一つ取れた。テンドウは学校を辞めてない。これからも王朝貴族オーラを放って、次々と彼女を作っていくだろう。そこに自分がいないないのは残念だったが、彼が無事なことを聞いて、とても救われた気持ちになった。
「じゃあ、約束したからね」
別れ際、見送りに行ったエレベーターホールで千沙に手を取られ、念押しされた。
「分かった。早く治して、タルトを食べに国分寺に行く」
病気を治すにはモチベーションが必要だろう、ということになって、復帰した初日に三人で寄り道する約束をした。何があっても繋がっている…私だけでなく、奏にも千沙にも必要なものだったのかもしれない。
最後にそんなことをしたものだから、胸がいっぱいになり、つい油断してしまった。
「……」
よかった。二人と友達でいられて…テンドウが学校を辞めないで済んで。
もう何もいらない。私はとても幸せだ…。
最後の一瞬まで手を振る二人の姿が、エレベーター扉の向こう側に消える。華やいだお喋りがピタッと途切れ、病院独特の匂いと静けさが再び周りに立ち上がると私は、生気を使い果たしたみたいにペタリと床に座り込んだ。
次の日から容態が悪化し、三日間、ベッドから起き上がれなかった。精密検査を受けた結果、私に残された時間はあと一年。病気が慢性から急性に変わって、予断を許さない状態になった、と担当の先生から知らされた。病院の外は日増しに明るい時間が長くなり、春に向かって一歩ずつ進んでいるというのに、ベッドに伏せている私には一筋の光も差さない。奏と千沙が乗っていったあのエレベーターの扉が私の前で開くことは永遠にない。
今まで味わったことがない絶望感が濁流のように胸に押し寄せ、何日も起き上がることができなかった。あきらめるな、希望を持て…。
どんなに言い聞かせても鼓動が治まらず、消毒液の匂いのするシーツに顔を埋めていた。
それから嵐に飲み込まれたような日々が何か月も続いた。私にでなく、闘病生活を支えてくれる家族に。
ちょっと穿った言い方をすれば、病人の当事者は呑気なものだ。何を言っても許されるし反論もされない。感じたことをそのまま口にして、憂さを晴らし、周りの人を振り回していればいいのだから。
一方、家族はたまったものではない。何を言われても、ひどい態度を取られても、私を見捨てられないのだ。鋭利な刃物みたいな私の言葉を素手で受け止めるしかないのだから。
父はいつも弱々しい笑みを浮かべて私の話を聞き、祖母は涙目で、大丈夫、貴方はきっと立ち直る、と言って私を励ました。琴は無言で衣類の交換と買い物をこなし、二年ぶりに会った叔父と年下の従妹は、こんな時だけ来てもらっても何の足しにもならない、二度と顔を見せるな、と私に追い返されてしまった。
もう手の施しようがない。体より先に気持ちが壊れてしまった。
未来を持たない者にとって、情けや希望は暴力にしかならない。どんなにやさしく接してもらっても、心が尖っていく。周りの人たちの言葉が私を傷つけ、どうして余計なことをするの、もうすぐ消えてしまう人間を助けても無駄なのに、と暴言を吐かせる。それを受けた家族が私の肩を抱きしめると、さらにつらくなって跳ねのける。どうしたらこの子を救えるのか、と途方に暮れた顔にさせる。誰が見ても負のスパイラル、悪循環の繰返しで、重苦しい空気が病室に充満した。
四月になり、桜の花びらが窓の外に舞い、温かな日差しに誘われた入院患者や外来診療を受けた子供たちが、公開空地の庭園や散策路に繰り出すようになった。三十キロほど離れた東京郊外の高校では、私の同級生だった子たちが二年生になり、新しい友達と新しい先生に出会って、新しい毎日を送っているだろう。
世の中すべてが新しい年度を迎え、そこで暮らす人々を次のステージに上げていく。小学生も中学生も、大学生も新社会人も、皆一様に人生のコマを進めている。
世の中がそんなことになっている時、私は病室のベッドに座り、うつろな目で窓の外を眺めたり、布団にくるまってまどろんだりしていた。奏と千沙から、またお見舞いに行きたい、と何度もメールがあったが、体調が悪いから、などと理由を付けてすべて断った。
もう家族に当たり散らすことはない。そんな気力も体力も尽きたから、というのもあったが、何をしても周りの状況が変わらないと知るとそれに抵抗するのが馬鹿らしくなり、魂が抜けたみたいに残された時間を呆然と送っていた。
自分に未来がある、なんてことをきれいに忘れていた。
気象庁が梅雨入り宣言して三週目、昨夜からの南風に乗って暖かく湿った空気が関東地方に流れ込み、近年頻発している線状降水帯というのが私が入院している病院周辺を襲った。一時間に120ミリの記録的な降水量。どす黒い雲から溢れでた雨粒がコンクリートの建物を打ち砕くような威力で叩きつけ、辺り一帯を霧の海に沈めていく。
そんな光景を私は、成仏できない幽霊みたいに病室の窓から覗いていた。神田川の水量が氾濫危険水域に達しようと、中央線が落雷で不通になろうと知ったことではない。都心にいる何百万という人が途方に暮れても何の関係もない。そんな不謹慎な気持ちに陥っている最中のことだ。ふと、彼はどうしているだろう、と思った。あの怠け者のことだから、クラスメートの女の子に泣きついて中間テストをギリギリの点で潜り抜けたのだろう。ありがとう、きみって本当にやさしいね、なんてセリフを吐いているに違いない。その姿を想像すると、体に溜まった毒を吐き出すように久しぶりに笑みが零れた。
人生、何が起こるか分からない。社会で活躍している人にはもちろん、こんな余命幾ばくもない私にも思いがけない出来事が待っているのだから。最後まで油断するな、終わるまで終わっていない、ということだ。
琴に促されて、全身ずぶ濡れ、ヨレヨレのワイシャツ姿のテンドウが病室に入ってきたのは、私の顔からまだ笑みが消えていないうちだった。
「帰りの電車で座ったらつい眠っちゃって。気が付いたら電車が止まっていて、リンが入院しているのを思い出して寄ってみた…」
何故、国分寺から立川方面に乗る彼が、反対方向の御茶ノ水駅で目を覚ますのか。まさか、終点で折り返した電車にそのまま乗って都心に辿り着いてしまった?どれだけ悠長なお昼寝をしているんだ…。
自分の境遇とあまりにかけ離れた人間の登場に、私は開いた口が塞がらなかった。変わり果てたパジャマ姿を見られて恥ずかしい、と思ったが、それより何倍も強い驚きと温かな気持ちが湧いて、大きく、大きく、息を吸った。
「何しに来たの?こんな所に寄り道していると勉強遅れるよ」
そんな言葉を口にした自分に驚いた。ほんの数分前まで一筋の光も差さなかった世界に、線状降水帯を貫いて真夏の陽光が降り注いだのだから無理もない。半年振りに再会した相手に一瞬で元の呼吸を取り戻しているのだから、節操のなさに呆れかえった。
だが、油断したらいけない。相手は、あの天道翔…世界一幸運な没落王朝貴族の末裔だ。
「大丈夫。俺、もう一度、高一やっているから」
「…どういうこと?一か月の停学で済んだんじゃなかったの?」
「二月から学校に戻ったけど…期末テストがメタメタで、留年したんだ」
それからどんな言葉を掛けたか、憶えていない。非難、説教、暴言、苦言の雨あられ。一時間に180ミリ相当の言葉を彼に浴びせて、廊下を通りかかった看護士さんに部屋を覗かれてしまった。
やっぱり、テンドウはテンドウだった。せっかく、お咎めなしで学校に戻ったのに、心を入れ替えることなく生来の怠け心を発揮したらしい。私がいなくなってから一ミリも成長することなく高校一年生をリピートし、乗っていた中央線がたまたま御茶ノ水駅で停まったから、時間潰しのつもりで立ち寄ったのだという。
嘘なのか本当なのか、どうだっていい。ただ、都心上空で急速に発達した積乱雲に感謝しながら、私は一心に噛みついた。そんなことをしているとロクな人生を送れないよ。大学進学はおろか、高校卒業だって出来ない。人生、お先真っ暗だ…そう言いながら、自分も同じ境遇にあることに気づいた。留年を繰り返す親不孝者…それなら、いっそ道連れにしてやろうと思い、自虐的な言葉を掛けた。
「私も来年、高二だからさ。一緒に進級して、高校生活を楽しもうよ」
「じゃあ、リンが戻るまで俺一人で勉強するのか…」
「当たり前でしょう?何、甘ったれたことを言っているの?」
「でも…大丈夫か?」
「…どうしても分からない所があったらお見舞いに来なさい。教えてあげるから」
それを聞いて安堵のため息をついている。女子のハートを虜にするイケメンが、こんなチビで地味で余命幾ばくもない子を誰よりも頼りにしているのだから、呆れて笑えて、胸が熱くなった。ふと、体の一番深い所に沈めていた気持ちがプカリと浮かんで、大げさな仕草で喜んでいる姿を遠い眼差しで見つめていた。
「……」
毎日悲嘆に暮れて、家族に怒りをぶつけていた私が、彼と顔を合わせただけで失ったものを取り戻している。一年前にタイムスリップしたみたいにどうしようもない話をしているのだから笑ってしまう。
みんなテンドウのせいだ。彼と関わったために、私の高校生活は想像したものとずいぶん違うものになってしまった。図書委員の仕事を一つも覚えない姿にイライラしたのも、ため息をつきながらテスト勉強を見たのも、校門の前で堪忍袋の緒が切れたのも、胸を高鳴らせて名前を呼び捨てにしたのも、プレゼンの練習で宝物のような時間を送ったのも、大雪に見舞われた日に恋愛というものに足を踏み入れたのも…テンドウがいなかったら私は、病気のことを誰にも告げず消えていただろう。残された時間を静かに過ごしたに違いない。
でも…もう無理だった。彼と出会い、抱えきれない時間を一緒に過ごして、なお、先行きを断たれた中で再会してしまったら…願ってはいけない、と思っていたものを抑えることができなくなった。
手に入らないと分かっていても…どんなに迷惑を掛けても…。
学校に戻って、もう一度テンドウの前に立ちたい…。
一瞬でいいから、彼の心を手に入れたい…。
天道翔という男の子の中に、林田鈴という女の子を残したい…。
ただ一つの願いが、目に見える景色、取り巻いた世界を変えていく。行きつく先は何も変わらないのに、目の前に別の人生が現れたみたいに、私は大きく息を吐き、そして静かに吸い込んだ。
「じゃあね。絶対、学校に戻るから、ちゃんと勉強して二年生になるんだよ」
「お前こそ、ちゃんと治してから戻ってこい。先生や看護師さんを困らすな」
「うるさい。さっさと帰れ…」
高原の湖みたいに澄んだ瞳を揺らして、まっすぐに見つめてくる。まるで世界で一番愛しい人を見つけたみたいに、私のことをじっと見据えて立ち去ろうとしない…これ以上一緒にいたら、いつかみたいに変態行為に及びそうなので、疫病神を追い払う要領で大きな背中を病室から追い出した。入れ違いに入ってきた祖母に、たった今閃いたことを打ち明けた。一生のお願い、と付け加えて。
祖母は、ベッドから身を乗り出した私を見つめて、分かった、と言ってくれた。一時退院のこと、今後の治療方針のこと、すべてこちらで手配するから、あなたは体力を戻すことだけ考えなさい…私の手を取って、涙を浮かべながら頷いた。いつも冷静沈着、厳格な人なのに、こんな無茶苦茶な話を全力で後押ししてくれるのだから、全くもってイカれている。それほど、私という人間が追い詰められているということか。一生のお願いというものは、かくも人の判断を狂わせてしまうものなのか。
それから瞬く間に半月が過ぎた。
時間というものは、一度行く先を定めると目に見えて動き出す。担当医師に一週間の外出願いを出して、今後の治療方法を話し合う。同時に、体力を取り戻すため、病院の公開空地や散策路をリハビリするみたいに歩き回る。本当にそんなことができるのか、とても不安だったが、私の体は、今までが仮病だったみたいに日を追うごとに軽くなった。体の奥から得体の知れない力が湧いてくるのが、手に取るように感じられた。
「これなら、何とか大丈夫でしょう」
無事、担当医師からお墨付きをもらった所で、私の計画は、また一歩前に進んだ。
待ってろ、テンドウ…そうして医師に背を向け、こっそりガッツポーズをしている時だった。
「何かいいことがあったの?ありえないくらい元気になっているけど…」
後ろから思いがけない言葉を掛けられた私は、何も考えず振り返り、医師に向かってありのまま答えていた。
「はい。仲のいい友達が留年したんです」
私に生きる力を与えてくれる人が、この世に一人だけいる。意志が弱くて、努力するのが嫌いで、すぐに人に頼ろうとする。どうしようもない愚図だけど、とびきり素敵な王子様が。
凪さんと学校の最寄駅から西武新宿ゆきの電車に飛び乗った日、私たちは携帯のアドレスを交換した。同じ男子を取り合ったライバル同士…いやいや、天道翔というとても面倒くさい奴と関わった女の子同士、私たちはとても気が合って、以来、折に触れて、勉強のこと、学校行事のことなど、お互いの近況を伝え合う間柄になっていた。
もちろん、病気療養のために休学したことも、入院が長引いて留年になったこともそのまま打ち明け、彼女から心に寄り添う温かい言葉をもらっていた(私に残された時間のことだけは黙っていたが…)。
そして半年ぶりに学校を訪れる前の日、凪さんにテンドウへの気持ちを伝えた私は、最後に背中を押してもらいたくて思い切って尋ねた。
『欲しいものは欲しいって言っていいんだよ…あの時、凪さんからもらった言葉をずっと胸にしまってた。信じたいけど、信じきれなくて、くずくずと足踏みしてたんだ。だって、こんな病気に罹って、いつ学校に戻れるか分からない子に言われても困るでしょう?もし、うまくいっても、まともに付き合うことができないんだから、迷惑ばかり掛けて何もしてあげられない。そんなのずるい。わがままだって思ったんだ。それでも…私のことを見てほしいって思うのはいけないのかな…』
すると凪さんは、こんな返信を送ってくれた。
『私も、同じことを考えてぐすぐすしてた。彼は、手の届かない存在だったから。私なんかにはもったいないくらいやさしい人だから。でもね、高校受験する時に塾の先生から聞いた話を思い出して決心したんだ。第一志望の学校に落ちて、投げ出そうとしていた私をもう一度、奮い立たせてくれた話。おかげで彼と付き合うことができたし、リンちゃんと友達になれた。一生、忘れられない言葉だよ』
それはこんな話だった。
アメリカのプロ野球・メジャーリーグの頂点は、世界一決定戦であるワールドシリーズの勝利チームだ。そのワールドシリーズには、アメリカンリーグとナショナルリーグのどちらかで優勝しないと出られない。
それぞれのリーグで優勝するには、優勝決定トーナメントへの進出が必要だ。出場資格は、三つある地区の一位チーム。それと地区に関係なく一番勝率が高かった二位チームに最後の挑戦権が与えられる。
その挑戦権の名前はワイルドカード。トーナメントの出場チーム中、一番冴えない成績だが、遥か先に世界一になる道が開かれている。
『きみにはまだチャンスがある。でも、待っていてもワイルドカードは届かない。自分から取りにいかないと!』
久しぶりに制服に袖を通したその日、私は、懐かしい黄色い電車に乗って学校の最寄り駅に降り立ち、改札口を抜けて、ホームズパンとお団子屋の前を通り、江戸時代に造られた用水路を渡って校門の前に辿り着いた。
梅雨が明けたばかりの暑い日だった。若々しい陽光が校舎や中庭、桜並木に差して、鮮やかな風景を描いている。一歩踏み出すごとに生命の匂いが鼻を突いて、弱った体にエネルギーを注いでくれる…また元の生活に戻れる、学校に通う毎日が始まるんだ、そんな妄想がもこもこと膨らんだ。
「じゃあ、あとでね」
校長先生と大船先生に挨拶し、二年生の教室から駆けつけてくれた奏と千沙に国分寺ゆきの件を告げると、大きく息を吸い込んで身をひるがえす。もう迷うことはない、と鼻息を荒くして廊下に踏み出そうとしたら、後ろから追いかけてきた二人に抱きつかれた。
「なになに、どうかした?」
また何かやらかしたか…鼓動を激しくしていると、
「別に…」
「そうだよ。何でもない」
何て言いながら、奏がポンポンと私の頭を撫で、千沙がすりすりと背中をさする。
いかにも、という感じで送られたエールにどんな意味があるか、普段の私なら理解できなかっただろう。でも、この時は、ニヤニヤしている顔を見たら分かってしまった。
『がんばれ、リン。ぐうたらイケメンに女の子の根性を見せてやれ…』
これまで、テンドウに振り回される私をからかっているだけかと思ったが、奏も千沙もちゃんと見抜いていた。ある意味、私より先に林田鈴の本心に気づいて、見守っていてくれたのだ。
そんなことをされたものだから、私の頭もネジが一本外れた状態になってしまったのかもしれない。
「行ってきます…」
奏と千沙と別れ、ここまで付き添ってくれた父と祖母にそう言って、一年生の教室が並ぶ二階に向かう。ここから先は、さすがに家族同伴という訳にはいかない。どんなにつらくても一人で行かなければ…と気合を入れて背中を向けたが、やっぱり伝えておくべきだと思って、もう一度父と祖母に向き直って、二人の懐に飛び込んだ。
今まで、いっぱいありがとう。ひどいこと、悪いこと、たくさんしてごめんね…。
口に出したら泣いてしまうので、何も言わず、ただギュウッと抱きしめて、二人に想いを伝えた。何だかお嫁に行く娘みたいだな、最後に父が漏らした言葉に三人で大笑いしてしまった。
そうして、覚悟を決めて天道翔がいる一年A組の教室に乗り込み、教壇側の扉から場違いな王朝貴族オーラを放っている姿を捜したが…どんなに目を凝らしても彼を見つけられない。おかしい、クラスを間違ったか、なんて思いながら声を掛けてくれた子に聞いたら、意外な答えが返ってきた。
「天道くんはここにいないです。多分、外で時間を潰してる…」
真夏の昼休みに何故?またもやテンドウの行動に首を傾げながら、まるで責任を感じているように縮こまっているその子を目にしてふと思った。
もしかして…いや、やっぱり。
「あの。天道くんって、今、付き合っている子とかいるのかな?」
それを聞いた途端、彼女が泣き崩れたものだから、慌てて抱き留めた。私と同じくらい華奢な体。でも私と正反対の華やいだ雰囲気、男子受けしそうな可愛い仕草。いかにもアイツ好みの子を前にして、ごくりと唾を飲みこんだ。
果たして、彼女は私に告げた。
「私…昨日、振られたんです。悪いけど、きみとは付き合えないって言われて…」
そう言うと、向けようのない気持ちが込み上げたのか、また泣きじゃくる。初対面の子を慰めている自分に空しいため息をついた。
つまりテンドウは、相変わらず女の子を取っ換え引っ換えしながら高校生活を謳歌していて、彼女も昨日、短い交際期間の終わりを告げられて失恋の痛みを噛みしめている、ということだ。元カノが悲嘆に暮れている最中、彼の方は新しい彼女と思い浮かべるだけで恥ずかしい構図でイチャイチャしているに違いない。
これまで何度も繰り返されてきた展開をまたも目撃した私は、呆れと絶望のため息をついて彼女と別れ、弱々しい足取りで玄関に向かった。
「……」
やっぱりテンドウはテンドウだった。一か月の停学が解けてもう一度、高校一年生になってもやっていることは同じ。休学して、入院して、やっと一時退院した私が割って入る余地なんてこれっぽっちもない。うすうす分かっていたことだけれど、事実を突きつけられるとやっぱり体中の力が抜けた。こんな清々しい気持ちで乗り込んだのに、自分の能天気ぶり、おめでたい性格が悲しくなった。
さて、どうしよう。人生の最後でとてつもなく高い壁が目の前に現れた。このまま家に帰って泣こうか、とも思ったが…せっかくだからぶつかってみよう。せめて戦いを挑んで泣こう、そう決心して玄関に辿り着いた。そこで待っていた琴にギュッと抱きしめられ、やはりポンポンと背中を叩かれて外に押し出された。
「…何?」
振り返ると、いつも姉をおちょくり、驚愕の事実を知らせて、煮え切らない気持ちに喝を入れてくれる妹が、晴れやかな顔で言った。
「行っておいで。外階段の下にいる」
「うん…」
「ファイトだ!スズ姉」
心強い言葉。でも、何か企んでいるような眼差しに送り出されて中庭を通り抜け、附属中学生が使う外階段の下に辿り着いた。