祖母が一人で暮らす旧家から私たちのマンションにやってくるのは、父が仕事で遅くなる日と決まっている。嫁入り前の娘たちだけで夜を過ごさせるわけにはいかない、などと昭和時代のセレブめいた気概で乗り込んで、部屋の掃除や夕飯の支度といった普段、私たちがやっていることにまで首を突っ込み、夕飯を共にして、父が帰ってくるとお暇する。つまり、とてもめんどくさい一日になる。

 だから、祖母の厳しい教えに早々に根を上げた琴は、その日が来ると決まって不意の用事ができた。部活の先輩から買い物を頼まれた、友達の勉強を見てあげていた、帰り道で苦しそうにしていたお婆さんをずっと介抱していた…次々とありえそうな理由を作って、祖母の対応を私一人に任せ、夕飯ぎりぎりの時間まで帰ってこない。一分一秒でもつらい時間を削る努力を惜しまなかった。

 そんな妹がその日、部活を終えて真っすぐ帰ってくる時間にマンションに現れたから、祖母と一緒に夕飯の支度をしていた私は驚いてキッチンからリビングを覗いた。すると、

「ふん…」

 何やら喧嘩をふっかけてくるような風情で、こっちこい、と顎で指し示す。廊下に顔を出すと、そのまま有無を言わさず私の部屋に引っ張っていき、その話を口にした。

「…へ?」

「へ、じゃない。マジで、でしょう?」

「マジで?凪さんじゃないの?」

「北川凪じゃない。うちのクラスの里中ゆずだった」

「どうして…ゆずって誰?」

 琴が知らせたのは、天道翔が手を繋いでいた女の子のことだった。それが、付き合っている彼女でなく、ありえない子と肩を寄せて歩いていたから、一大スクープとして祖母の待つ家に飛んで帰ってきた、という訳だ。

 もちろん私には寝耳に水、晴天のへきれき級の話だった。だって、テンドウの彼女は凪さん、彼女しかありえない。絶対的で不動の地位だと思っていたから…。

でも、ふと頭を巡らせると、それがもろくも揺らいでいった。図書委員のイベントで何も言わずに帰ってしまったこと。あれ以来、二人が一緒に帰るのを見たことがないこと。今日も、先に行って、とテンドウが私をさっさと帰したこと。気がつくと、北川凪の気配が天道翔の隣から消えている。

そうと知ると、琴の話が、すっと胸に入ってきた。

「だから言ったのに…」

 驚愕の事実、というのと対峙している私を、琴は目を吊り上げて非難した。

「ぼやぼやしているから他の子に取られるんだ。せっかく、何か月も一緒にいたのに…」

「何言っているの?私は一度だって、テンドウのことを好きだなんて思ったことないよ」

「そう言って観客席に居座っているから、いつまでたっても変わらないの。こんなことをしていたら、一度も試合に出ないまま終わっちゃうよ。それでいいの?」

 十六歳の小娘が人生訓みたいなことを語っている。実はうちの姉、一年遅れで高校生になったんだ…煮え切らない私を揺さぶろうとして、無断で秘密を打ち明けたのと同じスタンスだ。

 確かに、その密告のおかげで私は、テンドウと距離を縮めることかできた。そこで手に入れたものを今も、大切に胸にしまっている。

 けれど、それとテンドウの彼女の話は別だ。女子と男子の関係イコール恋人か否か、ではない。私と彼は…もっと別の部分で繋がっているのでは、と思っている。だから、

「後で泣いても知らないから…」

そう言い捨てて部屋を出ていく背中を、私は、まるでおとぎ話でを聞いているみたいにキョトンとした目で見送った。胸の中で何かが騒ぐことなんて一つもない、と思っていた。