「林田さん…」

 その声は、まるで瞬間移動してきたみたいに、とても近い距離から飛んできた。

「リンちゃん」

 うっかり聞き流しているともう一度、クラスメート御用達のニックネームで呼ばれる。

 でも、その声の主はクラスメートじゃない。もうすっかり遠い世界に行ってしまったけれど、忘れようのない柔らかな響き。振り返ると、やっぱり、白いマフラーを首に巻いた北川凪が微笑んでいた。

「…え?」

 人間という生き物は、危機的な状況に陥ると、驚くほどの速さで頭が回転するらしい。

 この時、私が思い浮かべたのは、どうして今になって凪さんが声を掛けてくるのだろう、というありがちな疑問ではなかった。

丁度向こう側のホームに停まっている電車が発車すると目の前に現れる光景。そこでイチャイチャしているカップルの姿をこの子に見せる訳にはいかない。何としても防がないと…。

一瞬で自分の取るべき行動を理解すると、返事をしないまま凪さんの元に駆け寄り、氷みたいに冷たい手を取って、目の前で扉を開けている西武新宿ゆきの電車の飛び乗った。

「どうしたの?おうち、川越じゃなかったっけ?」

 きっとテンドウに、私が住んでいる街を聞いたのだろう。ちなみに私も、凪さんが中野区の鷺ノ宮という所に住んでいるのをテンドウ情報で知っている。

自分が乗る電車に川越に帰る私が一緒に乗ったものだから、凪さんが驚くのも無理はない。何かある、と思われただろうか。それをごまかすため、夢中で話しかけた。

「えぇっと…せっかく声掛けてくれたから、ホームでさよならじゃ寂しいかなって」

「それで、わざわざこっちに乗ってくれたの?」

「小平とか田無で降りれば本川越ゆきに乗れるから大丈夫…」

ちなみに西武線は、この界隈で何本もの路線をとても複雑に走らせているから、違う方向に行く電車に乗っても何とでもなった。

「それより、どうしたの?進学塾があるから、すぐに帰らないといけないんじゃ…」

「それ、天道くん情報でしょう?しょうがないなぁ、何でもペラペラ話すんだから」

「あ…ごめんなさい」

 自分から切り出しておいて、凪さんとの会話がとても面倒なことに気づいた。そう、二人の共通の知り合いであるアイツがいちいち噛んでいるのだ。

 でも、元彼がひょっこり顔を出しても、凪さんは湿った感じになることも機嫌を損ねることもなく、とても柔らかな口調で答えてくれた。

「いいの、今日は行くのをやめたから。校門の所にリンちゃんがいたから、お話してみようと思ったんだ」

「…もしかして、ずっと見ていた?」

「うん。何だか思い詰めているみたいだったから、何処で声を掛けようか迷っちゃって」

 相変わらず温かな笑みを浮かべながら、恐ろしいことを口にする。

 ということは学校から最寄り駅まで、天道・里中ペアの後を付けていた私をずっと観察していたのか。

何故、川越市民が、中野区民の手を取って西武新宿行きに飛び乗ったか、その理由を知っている?

 頭を真っ白にさせている最中に急ブレーキが掛かり、車内が大きく揺れた。まるで初めて電車に乗った幼児みたいに転倒しかけた私の体に誰かの手が伸びて、支えてくれる。振り返ると、何もかも承知している風の凪さんが、ありがとう、と微笑んでいた。

「でも私、そこまで泣き虫じゃないよ。同じ学校に通っているんだから、別れた相手が違う女の子と歩いている姿を見ることもあるじゃない?もちろん平気じゃないし、いまだにチクッとくることもあるけど、仕方ないことは仕方ないし…」

 凪さんは、驚くほどさばさばとした口調で、別れた後の心境というのを語った。ほんのりと桃色に染まった頬を私に向けて。

 でも…ギュッと吊革を掴んで、夕陽に染まった街並を眺めている姿は、やっぱり傷ついている、と思った。恋愛というものは、こんなにも様々な顔を十六歳の子に与えるのか。容赦ない現実に、言いようのないため息がもれた。

 凪さんは、さらに私に向けて言った。

「ただね。同じ取られるのでも、あの子じゃなくて、リンちゃんだったらよかったのにって、ちょっと思う」

「…え?」

「天道くんはやさしい。やさしすぎる性格だから、あぁいう子を放っておけなくて、付き合おうっと思ったんだろうけど。そういう所、好きだったから、とてもよく分かるけど…」

「……」

「私、ずっと怖かったんだよ。リンちゃんと彼が一緒に図書委員をしていて、何年も付き合っている恋人同士みたいに言い合っているのを見て…絶対に勝てない。もし本気になったら、あっという間に取られちゃうんだろうなってビクビクとしていた」

 そう言って、中学生みたいな無垢な顔を私に向ける。学年有数の美人で、天道翔という有名人と付き合った子にしては、とてもあどけなく不安でいっぱいという表情で。

「……」

ずっとコンプレックスを抱いていた。自分にないものを何もかも持ち合わせているこの子に。そんな彼女の口から思いもかけない話を聞かされて、頭がクラクラする。何を言っているんだろう。見当違いが過ぎるんじゃないか、色々な疑問が渦巻く中でやっと口を開いた。

「…私は、ただの友達だよ。たまたま図書委員になって、文句を言ったり、喧嘩したり、好き勝手なことを言っているだけ。テンドウだってそう思っている。それ以上の仲になる筈ないんだから、ビクビクすることなかったのに」

 弱々しい笑みを浮かべて凪さんを見る。今となっては、どうにもならない話だけれど。

 ところが凪さんは、私に強く訴えるように、ゆっくりと首を振って言った。

「貴方の方がお似合いだと思う。私よりも、あの子よりも」

「え…?」

「リンちゃんなら、彼とうまくいく。そうなりたいって思わない?」

「……」

「どうせ私は、とか考えないで。欲しいものは欲しいって言っていいんだよ」
 まるで私の一番深い所に眠っている、自分ですら気づいていない気持ちに語り掛けるように微笑んだ。

 そこで耳をすまし、初めて自分の声を聞こうとしたのかもしれない。

 林田鈴は、天道翔とどうなりたいのだろう。

 それを促すように電車が前後左右にグラグラと揺れ、私の心を振り回した。