どうして…お母さんと一緒に帰ったんじゃなかったの?

そう思ったのは、ほんの一瞬だった。それより、彼の様子がただごとでないと知った私は、返事を待つことなく隣に腰かけ、氷のように冷え切った手を取って、魂が抜けたみたいな横顔を覗いた。

「どうしたんだ…リン?」

テンドウは、自分がどんな状況にいて、どれだけ危なっかしい状態にあるか、まったく分かっていない様子で振り向いた。心優しい、落ちぶれた王朝貴族そのままの佇まいで。

「…そんなことしたら学校のみんなに誤解されるだろう。あいつ、性懲りもなくよくやるよって」

「関係ない…笑う子がいたら、私がぶっ飛ばしてやる」

「何言って…」

 言い終わらぬうち、冷え切った体にピタリと寄り添い、彼の掌を両手で包んでいた。

一体、何処でスイッチが入ったのだろう。雪の中で振り返った顔に弱々しく微笑まれたら、恥ずかしいとか、誰かに見られてないだろうかとか、そんなことを考えるより先に体が反応した。待合室に潜り込む子猫より大胆に、テンドウの懐に忍び込んで、湯たんぽみたいに丸くなった。

 四つの方向から次々と電車がやってきて、大勢の乗客を乗り降りさせ、それぞれの行く先に向けて発車していく。普段、人影の絶えないホームが、しんと静まり返っている。降り注ぐ雪は、電車の行き来が途絶えた線路を覆い隠し、ホームの端まで白く染めている。街の気配も建物の輪郭も、濃厚なミルクみたいな靄の向こうに遠ざけられ、二本のホームが取り残されたみたいにぽつんと浮かんでいる。

 こんな切羽詰まった状況で、なお横殴りの雪に見舞われているというのに、どういう訳か私は、とても暖かく満たされた気分で彼の話を聞いていた。

「参ったなぁ…学校から怒られたばかりなのに。あなたは人を好きになる資格がない。一生、人の好意を踏みにじって生きていくんだって言われたのに…」

「それ…ゆずさんに?」

「うん。病院にお見舞いに行った時…」

 そこに深く、重い傷があると感じて、恐る恐る聞いてみる。これまでだったら、触れたらいけない、じっと見守っていようと思ったに違いない。でも、ここで踏み出さないと…天道翔の何もかもを受け止める覚悟で問いかけた。

 彼は、ずっと微笑みながら、里中ゆずから受け取った手紙のことを話してくれた。見舞いに行ったものの面会を断られ、帰り際に彼女の母親から差し出されたものを。

「…あなたは何も持っていない。たくさんの友達に囲まれているのも、次々と新しい恋人ができるのも、どれもお父さんとお母さんに与えられたもので、自分で手にしたもの一つもないじゃない?だから、失ったものの悲しみが分からないんだ。これからだって、どんなひどいことをしても、涼しい顔をして生きていくに違いない。そんなあなたから、きっとみんな離れていく。呆れて、失望して、見捨てられて、最後にきっと一人ぽっちなる。寂しい人生を生きていくんだ…」

 もし誰かに自分の欠点を突かれても、反論できるならいい。心を潰されずに済むから。

でも、一つの逃げ道もなく、突き付けられた刃をただ受けるだったら…もう笑うしかないのかもしれない。どうしようもない自分に呆れて、息が絶えるのを待つだけ…。

 実際、話し終えても、テンドウは笑っていた。すごいな、あの子。俺のことをちゃんと見ている…ゆずの指摘に感心し、自分にひたすらため息をついている。

 きっと、一緒に面談を受けたお母さんにも、同じ類のことを言われたのだろう。一番寄り添ってほしいこの時に、ゆずが予言したとおり、一人ぽっちになっている。雪が降りしきるホームのベンチにうずくまり、凍えるような空気に身を任せているのだから。

 その姿を目にして、私の中で、最後まで掛かっていた鍵が外れ、開かずの扉が開いた。

天道翔は、本当に里中ゆずが言ったとおりの人間だろうか。自分の力で手にしたものが一つもない。最後に一人ぽっちになる?…その話に誰かが反対の声を上げなければ。私の他に誰がいるだろう、そう思ったら告げていた。

「違うよ。テンドウは誰よりもやさしくて、苦しいことに向き合っている。いつも怠けているけど、夢中になったらとことん打ち込むし、素晴らしい才能だって持っている。世界中の誰も知らなくても私だけはちゃんと見ているから、これからも学校に行ってほしい。今までみたいにみんなに笑いかけて、素敵な人と出会って幸せな人生を送ってほしい…」

 気がつくと、大きな掌が幼子みたいに震えて、私の小さな手につかまっている。これを逃したら底なしの暗闇に落ちてしまうと分かっているように、ギュッと掴んで放さない。

「ありがとう。リンに会えて、本当に良かった…」

 その声が雪の中に消えていくとともに、私にしがみついている彼の手から少しずつ力が抜けていく。やがて、触れたら壊れてしまいそうな小さな小さな寝息が聞こえてきた。

「…テンドウ?」

 まるで安住の地に辿り着いたみたいにすやすやと眠っている。可愛くて愛しい彼の寝顔を覗きながら、ふと、天道翔という不思議な縁で結ばれた男の子のことを考えた。

「……」

 何度呼び掛けても、彼は他の女の子ばかり見ていて、こちらに振り向いてくれなかった。ずっと一番近い所で見つめてきたのに、最後まで友達のまま来てしまった。そもそも、自分の気持ちに気づかなかった私がいけないのだが…。

それでも、ここで二人の関わりを終わりにしてしまうのは堪えられない、と思った。入院したら、もう二度と会えないかもしれない。そう思うと、とても身勝手な気持ちが湧いて、私の心を無理やり前に踏み出させた。

テンドウ…。

私は、どうしようもない大馬鹿だ。あんなにたくさんチャンスがあったのに、きみの心を手に入れられなかったなんて…最後の最後で一番大切なものに気づくなんて、頭が悪いにも程がある。こんな悔しい気持ちを抱えてさよならするなんて嫌だ。せめて、きみが知らないうちに、きみの心のかけらを盗む。こっそり胸にしまって、残りの人生を生きていく。だから、許して…。

 そう告げて、こんな吹雪の日にもそよ風が吹いている寝顔に顔を近づけ、そのまま重ねた。テンドウの体温を、感触を焼き付けるように、何度も、何度もキスをした。

「……」

 我ながら、とんでもないことをしている。女の子が眠っている隙に悪戯をする下劣な男子顔負けの所業だ。きっと、天国にいるお母さんが泣いているだろう。

 それでも、止めることができなかった。一度、堰を切った水は、すべて吐き出すまで止まらない。やがて目の前のホームに電車が滑り込んできて、満員の車内から大勢の乗客に見られたけれど、それでもテンドウにくっついていた。さすがにキスするのはやめたが、だらんと垂らした腕をマフラー代わりに首に巻いて、大きな体に身をくるめた。

 好きだよ。ずっと見ていた、いつまでも喧嘩していたかった…。

何本もの電車が停まり、その度に車内の乗客が私たちを見て目を丸くしたが…針のように痛い吹雪が容赦なく体に吹きかけたが、暖かくて心地よくて、身も心も解けていくようで平気だった。

テンドウを、私の中に刻みつけた。