私たちが学園祭でプレゼンする本は、ライトノベルのベストセラー小説に決まった。
大学で謎の美少女と出会った男の子が、彼女と仲良くなり付き合い始めるが、やがて相手が何年も前から男の子のことを慕っていたことが分かってくる。その目的、正体が最後まで分からないまま物語が進んでいく…。
謎に包まれたヒロインをとことん描いた長編だ。去年、映画化もされ、若い世代にとても知名度が高い。文学作品や古典を紹介するのもいいが、こっちの方がお客さんに知られていておもしろいんじゃないかな、と天道くんが推して、私も、やりがいがあるかも、と思って了承した作品だ。
私としては、何に対しても夢中になることがない彼が、珍しく前向きな気持ちで決めてくれたのが嬉しかった。この調子なら瞬く間に本を読んで夏休みに二人でじっくり研究できる。そうすれば、すばらしいプレゼンができるかもしれない。そう期待して、川越の駅ビルに入っている書店で同じ文庫本を二冊購入し、次の日、窓側の席に行って彼に渡した。
天道くんは、お気に入りの漫画を手に入れたみたいにテンションを上げて、クラスの子たちを驚かした。
「すごい。早速、今日から読むよ」
「お互い、がんばろうね」
「もちろん。リンちゃんと一緒ならやる気が湧いてくる」
二人で同じタイトルの本を掲げて、よし、とうなずく。
彼氏彼女の関係でなかろうと、周りからどう思われていようと、この瞬間、天道くんと繋がっていると思うと、やっぱり胸が熱くなる。
色々なことが頭の中を駆け巡って、ため息がもれる時もあるけれど、このイベントだけは成功させよう。学園祭本番まで、彼と力を合わせて進んで行こう、そう決めて、精一杯の言葉を掛けていた。
「私も、天道くんとなら頑張ろうって思うから、しっかり読んでくるね」
そうして健闘を誓い合ったのが六月中旬だった。
それから雨が降りつづく中、私たちは毎日のように言葉を交わし、昼休みや放課後に図書室の貸出カウンターに並んで座った。
天道くんは相変わらず友達から借りた格闘漫画に夢中で、図書委員の仕事を私に任せきりだったけれど、本読んでいる?と聞くと、もちろん順調だよ、と答えるので安心していた。窓側の席で同じ本を掲げた時のことを思い出して、よしよし、と心の中でうなずいていた。
七月に入って期末テストが近づくと、天道くんはまたも没落王朝貴族みたいな顔をして、バーコードリーダーを手にした私に泣きついてきた。
「どうしよう。英語のリスニングが最悪なんだ。あと、古文も…」
またか、中間テストであれほど痛い目にあったのに…そう思いながらも、
「じゃあ、ノート貸してあげようか?」
と私は、彼を受け止めた。最早、天道翔の術中にはまった感がなくもなかったが、学園祭イベントの大事なパートナーだから仕方ない。彼が心おきなく研究に臨めるようにできる限り協力しよう、そう思ってリスニングと古典と、あと地理と化学も見てあげた。
その結果、天道くんは期末テストで何とか落第点を逃れ、無事、夏休みを迎えることができた。
「ありがとう。リンちゃんがいなかったら、どうなっていたか分からなかった」
子犬のようにくりくりした瞳で感謝されると、への字にした口元がつい緩んでしまう。結局、彼のいいように使われているだけかも、と自分にため息をついていた。
でも、これで心配事がすべて消えた。気象庁が梅雨明け宣言したその日、私は、清々しい夏の空と同じ心持ちで黄色い電車に乗り、学校の最寄り駅に降り立った。
今日は夏休み初めての図書室当番。そして、学園祭のプレゼンに向けて作品の研究を始める日だ。
この日に向けて私は、二人で選んだライトノベルを二回読んで、印象に残った場面やキャラクター像など、自分なりに捉えた個所をレポート用紙にまとめてきた。
天道くんと互いの見解を持ち寄り、そこで見つけたポイントを並べたら、きっと研究が進むだろう。
そう思うとわくわくして、コンコースに上がる階段を跳ねるように上っていった。改札口で待ち合わせ、なんて言われた時はとても恥ずかしかったけれど、当日を迎えたら、駅ナカコンビニの前で待っていた彼に気持ちよく、おはよう、と言うことができた。
「やぁ、おはよう」
天道くんは、ファッション雑誌のモデルみたいなとびきり爽やかな笑みを浮かべて迎えてくれた。いや、いつもと変わらなかったかもしれないが、この時ばかりは、私一人のために国立の家から出掛けて改札口で待っていてくれた、としか思えなかった。
そして、いつも彼と凪さんが手を繋いでいく通学路を、天道くんと並んで歩いている時だった。毎日購買に納品しているホームズパン屋も、商店街の角のお団子屋も、江戸時代に造られた用水路も、瑞々しい景色すべてが、その言葉一つで灰色に塗りつぶされた
。
「ごめん。今日の打ち合わせ、来週に延ばしてくれないかな?」
「どうしたの。何かあった?」
「実は…まだ読み終わってなくて。もう少しなんだけど…」
「後どれくらい?」
「うん…三百ページ、くらいかな」
彼は、やはり爽やかな笑みを浮かべて頭を掻いていた。でも私は、同じ表情でその姿を見上げることができなかった。
「…どういうこと?」
あの本は、全部で四百ページ近くある大作だ。つまり天道くんは、まだ物語の序盤しか読んでいないということだ。
この作品にする、と決めてから一か月以上経っているのに… 来週まで読んでくると言われても、とてもできると思えない。そんなことを平然と言ってのけられたら、校門の前で足が止まり、一歩も動くことができなかった。
「リンちゃん…?」
下を向いて立ち尽くしている私に、さすがの天道くんも、やばい、と思ったのだろう。すぐに駆け寄って、大きな体を折り曲げて声を掛けてきた。
「本当にごめん。絶対、来週までに読んでくるから、それまで待ってくれないかな?」
「……」
「こんな大変な課題、俺一人じゃ絶対できないから。きみの力がどうしても必要なんだ」
慣れた手つきで肩に触れながら、だから行こう、と私を促した。
その場はうまくなだめられ、一緒に校舎に入ったけれど、図書室のカウンターに座り、貸出業務に就いている間も、私の気持ちは、ずっとくすぶったままだった。彼に何を言われても必要最低限の返事しかしないで、眩い光にあふれた窓の外をじっと見つめていた。
「……」
どうしてだろう。図書委員の仕事や定期テストの勉強で何度も、彼のこうした一面に接してきた。何をやっても周りの人に頼るばかりで、自分で立ち向かおうとしない。同じ失敗をしても懲りない。その度、手を差し伸べ、ピンチを救って、感謝の言葉に煙に巻かれてきたけれど…。
今度ばかりは、仕方ないなぁ、と受け流すことができなかった。俺一人じゃ絶対できない。どうしてもきみの力が必要なんだ…校門の前で言われた言葉を思い返しているうち、胸の底に沈んでいたものがむくりを起き上がり、図書室当番を終え、玄関を出たところで、無意識のうちに口にしていた。
「やっぱり駄目だ…」
「…何が?」
「今日までに読んでくるって約束したのに。当日になって、間に合わなかったって言うのはおかしい」
「どうしたの?」
「私は二回も読んで、気になる所をまとめてきたのに。天道くんからどんな感想が聞けるかすごく楽しみにしていたのに、きみのやり方は、一緒にやる相手に失礼だ…許せない」
いつもなら飲み込んでいた。思い浮かべることすらない言葉が、堰を切ったようにあふれてくる。一度出したら、もう止めようがなかった。
天道くんは、顔色を変えて答えた。
「だから、来週までに絶対読んでくるって。それまで待ってほしいって頼んだじゃないか」
「今日までたった百ページしか読んでないのに?もしできなかったら、またへらへら笑いながら、もう少しってお願いするの?そうすれば、私が待ってくれると思っている?そんなの受け入れたくない。他の子が許せても、私にはできない」
「何言ってるの?こうやって頭を下げて頼んでいるのに。まだ時間があるんだから、今日始めなくたって間に合うじゃないか。自分一人でやっているんじゃないんだから、そんな言い方をしなくてもいいだろう?」
「じゃあ天道くん、一人でできる?本の内容を研究して、プレゼンの原稿を書いて、みんなの前で発表するの」
「え…?」
「私ならできるよ。ちゃんとしたものを作る自信がある。天道くんは違うでしょう?初めから私のことを宛にして、難しいことや面倒なことをみんな任せて、自分は適当にやればいいと思っているんじゃない?」
「おい…」
「だから、私と組んでよかったって思ったんでしょう?」
「いい加減にしろよ、リン」
ついに尖った物言いをして、高い所から私を見下ろす。すさんだ眼差しと一緒に、桜の木立からあふれた蝉の音が一斉に頭の上に降ってきた。
いつも穏やかな彼がこんな表情をするんだ。何年も前に負った傷口が開いたみたいな、親とはぐれた幼子みたいな…。
何故か冷静に息を吸いながら、天道翔という男の子を見上げいていた。
蝉の音が雨のように降り注ぎ、私の目尻をじんわりと濡らしていく。そんな顔を見られたくなくて、胸に残っていた怒りをすべて彼にぶつけた。
「呼び捨てにするな!私は、あんたの彼女でも親友でもないんだから」
校門から飛び出しても、天道くんは追ってこなかった。どたどたとアスファルトを叩きながら用水路を渡っても、すさまじい形相で団子屋の角を曲がっても、つむじ風のようにホームズパン屋の前を通り過ぎても同じ。最寄り駅の階段を上った所で振り返っても、大きな体の影も形も見えない。
そうか。私のことを追う必要がない、と思ったのか…。
そっちがその気なら、こちらにも覚悟がある。とことんやってやろうじゃないか…。
私は、もう迷うことなく自動改札機にパスモを叩きつけ、階段を下りて、ホームに滑り込んできた黄色い電車に飛び乗った。冷房が効いた車内で頭の上から冷たい風を受けても、心に点火した怒りの炎が治まらない。窓ガラスにへらへらした顔を思い浮かべると、さらに強く燃え盛った。
「……」
一体、どうしてしまったんだろう。私は、こんな猛々しい人間じゃない。後先を考えず自分の気持ちを相手にぶつけるなんて、絶対にできない筈なのに…。
その理由が分かったのは、川越の自宅マンションに帰った時だった。
「どうだった?天道くんとの初デート」
「…決裂した」
「何?」
「もう二度と会わないかも」
「どうするの。学園祭で発表するんでしょう?一緒に頑張るんじゃないの?」
ニヤニヤした顔で纏わりついてきた琴を振り切って、自分の部屋に駆け込む。パタン、と扉を閉め、そこに貼り付けた紙面を目にして、あぁ、なるほど、と納得の息を吐いた。
『生まれ変わった私がつかんでいくこと』
一年前、長い入院生活を終えて家に帰ってきた時に書いた林田鈴の行動方針だ。
私は、またいつ再発するか分からない病気に罹った。せっかく元の生活に戻れたのだから、これからは悔いのないように色々なことに挑戦しよう。できることを精一杯やっていこう。そう決心して、一か月ごとに小さな目標を書き込んでいき、スゴロク形式でゴールに近づいていく、達成のための見取り図だった。
ちなみに、受験勉強に明け暮れた第一シーズンは、今通っている私立高校合格で終了した。
今は、高校入学とともに始まった第二シーズンの四コマ目で、図書委員に立候補し、クラスメートと友達になり、一学期を優秀な成績で終える。ここまでとても順調にコマを進めていた。この調子で夏休みをしっかりと過ごし、九月の学園祭に臨もうとしたところで現れたのが他でもない、天道翔だった。
模造紙に大々的に描いたこの紙面を見た琴は、開口一番、
「スズ姉、重いよ。ここには、十代女子の夢が何処にもない…」
そうぼやいて、充実した高校一年というゴールの横に「彼氏も作っている」という一文をピースマーク付きで書き足した。一応、女の子らしい丸っこい字で、要所要所に絵文字を配して可愛く仕上げたのだけれど…そう言いたくなる気持ちも分かるから、「彼氏も作っている」はそのままにしておいた。
確かに重い。オリンピック出場を目指すトップアスリートがやっている、と本で読んだことをそのまま持ち込んだのだから。泥臭くて禁欲的、意識高い系が全面に表れた代物だ。
でも…元々、こういう人間だから仕方ない。
五年前、交通事故でお母さんを亡くした私と妹は、仕事が忙しい父に代わり、母方の祖母に厳しく育てられた。
川越の町で代々続く商家の末裔で、創業者から伝えられている厳格な教育方針の体現者である彼女は、箸の持ち方から日々の過ごし方、そして学校の勉強に至るまで、それは事細かく、寸分の漏れも逃さない態度で私たちをしつけた。毎日、運動部の夏合宿を何倍も濃くした内容で小学生の女の子を律したのだ。
そんなクラスメートが聞いたら開いた口が塞がらなくなるような教育方針(そうなったら困るので一度も話したことがないが…)のおかげで、私は、どんな困難にも諦めず立ち向かっていく、努力こそが目指す場所に近づく唯一の方法、という信念を体に染みこませて今通っている学校に合格した。一年遅れてしまったけれど元の生活を取り戻した。
ちなみに妹の琴は、祖母のあまりに厳しい教えに早々に根を上げ、自由奔放で裏表のない、とてもいい子に育った。自分と正反対の性格の持ち主になって、これはこれで私の救いになっている…。
こんな私が、進学した私立高校で、何をやるにも他人任せで自分は一つも努力しない、お気楽な西洋貴族の天道翔と出会った。何の因果か図書委員を一緒にやり、学園祭のイベントで彼と組んで研究発表をやろうというのだから、ぶつかることは目に見えていた。夏休みに入って早々の衝突は、当然の結果、と言えるだろう。
今、思い出しても、沸々と怒りが湧いてくる。
『ごめん。まだ読み終わってなくて…三百ページ、くらいかな』
何故、目の前の課題に立ち向かおうとしないのか。外見も環境も健康も…何もかも持ち合わせているのに。
「……」
それはそうと、これからどうするか…ベッドに寝転がって、カーテンの隙間に浮かんでいる三日月を覗きながら考えた。
彼に連絡して、本を読み終えるのを待つか。つまり、このまま一緒に課題に取り組むか。それとも一切無視して、自分一人でやってしまうか。
一緒に続けるのは面倒だ。きっと膨大な時間と労力を要する。一方で、自分一人でやるのは簡単だ。相応の時間を掛ければきっと目指すものを作れるだろう。
どちらにするか…次の図書室当番は来週だ。もう一度仲良くしたい気持ちもあるけれど…あんた言い方をしてしまったのだ。もう話しかけてもくれないかもしれない…。
などと思いあぐねながら川越の町から一歩も出ずに夏休みを過ごしていると、三日後、突然メールが届いた。
『三百二十ページまで読んだ。何だ、そういうことだったの?ヒロインが幼馴染だったなんて…リンは何処で気づいた?まさか、最初から分かっていたとか…』
リビングのソファから自分の部屋に駆け込んで、もう一度、液晶画面に掲示された文面に目を通す。たった三日で百ページから三百二十ページまで読んだのか。物語に隠された最大の仕掛けに衝撃を受けたらしい。ちなみに私は二百ページくらいで気づいたけど…。
きっと昼夜を問わず読んだのだろう。一体、彼の身に何が起こったのか。この豹変ぶりを信じていいのだろうか。
何やら事態が急変しているらしいが、先の展開を思い描くことができない。どうしてだろうと思ったら、メールに一か所、どうしても引っかかる部分があったからだ。
リンちゃん、という呼び名は何処に行ったの?
『昨日の夜、最後まで読んで、今日から二周目に入った。当たり前だけど、一周目と全然違うね。ヒロインの女の子がどうしてこんな反応をするか、全部分かるんだから。リンが二回読んだっていう意味が分かったよ』
『そうでしょう?クイズの答え合わせみたいで楽しいよね』
『この話、本当に面白いね。色んな所にヒントがあって、あぁ、そうなんだ、やられたって毎日驚いている。やっぱり、リンもそうだった?早く会って話したい。今なら、何時間でも話していられると思う』
『じゃあ、次の当番の日に打ち合わせをしよう。図書委員の仕事が終わってからでいいかな?』
『明日、改札の前で待ってるから。ところで、打ち合わせをするなら何処かで昼飯、食べない?もちろん、リンの好きなものでいいよ』
あれから毎日のようにメールが送られてきた。クラスメートという枠を軽々と超えた、とても親し気な調子で。
私も、奏や千沙に送る感覚で返信した。足元に引かれた線を越えないよう慎重に言葉を選んで…。
学園祭のイベントで組むことになってから、彼と携帯のアドレスを交換した。夏休みの間に準備を進めるなら、互いの連絡先が必要になるだろうと考えたのだ。
だから、こんな友達同士みたいな文面をやり取りしても驚かなかった。むしろ、彼が乗り気になってくれて、ほっと胸を撫でおろしていた。
『お昼ごはん、もちろんオッケーだよ。ちなみに私が好きなのは、きみに教えてもらったホームズパンだけど…』
先週までいっそ一人でやってしまおうか、と思っていたのに、当たり前のように二人で進めていく段取りを考えている。ただ一つ、彼に対する自分の態度を決められないまま…。
『おい。リン…』
あの時、彼は、私の名を呼捨てにした。私が激高したことに反応して。
それは仕方ない。こちらも、相応の言葉を投げつけたのだから。
でも、その後のメールでも、彼は私のことを『リン』と呼んだ。これまでのように『リンちゃん』でなく…。
同じ『リン』でも、学校で言い合った時とメールのやり取りをした時とでは中身が違う。メールの中の『リン』は、親しみを込めて呼んでくれている。これまでの『リンちゃん』とは違うニュアンスで。
先週と今週で、彼の中で何かが変わったのだろうか。
そうだとしたら、私はどうすればいいのか。彼を何て呼んだらいいのだろう。
そんな疑問をぐるぐると頭の中で回しながら、その日も私は、学校の最寄り駅の改札口で天道翔と落ち合い、図書室のカウンターで貸出当番の仕事に就き、お昼に別のクラスの図書委員と交代して学校を出た。そのまま図書室に残って打ち合わせをしてもよかったが、私がメールで、ホームズパンが食べたい、と言ったから…夏休みで購買部が開いてなかったので、通学路の途中にあるお店に寄って、最寄り駅のホームに設置された待合室に入って、総菜パンを食べながら打ち合わせをすることにした。
「すごい。よく調べたね、こんなに詳しく…」
「時間があったから。三枚目に、主人公とヒロインのポイントになるセリフをまとめてみたけど」
「…あぁ、ここに書いてあるの全部、何処で言ったか分かるよ」
学校から駅までの道すがら、彼はずっと、例の物語の魅力を熱く語った。胸にじんときた場面とか、心憎い展開とか、それだけで本のプレゼンになってしまうくらい事細かに。
そして、ホームの待合室で私がまとめてきた資料を目にすると、思ったとおり、好きな芸能人のお宝ファンブックを手にしたみたいに感激し、せっかく買ったパンを隣の椅子に放って読み始めた。私がピザトーストの包みを開けても、気にすることなく唸っていた。
この物語は、小学生の時に別れた主人公とヒロインが大学で再会し、互いに魅かれあって再び結びついていくストーリーだ。ただし、主人公は相手が幼馴染の子だと知らずに付き合い、それを知っているヒロインが自分の素性を打ち明けないまま話が進んでいく。情報が一方通行になっている所がポイントで、読者は何も知らない主人公の視点で、ヒロインの素性をあれこれ想像していく仕掛けになっている。
確かに面白いストーリーだ。登場人物にも共感できる。ただ、そこまで夢中になるほどのものだろうか。このヒロイン、ちょっと思い詰めすぎじゃない?そう思っていたから、彼の反応は全く予想外だった。もういいよ、分かったから打ち合わせを始めない?そういう流れに持っていきたくて、ホットドックの包みを開けながら言った。
「ねぇ…せっかく買ったのに食べないの?」
「食べるよ…あぁ、今日はよかった。今まで読んだ中で一番面白い本だったから、早く話したいって思っていたんだ」
「…私とこういう話がしたかったの?」
じゃあ、どうやって進めようか、と聞くつもりが、しみじみと語る顔を目にしたらつい余計なことを口にしていた。
彼は、長い年月を掛けて探していた宝物を見つけたみたいに、一点の曇りもない瞳で微笑んだ。
「もちろん。リンと一緒に読んだんだから、他の子とじゃ話せないだろう?」
当たり前じゃないか…柔らかな声が、私に向けて真っすぐに掛けられる。
「……」
あれほど掴めなかった彼の素顔が、手を伸ばせば届くところにある。相変わらず王朝貴族の香りを漂わせているが、まぎれもなく天道翔という男の子が。
ホットドックのケチャップの香りが鼻を突く。ホームに滑り込んできた電車の窓が日差しを反射して、眩い光を待合室の中に投げてくる。
まるで何かの魔法にかかったみたいに、私も、彼に向けて真っすぐに答えていた。
「私も、テンドウにしかこの資料を見せられない、他の子に言っても分かってもらえないから。テンドウじゃないと駄目なんだ」
何てことを言っているんだろう、といつもの自分が慌てていた。けれど、普段隠れているもう一人の自分が、逃げることなく彼を見つめて微笑んでいた。
「じゃあ俺たち、オタク同士で盛り上がっているんだ」
「本当だ。絶対、変な二人って思われているよ」
「まずいな。怪しい図書委員コンビだ」
丁度、ガラス窓の向こうで扉を開けた電車を見ながら、二人でケラケラと笑う。笑いながら、「テンドウ」と呼び捨てにした自分に驚いていた。それを何事もなく受け止めてくれた彼に胸を温めた。
この感情は何というんだろう。私は、何を手に入れたのだろう。そんなことを考えながら、また彼の名を口にしたくて、空に向かって少しだけしゃくれた顎の輪郭をひたすら見上げて話していた。
「じゃあテンドウは、ヒロインの子がいなくなった後に、二人が幼馴染同士だったって気づいたの?あそこまで分からなかったんだ?」
「怪しいとは思ってたよ。子供の頃の話をした時とか…リンだって、すっかり騙されたって言ってなかった?」
「だって、先にヒロインの話をされても、こっちは主人公の生い立ちを知らないんだから、分かる筈ないじゃない?」
「まぁね。初めて読んだ人が気づかないように、うまく書いてあるから」
「映画なら、ちゃんと映像が出るんだろうけど…」
「あぁ、そうだ。忘れていた」
「何?」
「俺たち、映画を観てないじゃないか」
「ちょっと待って。それ必要…かな?」
「もちろんだよ。せっかく映像があるんだから、観ておいた方がいいに決まっている。だとしたら早くしないと…何なら、一緒に観ようか?」
「…へ?」
その言葉を聞いた瞬間、流れていた時間が正常に止まった。
二人で読んだ小説の映画を一緒に観る。テンドウと同じ画面を見て、泣いて笑って、エンドロールを流しながら感想を言い合う。もしそれができたらどんなに楽しいだろう…。
だが、私の頭の中で色とりどりの花が咲いたのは、ほんの一瞬だった。
考えてみてほしい。映画を観るといっても、確か一年前に公開が終了しているから、レンタルDVDを借りてテレビ画面に映すしかない。じゃあ何処のテレビで…学校、という訳にいかないから、自ずとどちらかの家、ということになる。
「初めに言っておくけど、うちは無理だよ…家庭の事情で」
テンドウは間髪を入れずそう言って、国立の家の門を閉ざした。すると、残るは川越の林田家しかなかったが、
「じゃあ…」
そうではなくて、レンタル版をダウロードして携帯で観るという手もあるんじゃない?とわが家への男子の訪問を何としても阻止したい私は言いかけたが…。
ふと頭の中に、見慣れた景色が降りてきて言葉を飲み込んだ。学校の行き帰りに、ドトールやミスドのカウンター席で、顔を寄せて小さな画面に見入っているカップルの姿…脳裏にギラギラと焼き付いている彼氏と彼女の光景にテンドウと自分の顔を入れたら一瞬で酸素が足りなくなり、やむなく、苦し紛れに申し出ていた。
「…うちに来る?そちらがよければの話だけど」
もちろん、テンドウは二つ返事でこの話を承諾し、その日のうちに日時を決めて、川越の林田家のマンションで二人で映画を観る、というまさかのイベントが決定した。
ちなみに、DVDのレンタル料金を公平に折半しようと申し出たら、俺が購入して持っていく、最初からそうするつもりだっだ、と言ってまた私を驚かせた。
一体、何処まで気に入ったんだ。ただでさえ、男子を家に招いてDVD鑑賞なんて、根回しが大変そうな出来事なのに。果たしてどんな結末が待っているんだろう…。
そうして私が一人で胸を騒がせているうち、瞬く間に当日がやってきた。西武線の終点、本川越駅の改札口で、琴と二人、黄色い電車から降りてくる彼の姿を捜す。いつも通学で使っている見慣れた景色が、嫌でも特別な感じで浮き立ってくる。
念のため言っておくと、妹の同伴を私は喜んで受け入れた。一応、表向きは迷惑そうな顔をしたけれど…一緒にいてくれた方が助かる。二人きりで何時間も過ごしたら帰る時にどういう気持ちでテンドウを見送っているか、自分に自信がなかったから。
思惑どおり、琴のテンションは「天道翔、川越に来る」の報を聞いた瞬間に最高値に達した。この歴史的訪問を是非とも自分の目で確かめないと、などと気合を入れまくって、私と一緒に父と祖母に掛け合ってくれた。二人が留守の間も私が同席するから大丈夫、決して間違いのないようにする、だから許してあげて、と懇願し、まんまと大人の許可を取り付けてしまった。
テンドウと私の組み合わせで間違いが起こるとは思えないが…ともかく、琴の同伴でDVD鑑賞すると決まって安心した。これで後顧の憂いなく課題研究に取り組める。晴れ晴れとした気分で、大勢の下車客の中から現れた彼に手を振っていた。
「おはよう。遠いところ、ありがとう」
「こっちこそ、わざわざ迎えに来てくれて…」
「…うん」
てっきり派手なティーシャツに短パン、素足にサンダル履きで来るのかと思ったら…彼は、ポロシャツもチノパンもフォーマルと言っていいくらい落ち着いたデザインのものを着て現れた。父も祖母もいないから安心して、と言っておいたのに、どんな心持ちでやってきたか一目で分かって目が離せなくなる。
ちなみに私も、デートから一番遠い落ち着いた感じの外出着で行くはずだったが、家を出る寸前に琴から強烈な駄目出しを食らって一番可愛い、女の子を殊更主張するデザインのものに着替えて来ていた。テンドウがそれをさりげなく確認したのを目にして、こっちで良かったかも、と密かにニンマリとしていた。
そうして、ちぐはぐなファッションに身を包んだ二人で初々しく照れていればよかったが、前述したとおり、私の隣にはお目付け役がくっついている。テンドウが改札口に現れた瞬間から、早くしろ、と鼻息を荒くして脇腹を突いてくるから仕方なく「あ、妹の琴…」と紹介した。
今更だけど、林田家の楽器系姉妹は、鈴と琴で正反対の性格だ。この姉にしてこの妹あり、と思って対面したら、天地がひっくり返るような体験をすることになる。
そんな天津爛漫で自由奔放の琴と会ったら、テンドウはどう思うだろう。やっぱり調子が狂うだろうか、と思ったが、そんな心配は全く無用だった。
「やぁ、リンから聞いているよ。きみとはずっと会いたいと思っていたんだ。確かD組だよね。じゃあ、ジュリーとか、ヤマザキとかと一緒?」
自分も持ち前の軽薄ぶりを発揮して、一瞬で意気投合している。やっぱり、どんなタイプの女の子にも対応OK。下手をしたら半年後に付き合っているかもしれない、とおぞましい想像をして身震いした。
こんな噂どおりのモテキャラ振りに琴は大いに満足して、
「ザキちゃんのこと知っているの?いつもお昼、一緒にしているんだよ。天道くんのこと、たくさん聞いているから、今日は会えて本当に嬉しい。あの、よかったらアドレス交換してくれる?」
舞い上がったついでに個人情報まで引き出し、また一つ、友達ネットワークを広げている。私が二か月以上掛けて辿り着いた場所に会って数分で瞬間移動しているから、呆れながら感心してしまった。
考えてみたら、テンドウは元々、琴みたいなタイプの子と気が合うのだ。クラスで話している顔ぶれを見たらすぐに分かる。私みたいなのと関わる方が珍しいかもしれない。
そう思ったら急に、場違いな所に居合わせてしまった気分になった。姉と違って外見も性格も女子力も高い妹…すっかり打ち解けている二人の横で、連れてこなければよったかも、と駅前ロータリーを眺めながらため息をついた。ありえない声を聞いたのはその時だった。
「じゃあ私、ザキちゃんと約束しているからここで。スズ姉…」
健闘を祈る、とばかりに親指を立てて、琴が改札の中に入っていく。あんなに盛り上がってくっついてきたのに、一度も振り返ることなく、テンドウが乗ってきた電車に自分が乗り込んで所沢方面に行ってしまった。
「へ…?」
まずい。まんまと琴の計略にはまってしまった。このままでは、本当に間違いが起こるかも…気が付いたら絶叫マシーンに乗っていた気分で私は、見慣れた街並みを振り返った。
川越は、江戸時代から続く蔵造りの街並が有名で、近隣から人々を集めるちょっとした観光地になっている。ここ数年は外国人の姿も多く見かけるようになり、土産物屋や和食の名店、大正モダンの洋館を練り歩く人出で、平日、休日を問わず賑わっていた。
夏休みの最中に当たるこの日も、うだるような暑さにもかかわらずTシャツに短パンやノースリーブ、浴衣姿も混じった人出が、サンロードと呼ばれる地元の商店街や大正ロマン通りに向かって続々と駅前ロータリーから繰り出していく。私にくっついて駅のコンコースから出発したテンドウも、横断歩道を渡りながら感嘆のため息をついた。
「すごいね。国分寺や国立より賑やかだ」
「…埼玉県の貴重な観光地だから、嫌でも人が集まってくるの」
「リンは、ここで大きくなったんだ。ゆっくり見てみたいな…」
……ただでさえ想定外の状況に戸惑っているところに足元を揺るがすようなことを言うものだから、ポロシャツの袖を掴んで言った。
「そんな時間ないでしょう?」
おい、何するんだ…後ろで抗議していたみたいだが、構うことなく引っ張っていった。