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「いってきます」
昨日からの気分とは裏腹に輝いている太陽の光が窓から差し込む朝。
トントン、と履いたローファーを鳴らしながら、そう声をかけた。
しかし、「いってらっしゃい」と返ってくる声はない。
その代わり、父がネクタイを締めながらああ、行くのか、とだけ声を零していた。
ほのかに、なんてものじゃない。
そこを通っただけで臭いがこびりついてしまうのではないかと思うほどの強い煙草の臭い。
父が帰ってきたのが朝方で良かった。
こんなものを寝る前に嗅いでしまえば、たまったもんじゃない。
寝つけないに決まっている。
プルルッと鳴り響く電話の着信音。
父は胸ポケットに入っていたスマホを取り出すと、頬を緩めながらその画面を横にスライドした。
ふと、目線を伸ばした先。
スマホを握って耳にあてているその左手。
私達の生まれる前、そこの薬指に嵌めたはずのダイヤは今は消え、そこに残るはずの跡すらもついていない。
代わりにその電話の相手。
声は聞こえないけれど、なんとなく分かってしまう。
だけれど、気づいてはいけない。
この秩序を崩しては、全てが崩壊する。
なんとか保たれているこの家族が、壊れる。
だから良いんだ、私は何も知らない。
それで良い。
いや、それが良いんだ。
しかし、昨日の夜のような気持ち悪い何かが下からこみ上げてきて、胸を圧迫する。
ぎゅっと掴んで、逃がすまいと。
そんなの知らなくて、苦しくて、私は思わず玄関を飛び出した。