おそらくトキワと刻間夫婦は、その壁を取り去ってしまったのだと幸哉は考えた。否、取り去ることに成功したのだろう。トキワに自信がないだけで、壁などなくとも問題ないのだから。


「知ってるか? 刻間の旦那さんもお前と同じ、旅行記を使ったことがあるんだ」

「旅行記?」


 幸哉は立ち上がって棚の中から一つの箱を取り出した。深い緑色の布で覆われたその箱には店のマークが金色の箔で押されていて、いかにも高級そうな代物だ。幸哉がその箱の蓋をを開けると、斗夢の手作りである懐中時計がシルクの布の上で心地良いリズムを刻んでいる。


 その時計はあの日、トキワが斗夢から貰った物。


「福沢時計店で扱っている、三つの奇跡の時計の内の一つ。自身の過去を見に行く力を秘め、一度だけ未来を変えるチャンスを与えてくれる、それが『旅行記』。刻間の旦那さんはああみえて、いいとこのお坊ちゃんでな。俺が六歳の頃に政略結婚をさせられそうになったんだ」


 今のトキワよりも小さい頃の幸哉の記憶。保っていられたのは今日この日、義理の息子である彼に聞かせるためだろうか。幼い自分が父親の隣で目にした思い出を、幸哉は頭の中から引っ張り出した。