ずっと怖くて、決め付けて逃げていた。向き合うことを恐れていた私の隠し事。


「私……青年期失顔症になっちゃったの」

 声にした瞬間、体の芯が震えた。


「え?」

 聞き返すような言葉を発したのは、どちらなのかわからなかった。
 お兄ちゃんもお母さんも心底驚いているというよりも、戸惑いの色の方が強い。

 必死に言葉を飲み込んで理解しようとしているような表情で、私のことを見つめている。ふたりとも、私が青年期失顔症を発症していると思いもしなかったのだと思う。


「それって……自分の顔が認識できなくなるってやつ?」

 お兄ちゃんの言葉に頷く。するとお母さんが顔をくしゃりと歪めて、私を見つめたまま大粒の涙を流していく。

「お、お母さん?」
「ごめんなさい……気づけなくて、朝葉が、そこまで……っ」

 自分を責めるようにして泣いているお母さんはソファから立ち上がると、私の前まできた。床に膝をついて、顔を覗き込むようにすると私の両頬に手を添える。


「お母さん……?」
「いつから発症したの?」
「……最近、だよ」
「昨日今日じゃないわよね?」

 頷いた私に、お母さんが悲しげに眉を寄せた。そして壊れ物にでも触れるように、お母さんの手が、そっと私の頬を撫でる。久しぶりに感じる温もりに身を委ねるように瞬きをして、一筋の涙を流す。


「不安だったわよね。自分の顔が見えなくて、思い出せないなんて怖かったでしょう」
「……うん」
「気づいてあげられなくてごめんね」

 衝撃は与えてしまうとは予想していたけれど、すぐにカウンセリングを受けるように言われると思っていたので、今の状況に頭がついていかない。


「……ガッカリしないの?」

 私の問いかけに、お母さんが理解できないというように瞬きをする。

「だって、私……青年期失顔症で、自分を見失って……」
「朝葉はガッカリされると思っていたの?」

 知られたらカウンセリングに連れて行かれて、学校にも連絡されてしまう。そのことにも恐れていた。けれど、お母さんの理想通りになれなくて、失望されるかもしれない。その懸念はあった。


「あのね、朝葉。お母さんも昔発症したことがあるの」
「えっ!?」

 思わず大きな声を出して反応してしまう。ちらりとお兄ちゃんの方を見ると、お兄ちゃんも初耳だったらしく、目を見開いている。


「誰にだって発症する可能性はあるの。ガッカリされるなんて思わないで」

 私の頬に添えられていたお母さんの手がゆっくりと降りてくる。そして、膝の上で硬く結んでいた手に重ねられた。


「ずっと不安だったのね」

 涙で視界が滲んでいく。
 毎朝夢であってほしいと祈るように鏡を見た。そのたびに絶望して、ぽっかりと開いた心の暗闇にのまれてしまいそうだった。鏡に写っている私の顔がないのに、みんな私の名前を呼んで、いつも通りで変わらない。

 変わったのは自分自身だということは頭ではわかっていても、気が狂いそうなほど怖くてたまらなかった。そして自分の精神が壊れないようにと、私は極力鏡を見ることを控えるようにしていた。

 そんな私の心に抱えた真っ黒で不安定な感情を、お母さんがそっと触れてくれる。まるで、無性の愛であやしてくれるみたいで、泣きじゃくってしまった。





 私の涙が止まったあと、お母さんとお兄ちゃんと一緒に夕食のハンバーグを作った。お兄ちゃんが形を作ったから、歪なハンバーグになってしまったけれどお母さんの味付けのおかげで美味しく出来上がった。

 ご飯を食べながら、お母さんはほんの少しだけ涙目になりながら、ぽつりと漏らした。


「夕利のときも、こうしてもっとちゃんと話せばよかったわね」

 お母さんなりの向き合いかたへの後悔に対して、

「これからもっと話していけばいいじゃん」とお兄ちゃんは照れくさそうに笑った。

 お互いに譲れないものがある。だけど譲れない部分が合わないからといって、関係が終わるとは限らない。きっと全てを許容できて、嫌なところなんてひとつもない人間関係なんて存在しない。