「そんなこと言われてもなあ……。当時がどうであれ、もう関係ないよ。佐々木さんがいるんだから。佐々木さんと私なら佐々木さん一択でしょ」
「嫌みですかそれ……」
なんでそんなに疑り深いのか。
じっとりと睨まれてしまいたじろぐ。
「えーっと、そうじゃなくて」
「わかってますよ、江里乃先輩がお世辞やごまかしでそう言ってるわけじゃないってことは。それでも、気になるってだけです。嫉妬深いんですもん、あたし」
頬を膨らませてぷいっとそっぽを向く佐々木さんがかわいくて、忍び笑いを漏らした。私だったら佐々木さんを選ぶ。
こんなに素直な子を選ばないなら見る目がなさ過ぎる。
「佐々木さんは、自分の気持ちを関谷くんに伝えたんだよね」
「ダメ元ですよ。関谷先輩が誰を好きでもどうでもいいから言うしかないって想っただけです。結果よかったんですけど」
「……誰を好きでも?」
フラれるのを覚悟して告白なんて、私には天地がひっくり返ってもできないし、したくない。
「なんでみんな、そんなすごいことできるんだろ」
だってフラれるのだから、なにも変わらない。してもしなくても片想いだ。なら、私はこのまま気持ちが消えていくのを待つほうを選ぶ。
「告白できるのかとかは人それぞれなんでわかんないですけど、あたしはただ、すっきりするためですかね。どうしようって悩むってことは、したいってことなのかなって、思ったんです」
悩むのは、したいから。
諦められないから、決心がつかないから。
……告白以外のことなら、私も同じことを言えるのに。
でも、私は先輩を応援するんだと、決めたのだ。けっして、悩んでいるわけではない。ただ、すごいなと思っているだけ。
けれど、まるで自分にそう言い聞かせているような気がした。
「佐々木さん、おまたせ」
関谷くんが戻ってきて、佐々木さんはうれしそうな幸せそうな顔で彼の隣に並び生徒会室を出て行った。関谷くんも、彼女に笑顔を見せている。
なんて、幸せそうなふたりなんだろう。
その姿に、自分と二ノ宮先輩を重ねてしまい、苦しすぎて顔が歪んだ。
いつもどおりの朝、けれど、今日は家を出てからずっと心臓をばくばく鳴らして学校までを過ごした。電車の中でも、ずっと息詰まりを感じるほどだ。駅から学校への道のりは、硬くなった体のせいで何度もふらついてしまった。
鞄の中には、先輩への別れの挨拶を書いた交換日記。そして――私が刺繍をしたハンカチが入っている。今までのお礼として、先輩をイメージした若葉をワンポイントでいれたものだ。市販のハンカチに刺繍をしただけなので、それほど気を遣わせることもないだろう。先輩は前にハンカチを探していたので、消耗品として使ってくれたらいいなと思う。もちろん、使わなくても受け取ってくれるだけでうれしい。
でもやっぱり、緊張する。
ノートには『弱音を吐いてすみません』『もう大丈夫です』『今までありがとうございました』『先輩を応援しています』と書いた。ついでに『今までのお礼です』とも書いてしまったので、ハンカチを渡さないという選択肢はない。
弟や妹以外に自分が刺繍をしたものをあげるのははじめてなので、どう思われるだろうか。『返事は不要です』と書いたので私は感想を受け取ることはないだろう。
とりあえず今日は送別会なので、三年生は全員出席する。今日を逃すと、先輩は明日以降も返事のために学校に来るかもしれない。引っ越しの準備などに集中すべきなのに。
受け取ってもらえますようにと願いながら、鞄をぎゅっと抱きしめる。そして、先輩と交換日記の受け渡しをしている靴箱の前で、両手に息を吹きかけた。手をこすり合わせてから、カバンの中から透明フィルムの袋に入れられたハンカチを取り出す。あまり仰々しくならないよう、それでいて淡泊すぎることのないよう、すみに小さなリボンシールを貼っている。そして、交換日記も忘れずに。
私の手先が小さく震えているのは、もちろん寒さのせいではない。
ぱっと入れて、すぐに立ち去ろう。
一瞬でも躊躇したら勇気が消えてしまう。
――よし、と靴箱に手をかけた。
けれど、なかなか決心がつかない。
私は、悩んでいるのだ。
それでも、と腹を据えて靴箱の扉を開けた。
「え」
空っぽの靴箱があるだけだと、思っていた。けれど、そこにはあふれんばかりのお菓子が詰め込まれている。何種類ものキャンディにラムネに焼き菓子にチョコレート菓子、和菓子まであった。
「な、なにこれ」
誰が、なんて質問は愚問だ。先輩しかいない。返事がないことを心配してお菓子を詰め込んだのだろうか。使用されていないとはいえ、靴箱にお菓子って。でも、そこが先輩らしいとも言える。
ぷっと噴き出してしまい、同時に緊張がほぐれた。
とりあえずこのお菓子をなんとかしなければノートを入れることができない。かといってカバンに入れられる量ではない。
どうしようかととりあえず目の前にある棒つきキャンディを手に取ると、そばに一枚のルーズリーフがあることに気づく。
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俺はななちゃんのこと好きだよ
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甘いもので元気出して
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「……なにそれ」
く、と喉が鳴る。
口元が歪む、そして泣きたくなる。
好きだと言ってもらえてうれしいのに、同じくらい悲しくなる。
先輩からの〝好き〟が、自分とは同じものではないから。そして、これは名前も顔も知らない〝ななちゃん〟への言葉で、そんな人にもやさしい先輩にとって、私も〝ななちゃん〟も同じくらいの存在なのではないかと思えてしまう。
――先輩の世界は私じゃないのに、どうして先輩は私の世界になるの。
「こんなに食べれないし」
ばらばらと落ちてくるキャンディーやチョコレート、クッキーを見て、涙を浮かべながら笑った。誰もいない靴箱に、私の涙混じりの笑い声が響く。
決心が、鈍っていく。
先輩を応援したいのに、自分の気持ちを殺してでも先輩のためになることをしたいのに、それができなくなる。したくなくなる。
ああ、私はそんなこと、したくないのだ。
だって、私は先輩が好きなのだから。
――『江里乃は深く考えすぎなんだよ。もっと自分に甘くならないと』
優子に言われたセリフを思い出す。
――『今の江里乃も、いつもの江里乃も、わたしはどっちも好きだよ』
希美が言ってくれた言葉が、蘇る。
――『江里乃は?』
自分を守っていただけの弱虫だったけれど、しっかり者として振る舞えた私。そして、ありのままの気持ちを受け入れたものの、それに振り回されてしまっている今の私。いい面と悪い面はどちらにもある。
つまり、どっちでもいいし、なんでもいいのかもしれない。
恋は、感情は、白黒はっきりつけられるものではないらしい。無駄だからと割り切ることも難しい。
――『考えた上での好きな行動なら、それが正解でいいじゃん』
私はどうしたいのだろう。
キャンディーの包装を剥がして、口に含んだ。甘酸っぱいいちごの味が口いっぱいに広がる。
――『誰を好きでもどうでもいいから言うしかないって想っただけ』
――『どうしようって悩むってことは、したいってことなのかなって』
身動きできないのは、悩んでいるからなのだろうか。決心してもすぐに心がゆらぐのは、そのせいなのだろうか。
告白なんて、したくない。傷つきたくない。怖い。無駄だ。
なのに、告白はしない、と決めることもできない。
先輩が好きだから。このまま気持ちを秘めて先輩を応援しても、先輩が卒業してしまったら、私と先輩のあいだにはなんの関わりもなくなってしまう。それが、いやなのだ。
「私、今の自分、すごくいやだな……」
まるで、ずっと真夜中に閉じ込められているみたいな気分だ。だから。
手にしていた交換日記とハンカチを、ポケットになおした。
「好きになりたい」
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今までありがとうございました
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先輩とこうしてノートで話せてよかったです
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私 告白しようと思います
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私、松本江里乃は
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二ノ宮先輩のことが 好きです
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今まで、どうしてみんな好きな人に告白できるのかわからなかった。両想いならともかく、気持ちがわからない相手に告白するなんて、博打みたいなものなのではないかと思っていた。
でも、今なら少し、わかる。
正直、この告白はなんて無意味なことなのかと思う。それでも、伝えることを選んだ途端に、気持ちが軽くなった。
――と、思う。
今すぐ決断をなかったことにしたいくらい緊張しているけれど。
ポケットの中に手を入れて、送別会の日に渡すのをやめたハンカチとともにノートに触れて心を落ち着かせる。
はじめから、私はずるかったんだ。
先輩が私のことを好きだから、自分の気持ちを受け入れたり。先輩が告白してくれたら交換日記のことを伝えようと思ったり。違ったからと、このまま名乗らずに終わらせようとしたり。
相手に任せて自分が傷つかない、楽な道ばかりを選んでいたんだ。
先輩は、私のことを「真面目で、しっかり者で、いつも自分のことより人の気持ちを考えることができて、やさしい」みたいなことを言ってくれた。ウソをつかない、とも言ってくれたっけ。
けれど、実際の私は先輩のイメージからはほど遠い。
いつも悩んでいたのに、それを誰にも訊かなかった。本当は吐き出したい弱音を呑み込んで、正論を身にまとっていた。そうすることで、自分は強いのだと、そう信じていた。
本当の私は、この交換日記の中の〝ななちゃん〟だった。
あんなに褒めてくれたのに、先輩の見ていた私はウソばかり。すべてを伝えたら、先輩は私に幻滅するだろう。ウソをついて交換日記をしていたことに怒るかもしれない。もしくは、落胆するかもしれない。もしかしてもしかすると、それほど私に興味がなく、あっさりと受け入れてくれるかもしれないけれど、それもそれで切ないものがある。
でも、決めたんだ。
自分のことを嫌いになる前に、区切りをつけようと。
それができたら、もう少し私は自分を好きになれる気がする。
今までの私と今の私を、見栄を張っていた自分と〝ななちゃん〟を。
わたしは今日、卒業式予行練習のあとで先輩に面と向かって伝える。
恐怖はあっても、迷いはない。
先輩は、あれから一度も学校には来ていないようだった。おそらく、忙しくなったのだろう。そのあいだにもしかしたら告白のイベントを終えて恋人と過ごしているのかもしれない。そう思ったけれど、たまたま顔を合わせたときに澤本さんは「さすがに遊んでられなくなったんじゃない?」と言っていた。先輩の好きな人が澤本さんであれば、告白はまだのようだ。別の人なら、お手上げだ。
ただ、そんなことは気にしても仕方ない。
けれど、今日は卒業式前日の予行練習日だ。さすがに今日は先輩も学校に来ているようで、遠目からあのカフェオレ色を見かけた。
二時間目に行われるので、在校生は出席せずに自習になる。けれど、生徒会役員は役割があるので三年生と一緒に予行に出ることになっていた。私がすることは、壇上にいる校長先生のもとに卒業証書を運ぶことだ。あとちょこまかと指示を出したり案内したり。
予行練習は一時間もかからない。先に三年生が退場するけれど、すぐに追いかければ先輩と話す時間はあるだろう。そのタイミングで追いつかないと、三年生はすぐに帰宅してしまう。そんなことになったら、明日の本番しかチャンスがない。明日にそんな時間があるとも思えない。
つまり、今日しかないのだ。
ポケットの中を確認するように何度もスカートの上から手を当てる。
入場からの練習なのですでに体育館にいる生徒会や吹奏楽部の準備が整うと、後ろの扉から卒業生が入ってきた。その中に、二ノ宮先輩の姿を見つける。ひとり、浮くほど明るい色をしているので誰よりも目立っている。桑野先生は鼻にシワを寄せて、肩をすくめていた。
生まれてはじめて告白する時間が、刻々と迫ってくる。目を閉じてイメージトレーニングを繰り返す。もちろん、結果も。
断られたあとに泣いてしまっては先輩が気を遣う。なんでもないことのように受け取らなくては。決して涙をこぼしてはいけない。そのためのイメトレだ。
全員が体育館に入ってくると、司会役の教師が仰々しい声を出した。開式の辞、国歌・校歌斉唱、卒業証書授与、と続いていく。私の役目を終えて、指定の席に座った。先輩は大きな欠伸をして、眠そうな顔でけだるそうに座っている。
卒業証書授与に半分ほどの時間を費やし、残りは式次第をマイクで伝えるだけで予行練習は終了だ。
卒業生退場、という声と同時に吹奏楽部の演奏がはじまる。そして、三年生が一斉に立ち上がり、順番に入場のときに通った道を戻っていく。
「ちょっと、先にすみません」
最後のひとりが出て行くのと同じタイミングで、隣にいた関谷くんに声をかけてこっそりと体育館のうしろに移動した。演奏が終わり解けていく緊張の中を駆け抜ける。
外に出ると、体育館のまわりにはまだ三年生があふれていた。思いがけない人の波に、先輩の姿を見つけ出すことができない。おまけに吹奏楽部もぞろぞろと体育館を出てくる。
「すみません」
人の波をかき分けるように、先輩の姿を探す。人混みの中央まで移動してきょろきょろとあたりを見渡すけれど、あのカフェオレ色がない。見落としてしまったのだろうかと方向転換をする。
と、中庭のベンチに座ってぼんやりと宙を眺めている先輩を見つけた。隣にはギターケースがある。体育館で見かけたときにはなかったけれど、すぐに教室から持って出てきたのだろうか。
なんにせよ、中庭という場所はありがたい。話をするのにうってつけだ。
「せん――」
渡り廊下に飛び出て呼びかけようとした声が、すうっと力なく萎んでいく。
空を見ていた先輩の顔が、誰かに向けられる。よう、と気さくに手を上げる彼に近づいていくのは、澤本さんだった。
まるで、待ち合わせしていたみたいに、自然にふたりが並ぶ。先輩はすっくと立ち上がると置いていたギターケースをつかんで肩にかけた。そして、どこかを指さしてともに歩いていく。
先輩が告白しようとしていた日は、今日だったのか。
壁に手を当てて、一歩遅かった自分に気づく。
先輩は、今からずっと好きだった人に告白をする。そのために曲を作り、歌詞を考えていた。なので、応援しなければいけない。先輩がどれほどの勇気を持って決意をしたのか、今の私にはわかる。
でも。
去って行く先輩は、人混みの中に溶け込んでいく。
「――二ノ宮先輩、好きです!」
気がついたら、声を張り上げて叫んでいた。
その直後、時間が止まったかのようにあたりがしんと静まりかえる。さっきまでの喧噪が遠く彼方に飛んでいく。
視線の先にいた先輩が、振り返り瞬きを忘れたように私を見ていた。彼の双眸は、私をしっかりととらえている。
……私、なにを言った?
だらだらと汗がものすごい勢いで流れ落ちていく。考えが吹き飛んで、口だけが動いていた。勝手に、口が。こんな人前で、私はなにを。そこまでの決意はしていないはずだ。
先輩が、動く。それを見て私の足がじりっと一歩下がった。近づく先輩に合わせて、私は後ずさっていく。まわりの人の視線が私にびしばしと突き刺さる。
ここにいては、だめだ。
――逃げよう!
踵を返し、一気に駆け出す。
なんで、こんなことになってしまったのか。当初の予定と、私の計画と、まったく違う。なんであんなことをしてしまったのか。
ただ、いやだと思ってしまったのだ。
ふたりがつき合うかもしれないことに。
ふたりが結ばれたあとに告白しなければいけないのかと思うと、頭が真っ白になってしまった。だからって、こんな人がたくさんいるような場所で告白するのは血迷ったとしか思えないけれど。
この状態で逃げ出す自分のへたれ具合が憎たらしい。でも、どういう顔をすればいいのかわからない。ちょっと小一時間ほどひとりで反省会をさせてほしい。
「江里乃ちゃん!」
背後から聞こえる私の名前に、血の気が引く。
もうやめて、私の名前を呼ばないで、さっきのことは記憶から消して、今すぐ私を忘れてほしい。次こそちゃんとイメトレをしたとおりに告白をするから。むしろそうさせてほしい。殴ったら記憶喪失になるだろうか。
人をかき分けて、どこに逃げたらいいかを考える。
このまま二年の教室に向かえば、それこそ大惨事になってしまう。でももう、階段にさしかかっていて、突き進むしかない。
二段飛ばしで階段を駆け上がろう、と踏み出す。
あの秋の日から
きみは僕の世界になった
空に 水色に濡れた彼女の横顔が浮かぶ
きみは僕に怒って 僕は君に笑った
この恋の潮時から目をそらして
うそつきな人を
僕はただ好きでいたいと願う
歌声に、足が止まる。聞き覚えのある文章に頭の中が真っ白になった。
ゆっくりと振り返ると、先輩が歌いながら近づいてくる。突然のことに、まわりも騒然とする。そしてなぜか、先輩の行く道をあけていく。
ギターは、まだケースに入れたままで、アカペラで、ただ大声で叫ぶような歌だ。私に届くように、それだけのために歌っている。でも、どこかで聞き覚えのあるメロディだ。
先輩が、私を見据えたまま歩み寄ってくる。
……なんで、今歌うの。
その歌は、なんのために、誰のために、あるの。
「なんで」
「……ここまでしても気づかない?」
目の前に立って私を見下ろす先輩のまなざしは、あたたかかった。
気づいてもいいのだろうか。うぬぼれてもいいのだろうか。今度も勘違いだったら、もう立ち直れないかもしれない。
「先輩、私のこと、好きなんですか?」
ぐるぐると頭の中に感情があふれてくるのに、口をついて出る言葉は意外なものだった。告白といいこの質問といい、考えていることと体がまったくちぐはぐだ。
「うん、好きだよ」
あっさりと、先輩はそれを認める。朗らかな笑みを浮かべて「俺、江里乃ちゃんのことが好きなんだ」と繰り返した。
先輩が、私のことを。
つまり、交換日記で言っていた〝好きな人〟は私のことだった。
「ウソ!」
「なんでだよ」
先輩がすかさず突っ込みを入れる。
「だって、違うじゃないですか。私、全然違います。素直で一生懸命で、隠しごとができないくらい馬鹿正直って、言ってたじゃないですか。でも、私は」
自分で言いながら、悲しみがこみ上げる。
うれしいのに、喜べないことが苦しくて仕方がない。
スカートの中にあるノートとハンカチを、服の上からつかんだ。
そんな私に、先輩は「バカだな」と一笑する。そして、私の頭に手をのせた。
「江里乃ちゃんは、素直で一生懸命で、隠しごとができない馬鹿正直者だよ」
「……違います。私は、ずるくてうそつきで、弱虫で頑固でプライドが高くて、先輩の好きな人とは似ても似つかないです」
「そんなことないと思うけどな。自分では気づかねえの? 〝ななちゃん〟」
……〝ななちゃん〟
先輩は私に向かってそう言った。目を見張り先輩を凝視する。なんで、今ここでその話が出てくるのか。なんで。なんで。
混乱している私をあざ笑うかのように、先輩が口の端を持ち上げる。
「ほら、江里乃ちゃんは素直で一生懸命で、隠しごとができない馬鹿正直者だろ」
「いや、意味が、わかんないんですけど」
先輩は頭にのせていた手を、私の手に移動させる。そして、腰を折って私と目の高さを合わせた。先輩の瞳に、目を瞬かせている私が映っている。先輩が言うには、素直で一生懸命で、隠しごとができない馬鹿正直者の、私が。
わからない。
全然わからない。
なのに――うれしい。
「抜け駆け禁止だって、言ったのに」
涙で視界がはじける。
こぼれる涙を隠すように、先輩の胸板に倒れ込んだ。先輩は、それを抱きしめて受け入れてくれた。仕方ないなと、そう言って。
私の世界が、先輩になる。
私たちを祝福する口笛と拍手と歓声が、どっと上がった。
あのあと、私と二ノ宮先輩は桑野先生からたっぷりと泣き言を聞かされた。小言ではないところから、桑野先生の精神状態が垣間見えた気がした。
なんでそう騒ぎを起こすんだ、松本までなんでなんだ、明日で卒業なんだぞ、卒業式でもなにかをするつもりなんじゃないだろうな、と桑野先生はとにかくそれを繰り返したのだ。今にも泣きだしそうなほど顔をゆがめて。まわりの先生たちは、青春だねえと言いたげな生ぬるい視線で私たちを見ていた。
そしてもちろん、私はそのあと一日中全校生徒の注目を集めた。希美と優子には根掘り葉掘り訊かれて、また頭の整理ができていないので勘弁して欲しいと頼み込んだ。
本当に、なんでこんなことになっているのだろうか。
「悪いことしたな」
ぶはは、と先輩は思い出し笑いをする。
放課後、私の授業が終わるのを待っていてくれた先輩と一緒に先輩の家に立ち寄った。誘われるがまま来てしまったけれど、これってふたりきりなのでは。
前にも来たけれど、あのときは先輩が体調不良で仕方なく、だ。
でも、今はつき合っている(と思われる)状態。いいのだろうか。いや、悪くはないのだけれど。家族が誰もいない家に、交際初日にお邪魔するのはどうなのか。
先輩の部屋で、ぐるぐるとショート寸前のまま考えていると、先輩は「はい」と私になにかを手渡してきた。
「これ……」
先輩が描いてくれたイラストだった。前にスマホで見せてくれたものだ。画像で見るよりも遙かにきれいな色は、紙から飛び出してきて私の世界も明るくさせる。
「この前放課後に誘った日、これを渡して告白するつもりだったんだよ」
「あの日?」
私が、先輩を拒否した日だ。
まさか、だって、そんなの。
「完璧なシチュエーションをイメージしてたのに、急に応援するとか言うから、俺のこと気にしてくれてると思ったのは勘違いだったのかと思った」
それは、私の気持ちも気づかれていた、ということなのだろう。
あの日から、お互いにすれ違ってしまったようだ。私のせいで。
「……いつから、気づいていたんですか」
私の気持ちも、交換日記の〝ななちゃん〟が私だと言うことも。訊きながらおずおずとノートとハンカチを取り出した。先輩はそれに手を伸ばし、「けっこうはじめから」とあっさりと答える。
「なんで」
「汗かいてるよ、江里乃ちゃん」
この真冬に汗はかいていないと思うけれど。
突然脈絡なく意味のわからないことを言われた。冷や汗のことを言っているのだろうかと思っていると、先輩はズボンのポケットからハンカチを取り出し私の額をそっと拭う。
言動をいぶかる私に、先輩はハンカチを広げて見せる。
水色無地のハンカチだ。そのすみに、白い生き物の刺繍が入っていた。
犬の刺繍だ。けれど、うまくできなくてプードルみたいになってしまった、もこもこの生き物。中学のころに作って失敗した、私のものだ。
「刺繍をするって書いてたときにもしかしてって思ってたよ。江里乃ちゃんかもって思えば、書いてること完全に江里乃ちゃんだなって。こないだも、江里乃ちゃんには好きな人がいること言ってないのに応援するとか言われたし」
そういえば、そんなことを言ったかもしれない。
いや、そもそも。
「なんで、これを? なんで、私の趣味を……」
「江里乃ちゃんが、はじめて話したとき にくれたんだよ。汗をかいている俺に『汗を拭かないと風邪引きますよ』って」
そんな、些細なことで?
汗だくの先輩は覚えているけれど、ハンカチを渡したことは記憶になかった。
「これが、ノートを落とした日に、なくしたハンカチ」
「え、これのことだったんですか? っていうか、本当だったんですか。ノートをごまかすためかと思ってました」
「このハンカチはノートよりも大事だから」