ハンスと出会ってから一ヶ月半後、僕が宿泊しているオーベルジュ・ラブーに彼が訪ねてきた。秘密を話したあの日、ここの三階を間借りしているからいつでも来るといいと彼に伝えておいたので、ハンスが姿を見せたこと自体は不思議には思わなかった。だが、秘密を知ったあの時の彼の顔といえば、真っ青でショックを隠しきれない様子だったものだから、彼が訪ねてきたことに関しては、とても驚いた。彼の顔を見たあの瞬間、もう彼と会うことはないのだろうと思っていたものだから、嬉しくはあったが……。
椅子に座って僕の入れた茶を一口飲むなり、神妙な面持ちでハンスは口を開いた。
「もし、死ぬことなく評価される方法があるとしたら、セントはどうしますか?」
僕は眉を潜めてハンスの瞳を見る。そんな上手い話があるわけがない。とても怪しい。
「死体を譲って頂くのです」
「ゴッホォ────⁉︎」
来て早々、突拍子もないことをハンスが言い出したものだから、口に含んでいた茶を吹き出してしまった。むせて咳き込むのが落ち着いてから、どういうことだ、と聞けば死体を偽装してあたかも僕が殺されたかのようにしてしまえばいいと、わけのわからないことをハンスが言い出した。
「死者に対する冒涜ではないか!」
「死体といっても、まだ死んでいません」
「どういうことだ?」
死体は死んだ人間のことだろ、と首を傾げる。
「あと一週間前後でお亡くなりになるホームレスに許可を得て、医者にも話を通しています」
「医者?」
「医者のアーサー・コナン・ドイルです」
アーサー・コナン・ドイルといえば、緋色の研究を書いた作家ではなかったか?
「彼は医者もやっているのか?」
「医者も、ということは緋色の研究をご存知なのですね!」
「読んだことはない。ピートン・クリスマス年鑑に掲載されていただのとちらほら噂を耳にしたぐらいだが。そうか、医者もやっていたのか」
驚いた。医者と作家の両方か、随分と多才な人物のようだ。テオに頼りきりな僕とは違うな。そう思うと、少し気分が沈んだ。
「報酬はセントの描いた絵と言っています」
「いや、ちょっと待ってくれ。僕はまだやるとは言っていない」
「すでに二人、外で待機してるんです」
「秘密をバラしたのか⁉︎」
とんとん拍子で一方的に進んでゆく話に焦りと興奮のあまり、僕は勢いよく椅子から立ち上がり、大きな声を出した。
「いいえ。わたしはセントに必要なのが死体だと言っただけです。セント、貴方がこの先どうするかは、彼らと話してみてから考えてください」
しばらくして、ハンスを含めた三人が部屋に入ってきた。ひとりは、七三分けの黒髪に二又に分かれて整った髭が特徴的な中肉中背の男だった。
「はじめまして、フィンセント・ヴァン・ゴッホと申します。セントと呼んで下さい」
「ご丁寧にどうも。私は、アーサー・コナン・ドイルと申します。私のことはアーサーと」
握手をかわして視線をもうひとりに移した。
「貴方は───」
驚きで開いた口が塞がらない。そのホームレスは僕の知っている人物だったから。
「やぁ、セント君。久しぶりだね」
彼は、ジャック。暇つぶしだと言って僕の絵をよく見にきていたホームレスの男だ。
「なぜ、貴方がここに?」
「セントのファンで貴方の役に立てるなら、死後死体を好きにして欲しいと許可を得ました」
「なんだって⁉︎」
まぁまぁ落ち着け、とジャックが僕の両肩を優しく叩いた。
「合意の上だよ。俺はどうやら病気らしくて、貯金していた金、すべてを使って診療所で診てもらったんだが、治療しても治らないと言われてしまったよ。だが安心してくれ、感染するものではないと言っていたよ。もちろん、報酬は頂くよ」
ジャックがにやりと不気味な顔でこちらを見てくるので、僕は彼から二歩後退し、続く言葉を待った。
「俺を看取ってほしいんだ。俺がその日まで生きていたということを知っていてほしいんだよ」
とんでもない要求をしてくるのではと思っていたので、僕は彼の意外な要求に拍子抜けし肩の力を抜いた。
「僕は、まだやるとは。それに、看取るくらいならこの件を受ける必要ないだろう。看取ってほしいなら僕は看取る」
「合意の上だと言ったはずだ。俺がそうしたいからするんだ。どうせ死ぬなら役に立ってから死にたいってもんだ。いや、この場合は死んでから役に立つ、だな」とジャックがいつもの調子でからからと笑った。
「私もそうだ。私がやりたいと思ったからこそ、ここにいる。まぁ、どんな事情を抱えているかは知らないんだがね」
アーサーが人の良さそうな顔で僕を見てきた。
「セント、あとは貴方がどうしたいか言えばいい。セント、わたしはしたいことをしているだけだ。だから、見返りを求めているわけではないよ」
三人は「自分がやりたいからやっているだけだ」と主張する。その言葉の裏に、僕の力になりたいという想いが込められているのだと知った。
あたたかい……。
胸の辺りのシャツをくしゃりと掴んだ。なんて幸せなのだろう。僕のために動いてくれる人が三人もいる。ぬくたい雫が頬を伝うのを感じながら、僕はきゅっと結んだ口を開いた。
「僕は─────」
それから僕はテオへの恩返しのために名をあげたいとふたりに話し、協力を得ることになった。
一週間が経とうとしていたとき、ジャックは息を引き取った。
息を引き取る直前、「有名人のセントとして死ねるんだ。こりゃ光栄だぜ」と意地悪そうな笑みを浮かべていつもの調子でジャックが話した。死ぬ間際だというのに、そんなことを言うものだから彼につられて僕は笑ってしまった。
そして、ジャックは安らかな眠りについたのだった。
七月二七日に僕は、オワーズの麦畑で金を渡していたふたりの少年と待ち合わせをしている。それまでに何とかしなければならない。彼らは銃を持っている。その日、僕の姿をひとめ見れば銃口を向けてくるに違いない。僕は死人になりすますために、オーベルジュ・ラブーを後にした。
ジャックを看取ったこの場所は、オワーズの麦畑近くの林の奥にひっそりとある廃屋。事前にジャックの姿を僕に偽装するためのものがここに置いてある。骨格を似せるために必要なメスや注射器といった医療器具、髪を染めるための毛染め、肌質を似せるための化粧品などだ。
ジャックの背丈や肩幅は僕と似たような感じだが、ジャックの頬は痩せこけているため、脂肪を注入することになりアーサーが担当した。また、皺の数を数本増やせば、ぱっと見僕に見えなくもない。次に髪を赤っぽく染め上げた。僕は最後に化粧を施すことになった。化粧も絵具も同じだろうとジャックのやや黒めの肌を手でシュッシュッと塗りたくってゆく。僕の顔は丁度ハンスとそっくりなので彼を見本にすることになった。
上手くいかないものだな、と首を傾げながらやっていると、とんとんと肩を叩かれて後ろを見ればハンスの困惑した表情がそこにあった。
「セント……一体なにをやっているんだい?」
「僕に似せるために化粧をしているだけだが」
見ればわかるだろうという思いを込めてハンスを見返せば、ハンスとアーサーは互いの顔を見やって苦笑した。
「流石、芸術家というべきだろうか……」
「セント、貴方は化粧をしているのではなく、まるで絵を描いているようだ。化粧は粉が余ってはならない、伸ばすんだよ。粉が顔に集まった女性はそこらを歩いてはいないだろう?」
その言葉で冷静になり、ハンスからジャックへと再び視線を移せば、これはないなと納得できた。
人を作品にしてどうする、と一度僕は頭を抱えて切り替えると、再び手を動かしたのだった。
今日は、七月二七日すなわち約束の日だ。オワーズの麦畑にキャンパスや絵具を置いて、側にジャックを座らせ、あたかも居眠りをしているかのような姿勢をとらせた。
僕を含めた三人は茂みに隠れて少年たちが現れるのを待った。二時間ほど経過して、辺りに人がいないだろうかと慎重に歩いてくる少年が姿を現し、ジャックに近づいて至近距離で銃口を向け放った。バンッという大きな音を合図に、ふたりの少年は走り去っていった。ジャックの身体は、弾が貫通した衝撃でドサリと音を立てて横へと倒れた。
少年たちの足音が消え、他に人がいないのを確認した僕たちは、ジャックの身体とキャンパスと絵具のセットを抱え、急いで廃屋へと戻った。死亡推定時刻をずらすために暖炉であたためるためであった。
それから、二日後の二九日になった。アーサーは伝手の診療所にジャックの遺体を運び込んで死亡を確認した。しばらくして、弟のテオが駆けつけて確認しにきたという。テオは泣き崩れ、妻に支えられながら一度家に帰ったようだ。
アーサーは、たまたま観光に来て歩いていたら、人が横たわっていたので、伝手の診療所までどうにか運んだが、すでに死亡していたのだと説明したそうだ。アーサーと僕に、もともと接点などなかったので、警察に疑われることはないだろう。
アーサーがジャックの死亡手続きをしている間、ハンスと僕はオーストリア東部にあるウィーンに向かうこととなった。そのため、アーサーからテオの話を聞いたのは二週間が経過し、合流してからのことだった。
ウィーンに来たのは、アーサーが医者として眼科への転向を目指して眼の研究をするためここにくる必要があったのだ。そして、それにハンスと僕がついて行ったのは、ほとぼりが冷めるまで同居するといいというアーサーの提案によるものだった。
ハンスとアーサー、それからジャックには感謝してもしきれない。だが、僕のやっていることは正しいのか、とふとしたときに不安が襲いかかってくる。
僕にできることは、絵を描くことだけだ。一心不乱に絵を描き続け、一ヶ月が経過した。ハンスは絵を描くことが趣味らしく、僕の隣でよく描いている。つい気になって、彼の絵に口出ししてしまうことがあったが、彼は嫌な顔ひとつせずに「なるほど、そういう風な考えもあるのですね」と受け入れてくれた。それがとても新鮮で、純粋に楽しかったし嬉しくもあった。
ゴーギャンとは大違いだ。彼の絵に口出ししようものなら言い争いになってしまうものだから、絵を楽しく描くことなんて出来やしない。
アーサーは眼の研究をする一方で、僕の回顧展を実現しようと、ポール・デュラン=リュエルをはじめとした絵画を取り扱う美術商に呼びかけてくれ、国境を越えて様々なところで展示会が行われることとなった。資金集めには、ハンスも手助けをしてくれたらしく、目頭が熱くなった。
それから三ヶ月が経過し、評価されて高額で絵が引き取られるようになった頃、僕はテオのいる家へ戻ってきた。十二月ともなれば風がとても冷たく、布から剥き出しになった顔が少し痛い。
「兄さん!」
「────⁉︎」
家のドアノブに手をかけると同時に背後から僕は抱きしめられた。振り返ればそこにはテオがいた。涙がこみあげてくる。
「会いたかった……テオ。すまない、心配かけたな」
向かい合わせになってテオを抱きしめそう言えば、テオは俯いたまま首を横に振って顔をそろりとあげた。
「事情はアーサーさんから聞いてる」
「なっ⁉︎」
アーサーがばらしたのか⁉︎
「兄さん、どうかアーサーさんを責めないでやってくれよ。兄さんは、ぼくが身体が弱いことをアーサーさんに言ったのだろう? 身体の弱い人は心も弱くなっていくから、ぼくが兄さんの死によって自分を責めて弱ってしまわないようにと話して下さったんだよ」
「そうか……」
一瞬でもアーサーに怒りを覚えてしまった自分が恥ずかしくなった。
冷静になってみれば、意味なくそのようなことをする人ではなかったな……。
「兄さん」
「なんだ?」
「兄さんからの"恩返し"しっかり受け取ったよ! 有難う」
そう言って、僕に向けられたテオのはじけるような笑顔を見て、ようやく報われたのだと実感した。
家から少し離れたところで待機していたアーサーとハンスに報酬の自画像絵の他、ひまわりの絵をプレゼントした。
ひまわりの絵に込めた意味は、"純粋な気持ちであなたに尽くそう"だ。
ふたりとはここで別れ、僕はテオとともに暮らすことになった。僕は生涯、亡霊の画家としてテオを支えてゆこうと思う。
三年後、テオは体調不良で入院することとなったが梅毒による麻痺性痴呆と診断され、精神病院に移ることになった。それから、一ヶ月後にオランダのユトレヒト近郊にある診療所へ移り、療養を続けていたが、身体が弱く体力のないテオは、三ヶ月が経過した頃に亡くなり、三十五年という命を終えた。テオは埋葬されて、ユトレヒトの市営墓地に眠ることとなった。
テオが死んだ今、亡霊の画家としてテオを支える意味はなくなったが、僕といえば絵を描くことをやめられないので、亡霊の画家として稼いだお金でキャンパスや絵具を買っては絵を描く日々だ。
アーサーとはいまも繋がりがあり、度々手紙が家に届く。眼の研究を頑張っていたものの、眼科医資格は取得できなかったそうだ。無資格ではあったが、研究してきた分の知識はあったので眼科診療所を開業したものの、患者はほとんど来ず、小説家一本で活動することになり、引っ越しをしてイギリス=ロンドン=サウス=ノーウッドに住んでいるらしい。小説を書くようになったのは、医者として活動していても患者がほとんど来なかったため、副業として執筆するようになったからだという。
結果、シャーロック・ホームズシリーズが大ヒットしたわけだが、複雑な心境だったそうだ。彼は、ミステリー作家としてではなく歴史小説家として有名になりたかったようなのだ。提案として、僕たちの歴史を書いてみてはどうだろうかと半分冗談で伝えてみれば、"前向きに検討してみよう"と返ってきたので、思わず目を丸くした。彼はよっぽど歴史小説家になりたいようだ。
ハンスとも文通をしていたのだが、とっくに彼からの手紙は届かなくなってしまった。彼から届いた最後の手紙には、こんなことが書かれていた。
"セントに出会えて本当によかった。これから先ずっとわたしが貴方のファンであることに変わりない。わたしはやりたいことができたので、セントとの楽しい文通はこれで最後になるだろう。すまない。良い思い出を有難う"
一体、なにをするのだろうかと、とても気にはなったし、寂しくもあるが、彼のやりたいことを精一杯応援しようと思う。
僕は今、フランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズにあるオーベルジュ・ラブーの三階をまた間借りしていた。
最近までは、テオの墓地を離れられずにいたが、時間をかけてようやく立ち直りつつあったので、またフランスへと戻ってきたのだ。ここへ来たのは、オーベルジュ・ラブー近くで描いていた『木の根と幹』を完成させるためだ。もちろん、死ぬつもりで描いているのではない。中途半端な作品を放ってはおけないのだ。
筆を置いて、描いた絵を見つめる。遂に完成したのだ。
すると、僕の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れて膝を濡らした。脳裏に浮かぶはハンスの顔だった。きっと彼がいなければ、僕はもっと早くのうちに死んでいただろうし、自分が有名になることを知らなかったに違いない。彼と話すことが楽しかった、彼とともに絵を描き僕の意見を受け入れてくれたことが心地よくとても嬉しかった。アーサーもジャックも僕にとってかけがえのない存在で恩を感じている。
しかし、彼は、ハンスは僕にとって遥かに特別な存在だった。ハンスは僕にとって親友なのだ。
僕は、絵具やキャンパスを片付け、オーベルジュ・ラブーに戻ってすぐ、アーサーに手紙を書いた。
"ハンスは僕にとって親友のような存在だ。僕は、彼ともっと話をしたいし、一緒に絵を描いたりしたい。彼の最後の手紙によれば、やりたいことが見つかり、もう文通は続けられないと言っていた。文通が難しいならば、こちらから会いに行こうと思うのだが、ハンスはいまどのような状況だろうか。わかる範囲で教えてほしい"
医者だと言って、アーサーを連れてきたはハンスであるから、長い付き合いなのではと手紙を出した。一体、どう返って来るだろうか。
しばらくして、手紙が来た。差出人は"アーサー・コナン・ドイル"からだ。
"少々ややこしい話になってしまうので、直接会って話をしたい。オーベルジュ・ラブーの場所は覚えているから、そちらを訪ねる。私は手紙を出してすぐ、そちらに向かうため家を出ているので返信は不要だ"
「ややこしい話? 何か良からぬことに巻き込まれたのだろうか……」
不安と心配でそわそわしながら、僕はアーサーを待ったのだった。
ドアをノックされたので、誰かと思い開けてみれば、見知った人物がふたり部屋に入ってきた。
「アーサー! ハンス! 久しぶりだな」
まさか、ハンス本人が来てくれるとは思わず、胸が躍り、笑みがこぼれる。
「セント、ハンスとの再会を喜ぶより先に、私たちの話を聞いてほしい」
普段より一段と低い声は、部屋の空気を気まずくした。だが、そうアーサーが言うのだからよっぽどの理由があるのだろうと、とりあえず椅子に腰掛けることにした。
縫い付けたように閉まったアーサーの口が重々しく開かれる。
「ここにいるハンス・ローガン・エバンズはセントの知る人物とは違うんだ」
その言葉の意味がわからず、僕は唖然とした。質問したいという衝動を堪えて、とりあえずアーサーの話を全部聞こうと耳を傾ける。
話を聞けば、ハンス・ローガン・エバンズに憑依していた男がいて、その男の名を生鷹士郎というらしい。士郎は時間跳躍という超能力を操り、未来から来てすぐハンスの身体に憑依したそうだ。
来た理由は、ファンである僕に会い、歴史を変えることで、僕を生かし多くの作品を生み出してもらうことだった。彼のいた未来で僕は世界的に有名な画家として知られているようで、寿命は三十七歳でとっくに終わっていたらしい。
「そうなのか……」
「信じるのか……?」
「普通は信じられない話だろうが、アーサーと出会う前に彼と話したことがあってね。あの時は、彼のことをただの付き纏いだと思っていたが、そうか、それで僕のことを知り尽くしていたのか……」
あの時、彼に抱いていた小さな疑問が解消されてすっきりした。
「ところで、きみは僕を知っているのだろうか?」とハンスに視線を向けると、彼は首を縦に振った。
「はい、なんとなくではありますが、貴方と過ごした時間を覚えています。記憶の所々にもやがかかっていますが……」
「そうか……彼は、今もきみの中にいるのか?」
「恐らく"いない"と思います。貴方に最後の手紙を出してすぐ、身体から何かが抜けていく感覚とともに、"ありがとう。すまなかったね"という声が聞こえたんです。だから、彼は未来に戻ったんだと思います」
「もう、会えないのか……」
再会が叶わぬことを知り、悲しくて僕は目を伏せた。
「それは、どうだろうか?」
そう言った彼に、どういうことだと詰め寄ってみれば士郎はもともと、時間跳躍の能力は持っていなかったらしい。僕の絵を抱きしめ僕に会いたいと強く願って寝ていた夜に、女神様が夢に現れて、力を授けてくれたようだ。にわかに信じられない話だが、女神様の気まぐれで、その力を得たという。だが、時間跳躍を使うためには寿命を代償にしなければならないようだ。
「ならば、僕も士郎と同じことをすれば、彼にもう一度会えるかもしれないってことだな」
「寿命を削るんですよ? 未来へ行ってまた、ここに帰って来れるとは限らない」
「セント、貴方が士郎を大切に思うように、私たちだって貴方を大切に思っている。それを、どうか忘れないでほしい」
「そうです。確かに自分は憑依されていただけではありますが、貴方と過ごした時間はちゃんと覚えているんです」
心配そうにこちらの顔を覗き込む彼らの表情を見て、不謹慎にも僕は嬉しくなってしまった。こんなにも、僕のことを大切に思ってくれている。
「ありがとう。だが、僕の中で彼の存在はとても大きく、彼のことを僕は親友のように思っている。絵を描いていると彼の顔が思い出され、また彼と絵を描きたいと願うほどだ。士郎がいなければ僕はとっくに死んでいた存在。一度はテオのために捧げた人生を、今度は自分のために使いたいと思う」
その日の夜、僕は士郎がオーストリア東部のウィーンで描いていたときの絵を抱きしめ、眠った。
「ここは……」
先ほどまでベッドで眠っていたはずなのに、僕はいつのまにか士郎の絵を片手にひまわり畑に立っていた。
「こんにちは」
背後から声がしたので振り返ってみれば、光を纏う神々しい女性がそこにいた。
「驚かせてしまい、大変申し訳ございません。私は人々から神と呼ばれる存在でございます」
神と名乗る女性は恭しく僕に礼をした。
「貴方様が士郎に時間跳躍の力を授けた神様でしょうか?」
「いかにも」
「僕にもその力を授けて頂くことは出来ないでしょうか」
「代償は"寿命"ですよ? 力に寿命を奪われた結果、残りの寿命が一週間になってしまうこともあるのですよ。それに加え、過去から未来へ行く場合、膨大な量の力を消費するため、二度と過去へと戻って来ることはできません。それでも、力がほしいですか」
「はい、どうか僕に力をください。女神様」
一切の迷いはなく、深く腰を折り曲げて女神様に願った。
「良いでしょう」
腰を上げて女神様を見れば、優しく微笑んでくださった。
「貴方の覚悟と決断、しかと受け取りました。目覚めた時にはすでに力が宿っていることでしょう。心の準備ができ次第、強く願いなさい」
瞬間、真っ白で眩い光にあたり一帯が包まれ、僕は目をつぶった。再び目を開くと、いつもの天井がそこにあり、僕はベッドに横たわっていた。窓から外を覗いてみれば、まだ朝日が昇っているところで、僕は重い腰を上げて便箋を一枚用意し、アーサーとハンスへの手紙を書いた。
そして、僕は士郎の絵を抱きしめ、目をぎゅっとつぶって強く願った。
"僕は士郎に会いたい"と。
午前八時頃、セントを朝食にでも誘おうかとオーベルジュ・ラブーの三階を訪れた。しかし、いくらノックをしても返事がないので、外出中だろうかと思いながらドアノブをまわしてみれば、鍵がかかっていなかった。無用心だなと思いつつ部屋へと入ってみれば、やはり彼はいなかった。
テーブルの上に一枚の紙がぽつんと置かれており、気になって近づいて見てみれば、便箋だった。そのはじまりに"親愛なるアーサーとハンスへ"と書かれていたので、ハンスと一緒に読むことにした。
"親愛なるアーサーとハンスへ
この手紙を読んでいるということは、僕はもうここにはいないのだろう。別れの挨拶もなく、消えてしまったことを申し訳なく思う。昨夜、きみたちの言ったとおりにして眠ってみれば、夢に女神様がおいでくださった。そして、代償が寿命であること、未来へ行く場合には過去へは二度と戻ることはできないということを知った。しかし、僕には一切の迷いはない。僕のことで色々振り回してしまって、すまない。こんな僕のために必死になってくれて有難う。頼もしい友人を得たことを、心の底から嬉しく思う。さようなら。きみたちの幸せを心から願う。
フィンセント・ヴァン・ゴッホより"
「行ってしまわれたんですね……」
「あぁ……」
私たちは突然の別れに年甲斐もなく涙をぼろぼろと流してしまった。永遠の別れは悲しい。しかし、セントは死んでしまったわけではない。彼が未来で幸せになれるよう、止まらぬ涙を何度も何度もハンカチで拭いながら、私たちは彼の、セントの幸せを願ったのだった。