長い廊下を突き当たりまで進むと保健室が見えてきた。叶ちゃん先生が引き戸を開けると、電気はつけられていないものの窓から差し込む太陽の光によって部屋の中は明るかった。ひょっとしたら朝比奈くんがいるかもしれないと思ったけれど誰もいない。


「どうぞ、座って」

 長机の前に置かれているパイプ椅子に座り、叶ちゃん先生と向かいあう。


「もしかしてまだお昼食べていない?」
「まだです。……でも食欲がわかなくて」

 呼び出しのメッセージが届いてから胃の調子が悪く、空腹を感じない。話し合いが終わっても、気分がすぐれないのは一気に疲れがきたからかもしれない。


「それじゃあ、話をしても平気かしら」

 私を気遣うような叶ちゃん先生に、大丈夫ですと頷く。


「青年期失顔症は、主に自分の顔が認識できなくなる病ってことは知っているわね」
「はい」
「けれど、精神的負荷が増えて病状が悪化すると、その他の五感にも影響を及ぼすことがあるの」

 俯きかけた顔を上げる。つまりそれは、先ほどの自分の声が聞こえなくなったのも青年期失顔症の悪化ということなのだろうか。


「じゃあ、私の場合もそれで……?」
「おそらくはね。あまり知られていない合併症なんだけど」

 青年期失聴症や、青年期失味症と名付けられているそうで、それだけでは発症しないそうだ。あくまで青年期失顔症を発症した人が、悪化した結果に起こる症状らしい。

 つまりはこのまま直らずに悪化してしまえば、味覚や自分の声が聞こえなくなってしまう危険がある。


「間宮さん、落ち着いてね」
「……っ、はい」

 恐怖に呑まれそうになり、耐えるようにテーブルの上できつく指を組んだ。そして少しでも精神を安定させようと、深く呼吸をすることを意識する。きっとこの動揺も悪化する原因になってしまう。


「すぐに自分の声が聞こえるようになったのなら、一時的に精神的負荷過がかかったためだと思うの。今後は今日みたいな呼び出しはさせないようにするわ」
「でもそれは……逃げてるだけな気がして」
「逃げることは間違いかしら」

 必死に肺に吸いこんだ息が、力なく抜けていく。一瞬、叶ちゃん先生の言葉を理解できなかった。


「間宮さんは、どうして逃げることを躊躇うの?」
「それは……だって、私が逃げて部活を辞めたら、各学年同士のいざこざの仲裁に入る人も、桑野先生にメニューの相談に行く人もいなくなるから……」
「それは全部間宮さんがひとりでやらなくちゃいけないこと?」

 それは、今まで指摘したくても誰にも言えなかったことだった。


「貴方は、周囲から押しつけられた理想像になろうとして自分を見失ってしまったのね」
「え……」
「バスケ部の問題、一年生の子からも少し相談を受けているから、全てではないけれどある程度把握しているわ」
「……そうだったんですね」

 頼りにしていう甘言に踊らされて、気づいたら私はみんなに押し付けられている立ち位置にいた。私の〝役目〟だといつのまにか決められ、あげく八方美人だと影で言われていたことも知っている。


「……っ、私馬鹿みたいですよね。嫌なら嫌って言えばいいのに、我慢して飲み込んで、周囲の理想像になろうとして……勝手に自分で苦しんでいるだけです」

 でも、そうしなければ、今度は別の攻撃をされてしまう。私は役立たずだと周囲に見捨てられることを、ずっと恐れてきた。


「間宮さんは逃げることを恐れているみただけど、今日頑張って立ち向かったじゃない。呼び出されて拒否することだってできたのに」
「あれは……いずれ話し合わなくって思っていたので」
「金守さんと会うことさえ、不安だったでしょう。それにみんなから投げかけられる言葉も間宮さんの心を酷く揺らしたはずよ。それでも逃げなかった。そんな自分を誇りに思っていいの」

 逃げる選択をしなかった。ただあの場で向けられる視線や言葉に耐えていた。たったそれだけだ。それでも私は、私を誇っていいのだろうか。けれど私にはもうひとつ気にかかることがあった。


「せんせ……っ、私、朝比奈くんを巻き込んでしまったかもしれなくて、それも怖くて……っ」

 事情を話しながら視界が歪み、目から涙がこぼれ落ちてくる。


「あんなに助けてもらって、それなのに巻き込んで、変な噂たったり、桑野先生に目をつけられちゃったらどうしよう……っ」