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「ただいま」
私の一言の後に響くのはガチャッと閉じるドアの音のみ。
背負っていたリュックを机の側に放り投げ、手をぷらぷらとさせながら洗面所へと向かう。
「おかえり」と最後に返ってきたのはいつだっただろうか。
3年前あたり……
いやいや、流石にそれより後には…
あぁ、記憶にないや。
昔から共働きの両親。
基本家におらず、いたとしても部屋から一切出てこない大学生の兄。
そして、普通の女子高生の私。
家に帰ってきても人がいるのは稀で。
両親はいつも夜中に帰って朝に出る。
顔を合わせるのも30秒あるかないか。
だが、この家族に生まれて、良かったとも悪かったとも思わなかった。
そして、これからも思わないだろう。
ただ、「おかえり」って言われたかなぁって思っただけだから。
なんとも言えないもやもやが私を取り巻くのが気持ち悪くて、洗った手をガシガシとタオルで拭いた。
次に向かうのはキッチン。
黒い冷蔵庫を開いて親のご飯の余り物を頂戴する。
あー…今日は良いのがない。
適当に白米と肉が入っていそうな炒め物を手にとって、レンジへ放り込む。
あとは、チンッという軽快な音が響くのを待つだけだ。
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「いただきます」
ぱた、と手を合わせて軽く頭を下げる。
私の目の前には薄く湯気を立てて佇む1枚の皿と1つのお茶碗。
まあ、足りるか。
足りなければ先程覗いた冷蔵庫に珍しい桃のヨーグルトでもあったから、それを食べたら良いだろう。
カチャ、という箸と皿がぶつかり合う音をたてて豚肉とキャベツをつまんだ。
ほろほろと崩れる具材の山がまた良い。
食欲を掻き立てる。
お茶碗片手に一口含めば広がるソースの味。
その後に白米を一口食べたら。
ふふ、美味しい。
やはり、どんな時であれどご飯を食べると嬉しくなる。
しかし、これくらいなら作れるな。
余裕。
最近は料理なんてものをしていなかったから、また再開してもいいかもしれない。
明日の帰り、何か買って帰ろう。
振る舞う人は、いないけれど。
美味しい、って言うのは私だけだけれど。
食卓を囲むのが一人なのはもう何年も変わらない。
「美味しいね」って言う相手も、「美味しいよ」って言う相手もいない。
…そんなこと、もう慣れた癖に何言ってんだか。
だけど、なんだか、なんだか今日は虚しい。
それがよく分からなくて、可笑く思えて、私は湯気がほとんど消えてしまったご飯をまた、口へと運んだ。
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「ごちそうさまでした」
先程と同じようにぱた、と手を合わせて、また軽く頭を下げる。
ヨーグルトを食べようと思っていたが、目の端に映るインスタントのスープがあまりにも美味しそうで、ついポタージュを飲んでしまった。
全くメニューに合わなかったけれど。
でも美味しいからオールオーケー。
ガチャガチャと音を立てて食器を洗い、部屋へと戻る。
明日は土曜日だが、登校日だ。
面倒くさい。
世間一般的には休日だというのに、どうしてわざわざ勉強をしに学校まで行かなくてはならないのか。
はあ、と溜め息をついて教科書を取り出していると、玄関の方からガチャ、とドアの開く音が聞こえた。
部屋のドアを開けて玄関を覗けば、そこには不機嫌そうに靴を脱いでいる兄の姿。
兄は私の姿を視界に入れた途端、あ、お前か、と呟いた。
ご飯は?と聞けば、食ってきたと返ってくる。
そのまま、兄は私の目も見ずに向かいの兄の部屋へと入っていった。
「ただいま」も「おかえり」もない世界。
こんなものに慣れてしまいたくなかった。
何故不機嫌だったのか。
家に帰らなければいけなかったから?
家にいてもつまらないから?
家には私がいるから?
何も知らない。
でも、知らなくていいことだから。
ガタガタと何かを部屋で兄が動かす音を背に、私も部屋へと戻った。
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「おやすみ」
私、寝るから、と目の前の兄の部屋のドアに向かって続けて言う。
分かった、など当然、ん、とさえも返ってこない。
少しくらい返事してくれても良いのではないか。
ここまで黙り込む理由がよく分からない。
もしや、聞こえてないのか?
もう夜中の12時を過ぎたというのに、まだ部屋ではガタガタとした音や、友人との電話をしている声が聞こえる。
一体何をしているのか。
ああ、これまではこんなこと気にしていなかったのに。
今日はやっぱりなんだか可笑しい。
不思議な感覚がする。
うん、もう寝よう。
そうやって振り返ると、また玄関の開く音が。
ピンヒールの音を鳴らして帰ってきた母。
朝、上に縛っていたはずの髪は降ろされている。
あ、寝るのね
それだけを言って母は私の横を通り過ぎた。
その時に匂う、香水の匂い。
朝、母がつけている香水とはまた違う、少し男の人がつけていそうな。
きっと母は――
駄目だ。
考えてはいけない。
それ以上続けたら、認めざるを得ないだろう。
本当は、知っているけれど、私は知らないんだ。
そう、何も……何も、知らない。
なんだかやけに胸が苦しくて、ぎゅっとつまる。
その正体を知りたくなくて、私は布団に潜り、ぎゅっと枕を抱きしめた。
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「いってきます」
昨日からの気分とは裏腹に輝いている太陽の光が窓から差し込む朝。
トントン、と履いたローファーを鳴らしながら、そう声をかけた。
しかし、「いってらっしゃい」と返ってくる声はない。
その代わり、父がネクタイを締めながらああ、行くのか、とだけ声を零していた。
ほのかに、なんてものじゃない。
そこを通っただけで臭いがこびりついてしまうのではないかと思うほどの強い煙草の臭い。
父が帰ってきたのが朝方で良かった。
こんなものを寝る前に嗅いでしまえば、たまったもんじゃない。
寝つけないに決まっている。
プルルッと鳴り響く電話の着信音。
父は胸ポケットに入っていたスマホを取り出すと、頬を緩めながらその画面を横にスライドした。
ふと、目線を伸ばした先。
スマホを握って耳にあてているその左手。
私達の生まれる前、そこの薬指に嵌めたはずのダイヤは今は消え、そこに残るはずの跡すらもついていない。
代わりにその電話の相手。
声は聞こえないけれど、なんとなく分かってしまう。
だけれど、気づいてはいけない。
この秩序を崩しては、全てが崩壊する。
なんとか保たれているこの家族が、壊れる。
だから良いんだ、私は何も知らない。
それで良い。
いや、それが良いんだ。
しかし、昨日の夜のような気持ち悪い何かが下からこみ上げてきて、胸を圧迫する。
ぎゅっと掴んで、逃がすまいと。
そんなの知らなくて、苦しくて、私は思わず玄関を飛び出した。
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「おはよう」
女声の機械音が響く3番線。
毎朝見る友人の後ろ姿を発見し、反射的に声をかける。
おはよぉ、と眠そうに笑って返事をかえしてくれる友人。
つい、それに笑ってしまう。
なんだか、久しぶりに笑った気がする。
プーッと音をたててホームに滑る電車。
毎朝見るスーツ姿の黒髪の女の人が今日も隈をつけながら背中を丸めて降車してきた。
土曜日なのに。
休日出勤か。
薄化粧に、地味な格好。
将来的にこうなってしまうのかと思うと、思わず目を逸らした。
電車に乗り込めば所々空いている席。
何か違和感を感じる、と思えば今日は満員電車ではないのだ。
朝、ぎゅうぎゅうに押し潰されて学校へ向かうのは苦痛以外の何ものでもない。
それが無いだけでも、少し体が軽くなる。
なんだ、土曜日でもいいことあるじゃないか。
友人と顔を合わせ、ラッキーと呟きながら二人並んで席へとついた。
隣に座る、母親らしき女性と5歳くらいの男の子。
朝早くから何処かへお出かけだろうか。
その男の子は靴を脱いで立膝となり、窓の外を覗いていた。
しかし、その左手はしっかりと母親の手と繋がっている。
家族が大好きで、大好きでたまらないとでもいうように。
とても幸せそうで、温かそう。
もう、親の体温なんて忘れてしまった。
家で笑いあうことも、幸せだと感じることも。
手をぐっと握り、ぱーっと開く。
その掌をじぃっと見つめれば、大人のでも子供のでもないそれが私の心を掻き回してゆく。
気味が悪い。
そんな私が不思議だったのだろうか。
大丈夫?と私の顔を心配そうに覗いている友人がいた。
大丈夫だよ、と返して私はまた手を強く握った。
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「おはようございます」
門に立つ先生にぺこりと頭を下げて、そう声を出す。
わざわざ朝早く来て生徒を見守る先生も大変だな、と他人事のように思った。
そのまま3階分の階段を上がれば、2−Cの教室へと足を進める。
共に来ていた友人に手を振ってわかれ、私はドアを開いて教室に足を踏み入れた。
おはよー、と言えばおはよー、と返ってくる声。
ああ、やっぱりこの瞬間が好きだ。
自分がここにいて良いと認められている感じがして。
いつもの席につけば、またおはよー、と挨拶を交わす。
今日なんの授業があったっけ?なんて他愛もない話を繰り返していれば、ちょっと聞いてよーという声。
昨日さー、カラオケ行ってたんだけどー、親が連絡しろだの早く帰ってこいだのうるさいのー勝手に遊ばせてよってw
分かるーwうざくない?それw
いや、まじでうざいw
どう思う?と聞かれて、いやホントそうだよね、と乾いた笑いを引き連れてそう返した。
私はそんな連絡なんて来たことないよ。
早く帰ってきてなんて、心配されたことないよ。
うざいと思うほど親と喋ったことないよ。
そんなのを出来る方が、羨ましいんだよ。
…あれ、羨ましい、なんて、そんなこと、思うはず、ないのに。
それが、私の家では普通でしょ?
あれ、なんで?
やっぱり、可笑しい。
キーンコーンと鳴り響くチャイムで意識を引き戻し、起立ーという声で席をたった。