ドアをノックされたので、誰かと思い開けてみれば、見知った人物がふたり部屋に入ってきた。
「アーサー! ハンス! 久しぶりだな」
まさか、ハンス本人が来てくれるとは思わず、胸が躍り、笑みがこぼれる。
「セント、ハンスとの再会を喜ぶより先に、私たちの話を聞いてほしい」
普段より一段と低い声は、部屋の空気を気まずくした。だが、そうアーサーが言うのだからよっぽどの理由があるのだろうと、とりあえず椅子に腰掛けることにした。
縫い付けたように閉まったアーサーの口が重々しく開かれる。
「ここにいるハンス・ローガン・エバンズはセントの知る人物とは違うんだ」
その言葉の意味がわからず、僕は唖然とした。質問したいという衝動を堪えて、とりあえずアーサーの話を全部聞こうと耳を傾ける。
話を聞けば、ハンス・ローガン・エバンズに憑依していた男がいて、その男の名を生鷹士郎というらしい。士郎は時間跳躍という超能力を操り、未来から来てすぐハンスの身体に憑依したそうだ。
来た理由は、ファンである僕に会い、歴史を変えることで、僕を生かし多くの作品を生み出してもらうことだった。彼のいた未来で僕は世界的に有名な画家として知られているようで、寿命は三十七歳でとっくに終わっていたらしい。
「そうなのか……」
「信じるのか……?」
「普通は信じられない話だろうが、アーサーと出会う前に彼と話したことがあってね。あの時は、彼のことをただの付き纏いだと思っていたが、そうか、それで僕のことを知り尽くしていたのか……」
あの時、彼に抱いていた小さな疑問が解消されてすっきりした。
「ところで、きみは僕を知っているのだろうか?」とハンスに視線を向けると、彼は首を縦に振った。
「はい、なんとなくではありますが、貴方と過ごした時間を覚えています。記憶の所々にもやがかかっていますが……」
「そうか……彼は、今もきみの中にいるのか?」
「恐らく"いない"と思います。貴方に最後の手紙を出してすぐ、身体から何かが抜けていく感覚とともに、"ありがとう。すまなかったね"という声が聞こえたんです。だから、彼は未来に戻ったんだと思います」
「もう、会えないのか……」
再会が叶わぬことを知り、悲しくて僕は目を伏せた。
「それは、どうだろうか?」
そう言った彼に、どういうことだと詰め寄ってみれば士郎はもともと、時間跳躍の能力は持っていなかったらしい。僕の絵を抱きしめ僕に会いたいと強く願って寝ていた夜に、女神様が夢に現れて、力を授けてくれたようだ。にわかに信じられない話だが、女神様の気まぐれで、その力を得たという。だが、時間跳躍を使うためには寿命を代償にしなければならないようだ。
「ならば、僕も士郎と同じことをすれば、彼にもう一度会えるかもしれないってことだな」
「寿命を削るんですよ? 未来へ行ってまた、ここに帰って来れるとは限らない」
「セント、貴方が士郎を大切に思うように、私たちだって貴方を大切に思っている。それを、どうか忘れないでほしい」
「そうです。確かに自分は憑依されていただけではありますが、貴方と過ごした時間はちゃんと覚えているんです」
心配そうにこちらの顔を覗き込む彼らの表情を見て、不謹慎にも僕は嬉しくなってしまった。こんなにも、僕のことを大切に思ってくれている。
「ありがとう。だが、僕の中で彼の存在はとても大きく、彼のことを僕は親友のように思っている。絵を描いていると彼の顔が思い出され、また彼と絵を描きたいと願うほどだ。士郎がいなければ僕はとっくに死んでいた存在。一度はテオのために捧げた人生を、今度は自分のために使いたいと思う」
その日の夜、僕は士郎がオーストリア東部のウィーンで描いていたときの絵を抱きしめ、眠った。
「ここは……」
先ほどまでベッドで眠っていたはずなのに、僕はいつのまにか士郎の絵を片手にひまわり畑に立っていた。
「こんにちは」
背後から声がしたので振り返ってみれば、光を纏う神々しい女性がそこにいた。
「驚かせてしまい、大変申し訳ございません。私は人々から神と呼ばれる存在でございます」
神と名乗る女性は恭しく僕に礼をした。
「貴方様が士郎に時間跳躍の力を授けた神様でしょうか?」
「いかにも」
「僕にもその力を授けて頂くことは出来ないでしょうか」
「代償は"寿命"ですよ? 力に寿命を奪われた結果、残りの寿命が一週間になってしまうこともあるのですよ。それに加え、過去から未来へ行く場合、膨大な量の力を消費するため、二度と過去へと戻って来ることはできません。それでも、力がほしいですか」
「はい、どうか僕に力をください。女神様」
一切の迷いはなく、深く腰を折り曲げて女神様に願った。
「良いでしょう」
腰を上げて女神様を見れば、優しく微笑んでくださった。
「貴方の覚悟と決断、しかと受け取りました。目覚めた時にはすでに力が宿っていることでしょう。心の準備ができ次第、強く願いなさい」
瞬間、真っ白で眩い光にあたり一帯が包まれ、僕は目をつぶった。再び目を開くと、いつもの天井がそこにあり、僕はベッドに横たわっていた。窓から外を覗いてみれば、まだ朝日が昇っているところで、僕は重い腰を上げて便箋を一枚用意し、アーサーとハンスへの手紙を書いた。
そして、僕は士郎の絵を抱きしめ、目をぎゅっとつぶって強く願った。
"僕は士郎に会いたい"と。
午前八時頃、セントを朝食にでも誘おうかとオーベルジュ・ラブーの三階を訪れた。しかし、いくらノックをしても返事がないので、外出中だろうかと思いながらドアノブをまわしてみれば、鍵がかかっていなかった。無用心だなと思いつつ部屋へと入ってみれば、やはり彼はいなかった。
テーブルの上に一枚の紙がぽつんと置かれており、気になって近づいて見てみれば、便箋だった。そのはじまりに"親愛なるアーサーとハンスへ"と書かれていたので、ハンスと一緒に読むことにした。
"親愛なるアーサーとハンスへ
この手紙を読んでいるということは、僕はもうここにはいないのだろう。別れの挨拶もなく、消えてしまったことを申し訳なく思う。昨夜、きみたちの言ったとおりにして眠ってみれば、夢に女神様がおいでくださった。そして、代償が寿命であること、未来へ行く場合には過去へは二度と戻ることはできないということを知った。しかし、僕には一切の迷いはない。僕のことで色々振り回してしまって、すまない。こんな僕のために必死になってくれて有難う。頼もしい友人を得たことを、心の底から嬉しく思う。さようなら。きみたちの幸せを心から願う。
フィンセント・ヴァン・ゴッホより"
「行ってしまわれたんですね……」
「あぁ……」
私たちは突然の別れに年甲斐もなく涙をぼろぼろと流してしまった。永遠の別れは悲しい。しかし、セントは死んでしまったわけではない。彼が未来で幸せになれるよう、止まらぬ涙を何度も何度もハンカチで拭いながら、私たちは彼の、セントの幸せを願ったのだった。
目をつぶってからしばらくして、僕の右耳に忙しなく鳴き続けるセミの声と、小鳥のさえずりが聞こえてきた。そっと瞼を持ち上げれば、目の前にあらわれたのは歴史を感じさせる大きな屋敷、ぐるりと踵を返してみれば屋敷は森の中にあるようで、深緑の木々に包まれていた。
僕は再び、視線を大きな屋敷へと移す。
「ここに……」
士郎がいるのだろうか?
表札を見てみれば、"生鷹"と書かれていた。どうやらここで合っているようだ。読めないはずの字がさらりと読めてしまったことに驚いたものの、士郎に会うことの方がより重要であったので、気にしないようにした。
拳をつくりドアを叩こうとしたその時、黄色いものが視界の端に入ってきた。それが気になって、誘われるように歩みを進めてゆけば、そこにはひまわり畑があった。
───なんて綺麗なんだろう………。
もっと近くで見たいとひまわり畑に近づく。
「セント?」
聞き慣れないしわがれた男の声が聞こえて、僕はそちらに顔を向けた。
「本当に、セントな、のかい?」
僕の名を呼びそこにいたのは、白髪混じりの小柄な老人だった。
「きみがハンスだった士郎なのか?」
「あぁ、セント!」
瞳を大きく見開き、きらきらと輝かせながらこちらへ走って来て、士郎は僕を強く抱きしめ背中に手をまわした。鼻を啜り肩を上下させ声を震わせる姿を見て、ようやく会うことができたのだと僕は実感しながら士郎を抱きしめ返すと、つられて僕も声を出して泣いてしまった。
こうして僕は、親友との再会を果たすことが出来たのだった。
僕と士郎は無事再会を果たした後、同居生活をはじめた。ふたりで紅茶を飲んだり、絵を描いたりと以前と変わらぬ日々を過ごしており、とても平和だ。
そんなある日のことだ。士郎が旅行に行こうと言い出した。行き先はフランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズ。
時代が随分と変わったので、どうなっているのか楽しみだ。
飛行機というものに乗って、オーヴェルへ向かうようだ。飛行機とは空を飛ぶ移動手段のようで、蒸気機関車よりも遥かに速いらしい。この見た目といえば、曲線が滑らかで非常に美しく、まるで白鳥のようだと感動し、少々はしゃいでしまい恥ずかしい思いをした。はじめ、飛行機が空を飛ぶ瞬間を楽しみにしていたのだが、飛行機が空を飛ぶ瞬間は身体が安定せず、なんとも言えない浮遊感に恐怖を感じた。帰りも乗るのかと思うとひやひやしてしまうが、とても良い経験になった。
飛行機が着地し外へと出るが、面影はあるが随分と変わっていて、見慣れないものが多い。士郎が携帯電話というものを使って地図を見ながら案内してくれるので、僕は黙って彼に着いていった。
「セント、これを読んでみてくれないか」
ふたつの石を指差して士郎が言うので、しゃがんで石に記された文字を言う通りに読んでみる。
「『テオドルス・ヴァン・ゴッホ』」
そして、もう一つは、
「『フィンセント・ヴァン・ゴッホ』⁉︎」
まさか、僕たちの墓か⁉︎
驚愕し、背後に立つ士郎を見上げれば意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「驚くのは、これを見てからにしてほしい」とそう言って、石の裏側の地面に近いところを士郎が指差したので、そこを読む。
「『J・A・H』? これがどうした?」
その意味がわからず、僕は首を捻る。
「頭文字だよ、友の名前を思い出してごらん」
頭文字? 自分と関係のある人物を思い出してみる。ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン、アーサー・コナン・ドイル、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ハンス・ローガン・エバンズ、エミール・ベルナール、カミーユ・ピサロ、ジャック……そうか。
「まさか。ジャック・アーサー・ハンスということか⁉︎」
にんまりとした顔で士郎は頷いた。
「それが悪戯で書かれたものなのか、彼らがわたし達にあてたメッセージなのかはわからないのだがね。でも」と士郎がフィンセント・ヴァン・ゴッホの墓石を撫でた。
「ここに眠っているのは、ジャックであることには違いないさ」
士郎との文通が途絶えてすぐ、僕は彼に会いに行ったつもりだったのだが、士郎によると、最後の手紙を出してから一年後に僕が来たようで、時間の誤差があったらしい。その一年の間に、士郎が一度ここに来たとき、たまたまこのメッセージを見つけたようだ。
弟テオについては、ユトレヒトの市営墓地に埋葬されていたが、墓地の契約期限が切れたため、その後、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルたちによって、オーヴェルのジャックが埋葬されている隣りへ改葬したのだという。
僕たちはその墓石に手を合わせた。
友と恩人、そして愛する弟へ感謝を込めて──。
絵の具を使わずともパソコンとペンタブレットというものを操ることで、絵が描けるということを知り、僕はイラストレーターとしてデビューしようと意気込んでいたのだが。
「士郎……これは、どのように操作するのだろうか」
「うむ……」
早々に挫折した。
絵を描くためには、沢山の線を繋がなくてはならないし、ソフト?とやらの設定をして、色を変更するときにはあちこちボタンを押してから絵を描かなくてはならない。元々、機械操作に疎く、更に僕からして未来の物で馴染みのないものだからさっぱりわからない。
士郎もはじめ、面白そうだと線を繋いだり設定をするのに奮闘していたのだが、彼も機械操作に疎いようで、結局、僕たちは諦めることになった。
どうやら僕たちは、筆から卒業することはできないようだ。だが、パソコンの画面は見ているとちかちかして目が疲れ、創作時間が短くなってしまうので、それでいいと思う。
士郎と同居して、二年が経過しようとしていた時、士郎の大きな屋敷の一室を保管庫として絵を入れていたのだが、そろそろ溢れてしまいそうになっていた。どうしたものか、保管していてもこれらをどうこうするつもりはないし、かといって捨てるのはもったいない。暫く、唸りながら考えているとあることを思いついたので、士郎に聞いてみることにした。
「いいんじゃないか? 出してみようか、コンクール」と、彼から許可をもらったので、コンクールに出してみることにした。
ある時、ジリリリリリ……と滅多に鳴ることのない士郎の携帯電話が音を出し、彼は電話に出て暫く話し込んでいた。会話を終えた彼は僕を見ると、勢いよく飛びつき抱きしめてきた。
「流石だな、セント。最優秀賞、おめでとう!」
「まさか、さっきの電話は、コンクールの⁉︎」
「あぁ! 授賞式は来週の水曜日で、テレビの撮影や記者がいるそうだ。名前の公表はふせてもいいし、匿名でもいいそうだけど、どうする」
「そうだな、名前か───」
────当日。
「最優秀賞、おめでとうございます! お名前を伺っても宜しいでしょうか?」と、記者の人が僕にマイクを向けてくる。
「僕は、ジャック・ローガン・ドイルと申します」
ジャック、ハンス・ローガン・エバンズ、アーサー・コナン・ドイルに感謝を──。
こうして、僕は未来で芸術家ジャック・ローガン・ドイルというペンネームで名を馳せることになるのだった。
一八五三年三月三〇日オランダ北ブラバント州フロート・ズンデルトで生まれ、一八九〇年七月二九日にフランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで三十七年という短い生涯を終えた、フィンセント・ヴァン・ゴッホ。
彼は、フランス共和国ヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズの麦畑で自身の左胸部を銃で撃ち拳銃自殺しただとか、左胸部を撃つのが困難であること、彼の手に火薬が付着していなかったことから他殺だったのではないかとも言われている。
しかし、事実は異なる。『ひまわり』や『夜のカフェテラス』など数々の名作を生み出した彼は、自殺でも他殺でもない。
彼は時間跳躍し、現代でもまた芸術家として生きているのだから。