「朝葉〜!」

 帰りのホームルームが終わると、隣のクラスの杏里が教室まで迎えにきてくれた。
 焦げ茶色のショートヘアの杏里は、小柄で明るくてバスケ部のムードメーカー的存在。


「はぁ〜、お腹すいたなぁ」
「部活前になんか食べておいた方がいいんじゃない?」
「まんじゅう持ってきた!」
「杏里って本当にあんこ好きだよね」

 杏里は無邪気に笑いながら頷く。彼女の家に行くと毎回あんこ系のお菓子が出てくるくらいだ。おかげで私も杏里が好きな和菓子屋さんのあんこが好きになっている。


「あ……」

 朝比奈くんが言っていたことを思い出して立ち止まる。
 好きなことや嫌いなことを書いていくノート。早速出番がきたみたいだ。

 私の好きな和菓子は、藤水堂のあんこ。こうして自分の好きを思い出すと、うれしくなってくる。


「朝葉? 忘れ物でもした?」
「ううん、大丈夫。なんでもないよ」

 杏里は大事な友達で部活仲間だ。でも青年期失顔症のことは話したくない。
 言いふらすとかそんな風には思えないけれど、気を遣われそうでそれが嫌だった。親しい友達にもこのまま秘密にしたまま治したい。


「杏里ちゃん、朝葉ちゃん」

 階段を降る途中で名前を呼ばれて振り返ると、胸元まで伸びたサラサラな薄茶色の髪の女子——三年の常磐先輩が立っていた。

 柔和な笑みを浮かべている常磐先輩は学年関係なく親切で優しい先輩。二年生と三年生の関係は良好とは言えないものの、常磐先輩がいてくれるおかげで悪化しないで済んでいるように思える。


「ふたりとも、これから部活行くところ?」

 ふわりと花のような香水の匂いがする。常盤先輩はいつもいい香りだ。


「はい! 常磐先輩も一緒に行きましょうよ〜!」

 杏里もあまり三年生のことは得意としていないけれど、常磐先輩には懐いている。
 私たちは三人で談笑しながら、一緒に体育館近くの更衣室へ向かうことになった。流れに身を任せて進んでいけば、〝いつもと変わらない〟放課後が始まる。



「私たち三年生が引退したら、次の部長誰になるのか気になるね」

 隣を歩いている常磐先輩が、ちらりと私の方を見てくる。
 まるで私だと言われているような気がして、心臓が大きく跳ねる。夏が終われば三年生は引退してしまう。そうなれば私たち二年の中から部長と副部長が選ばれる。

 そしておそらくは——


「まあ、でも朝葉が一番適任だよね〜! みんなに頼られてて、まとめ上手でさ。桑野にも気に入られてるでしょ」

 悪気なんてないとわかっている。でも杏里の言葉は私の感情を大きく揺さぶった。


「そんなこと……」
「私も朝葉ちゃんが一番適任だと思うよ。だって責任感も強いじゃない」

 常磐先輩がくれる信頼が今は重石のようで、部活へと向かっているこの足を止めてしまいたい衝動に駆られる。


「ですよねー! あたしも、朝葉が部長になったら嬉しい! 」
「私、は……」
「朝葉なら桑野にも上手く言ってくれるし」

 私はいったいなんなのだろう。みんなに頼られている? それは都合よく扱いやすいだけだ。
 桑野先生に気に入られているように見えるのも、先生にとっても私が扱いやすいだけで好かれているわけではない。


「朝葉?」


 それに誰もやりたがらないから私がまとめているだけで、本当は私——


「どうしたの?」

 再び立ち止まった私を杏里と常磐先輩がきょとんとした表情で見つめてくる。


「部活おくれちゃうよ?」
「部活……っ」

 そうだ。部活に行かなくちゃ。このままでは遅れてしまう。遅れたら桑野先生に叱られて、メニューを増やされてしまう。


「は……っ」

 呼吸が苦しい。肺のあたりが圧迫されたような感覚に陥り、指先が冷えて震えていく。視界が白く点滅するように光り、目眩がしてくる。


 嫌だ。部活に行きたくない。

 私もうできないよ。先輩とみんなの間に入って、仲をとりもったり、みんなの不満を聞いてメニューの改善に関して桑野先生に話をして私が叱られたり、そんなこともう——私はしたくないよ。誰かこの場所……代わってよ。




「間宮」


 どろりと黒い感情が心に滲み始めたときだった。私を呼ぶ、少し焦ったような声。

 振り向かなくても、誰かわかる。