彼の手の中にあるものは、ポケットには到底入れられない四角い板。学生が自費で買うには辛い、財布泣かせの高価な代物。
「タブレット端末?」
便器に座らず、彼は画面の上と睨めっこをしながらぶつぶつと小さく呟いている。全てを暗記しようとしている集中の塊だ。
タブレットのカバーを閉じて、火事場の底力の本番に立った彼は、カンニング端末をトイレの便器の裏側に立てかけて出て行った。不衛生な行為だが、持って行くわけにはいかないのだろう。教室に入った途端、テストの点数もろとも没収だ。
「スマホで見ればいいのに」
一日目に金属探知機は使われていない。
「勉強をタブレットでしていたなら、移すのは面倒だし容量の関係で難しかったんじゃないか?」
「誰かに取られるかもしれない危険を承知で、休み時間中に立てかけておく方が心意気的に難しいよ。スマホの容量が厳しいなら、何かのアプリを一時的にアンインストールしたら済むことじゃん」
取られてしまえば何万円の損失だ。そして勉強の苦労も。
「後先のことを考えずにその日の気まぐれで行動する。人間にはよくあることだ。まあ大丈夫だろう……そういう油断をしてな。そしてその油断に足下をすくわれる」
幸哉はトイレの外へ出た。時環もついて廊下に出る。その足は立ち止まった。
「ほら、一時の気まぐれで直ぐにやってきた」
教室の入り口で試験監督の教員と話をしていた教員が、こちらに向かってくる。自分は教室を離れられないから代わりを向かわせた。勘の鋭い試験監督だ。
「ただ本当にトイレに行きたいだけなんじゃ……」
もしくは行き先はトイレではなく、どこか別のところで階段に向かっているだけ。予想は空しくも外れてしまい、男の先生はトイレの空間に足を踏み入れた。それも先ほど男子生徒が入っていた個室に。鍵もかけずに。
「運の悪い生徒だ」
ストーカー行為をもう一度。一度行うと抵抗が軽減されるのか、自分のことのように緊張感を抱いた時環も顔を覗き込ませた。
男性教員は裏に隠されたタブレットの存在に気がつく。だがタブレットには当然鍵がかかっていて、中を見ることまでは叶わない。
「パスが分からないんじゃ、疑われはしても言い逃れが出来る――」
教員はタブレットの本体をケースから外した。本体の下、ケースの上にシールが貼られている。そのシールには四桁の数字。
「まさか……」
パスワードとは限らない。そう時環が希望の声をあげる前に、教員は入力してロックを解除した。希望は見事に打ち砕かれた。
「開いたみたいだな」
「アホだ」
タブレットを手に持った教員は静かに教室へと向かった。おそらくあのタブレットは試験監督員の元に寄贈され、男子生徒の点数は没収。放課後にでも怒られるのだろう。
時環はそう思ったが、テストを受けるだけ意味が無くなる分、男子生徒は即座に廊下の橋に呼び出され、怒声を浴びせられていた。
「カンニングした答えを暗記出来るなら、パスワードくらい覚えておけよ!」
彼らにこちらの姿は見えないが、教員の言葉に心の底から二人は共感した。
3
身体に光が纏い、視界の画面が一瞬の間に時計店へと変わった。立っていた身体はソファーの上に座っていて、急な変化に違和感が凄まじい。
「戻って……きた?」
「ああ、思っていたよりも早かった。旅行祈が帰還を判断したのか、旅行時間の限界か。後者だと問題だな。改良してまたチェックを――」
クスクスと、時環は笑いを堪えた。幸哉に対して笑ったのではない。金属探知機を導入するきっかけとなった光景を思い出し、呆れのあまり込み上がった。
「はー……あんなアホらしいことがきっかけだったなんてね。アイツのせいで見張りが強化されたんだと思うと腹が立ってくる」
「前々から用意していたって可能性は? そんな一日で取り寄せるなんて難しいだろ」
「ウチの学校ならそれくらい簡単にするよ。変なところでお金遣いが荒いんだ」
――校舎は公立高校並の設備なくせに。
「学年集会をして全員に説教に近い注意喚起をしなかっただけマシか。俺が知らないだけで、裏ではもっと面白い発見がありそう……ねえ幸哉さん」
幸哉はあからさまに嫌そうな目を向けた。不都合な予感を感じ取ったのだ。念のため聞こうと耳を貸したが、想像は的中し意味をなさなかった。
「次に旅行祈のテストをするとき、また俺の過去に行かせて?」
「断る」
アマチュア品とはいえやはり高価な物に変わりない。元より駄目元であったため仕方が無いと感じたが、幸哉の理由は他にあった。
「過去はあまり振り返るものじゃない。お前の過去を振り返るっていうのは、同時にお前の周囲にいた人の過去も振り返ることになる。実際に旅行祈は、お前自身が一人で他人の過去を見に行くことも出来るしな。これが他の二つにはない、旅行祈だけの特徴だ」
自分の過去にのみ干渉する旅行記と旅行機。干渉が出来ない、鑑賞専門の旅行祈は、自分だけでなく他人の過去ですら見に行くことが出来、見に行かずとも覗けてしまう。
今日、男子生徒の過去を覗いたように。
「お前だって思い出したくない過去や、知られたくない過去の一つや二つあるだろ」
見る気がなくとも見えてしまう。
そのため誰の、どういった過去を見るのか、他人の過去を見るとして相手に許可はとっているのか、事前に聞いた事柄と一つでもズレが生じると、他人に差し出した旅行祈は本来発動しない仕組みになっている。
幸哉は守秘義務を破り、他人である時環に第三者の過去を見せてしまった。それは到底許されることではなく、この先当たり前となってはならない。
「だから旅行祈は信頼出来ない人にはあまり勧めないし、使用用途次第では売ることも出来ない」
知られたくない過去。思い出したくない過去。
瞳の奥に隠された思い出の中に、幸哉もそのような過去を抱えているのか時環は気になった。
時環には知りたくても知らない、幸哉に聞くにも聞けていないことがある。
どうして幸哉は教師を目指すのを辞めたのか。
時環が中学のときに辞めた。気になるけど、詮索はしなかった。
幸哉の言った通り、時環にも人に知られたくない過去がある。幼い頃のあの過去は、友人達にはあまり知られたくない。
小学生。少年は少年に助けられた。
中学生。少年は青年に助けられた。少年はその事実を知らない。
高校生。少年は青年のことを、よく知らない。
大学生。少年は青年のことを知る。少年は青年を――助けたい。
1
シンプルにオーブンで焼いただけのトーストと、簡単な目玉焼きとハムにサラダ。福沢時計店でレギュラー化されている最も安価な朝食メニューだ。
刻間夫婦は毎日の食事を外食で済ませるなんてことはしないが、その日は例外で、時環は一人で朝食をとらなくてはならなかった。限られた日にしか開店されない、非常に人気な隣町のパン屋に夫婦は揃って朝早くから向かったのだ。種類によっては一人一個までしか買えず、時環にも付いてきて欲しいというのが二人の本音であったが、学校がある以上それは出来ない。
パンの戦場に向かった二人の話を聞いた幸哉は、自分も行きたかったと心の中で羨んだ。
「ごちそうさまでした。お勘定お願い!」
冷水まで残さず飲み終えた時環は少しばかり焦った様子を見せた。余裕をもって家を出たつもりでも、想像と現実はいつだって簡単に反比例する。
「モーニング一点で五百五十円。間に合うか?」
「時計持ってきたんだけど、壊れてさ」
即座に時間を教えてくれるのはスマートフォンだ。電源ボタンを一度押すと、パスを入力せずとも画面上に大きく時間を映してくれる。正確な時間表示はありがたいものだが、希望を持たせず現実を突きつける正確さは、時と場合によれば残酷だ。
「ギリギリ大丈夫」
「馬鹿。スマホじゃテスト中に時間が見れないだろ。顔を上げて時計を見るの、未だに苦手なくせに」
「流石に慣れたよ。レシートはいらない」
貰って家で捨てることを忘れると、財布の中に直ぐに溜まる。それだけ買い物をしているということだ。
「ん」
「だからいらない――」
「違くて弁当! どうせ今日もコンビニ飯なんだろ? たまにはまともな物を食え」
時環は昼食代を貰っているが、学食の列に並ぶのが面倒でコンビニで済ませることが多いと前に話していた。テスト日の今日は確実にコンビニだろう。
ありがたくも押しつけられたそれはいつ作ったのか。時環が朝食に手をつけている短い時間だ。目の前で繰り広げられた調理風景がいつもの新メニューの考案だと思っていた時環は、あれが自分のためのものだったとは考えもしなかった。
驚きで見開かれた目で、腕の中に収まる昼食を見つめる。
「幸哉さんさ、過剰なサービスで店を潰しちゃ駄目だよ?」
「返してくれてもいいんだぞ?」
「うそうそ! ありがたく頂きます。洗ってから返します。じゃあ!」
「時環!」
半ば逃げるように店から出た時環を、幸哉は追いかけて呼び止めた。
振り返った途端、小さな固形の物が弧を描いて投げられる。時環は見事に片手でそれをキャッチした。
顔に当たっていれば良い目覚ましになる痛さであっただろう重さのそれは、手に収まる大きさの冷たい金属。働く針の振動と音が、手の平と耳に伝わってくる。
「時計?」
歯車のチャームが揺れている二つ折りの懐中時計。新品ではないだろう、使用感が感じられるこれはおそらく幸哉のお手製で、普段使いをしているものだ。
「持って行け。売り物じゃないから、それは絶対に返しに来い!」
お弁当箱はどちらでもいい。
知り合いの青年は何年経っても過保護だ。親よりも過保護ではないか。そんな彼が時環は嫌いじゃない。
幸哉の厚意を受け取って、無くさないようにポケットの中にあるハンカチよりもさらに深く底に時計を仕舞った。ポケットに穴が開いていないか、開きそうでないか、指で確認もする。
「了解。ありがとう!」
遠ざかっていく背中を見送りながら、幸哉はため息を吐いた。
「ったく、朝っぱらから忙しないやつだ」
電車にお弁当を忘れないか、寝過ごして学校に遅れないか、心配が絶えない。背中が完全に見えなくなるまで幸哉は時環から目を離せずにいた。
「そういうお前は、朝から元気なやつだ」
「父さん」
幸哉が店の中に戻ろうとすると、いつの間にか降りてきていた斗夢が寝起きの声を発した。幸哉が時環に時計を投げた当たりから彼は見守っていた。
「珍しいな、昼夜逆転生活がデフォルトの根っからの夜型のくせに、朝に起きてくるなんて」
「年を感じるねえ」
「そう言いながら二度寝をするくせに」
コーヒーを飲もうと昼間は常に眠い。それが夜型の習性だ。
「少しくらい何か食ってから寝ろよ。いや、食べて直ぐに寝るのは駄目だけど……。一日二食は健康に悪い。サンドイッチでいい?」
言いながら、相手の返答を聞くまでもなくパンを手に取った。帰ってきたのはイエスでもノーでも具材の種類でもない。
「なんで、こんな古い時計を出しているんだ?」
「え?」
カウンターの上に置いている、一つの時計に対して。
調理の際にうっかり落ちてしまわないよう、幸哉にはポケットに入れている時計をカウンターの上に置く習慣がある。それは斗夢も知っていることで疑問に思うことはない。つまりは時計の種類の問題だ。
幸哉は今日も置いた記憶はあるが、斗夢の言う古い時計ではないため疑問に思った。目を向けてみると、その場にはない筈の時計がそこにある。その場にある筈の、自分の時計がそこに無い。
「やっべ、間違えた。アイツが時計を忘れたってぼやいていたから、貸そうとと思って上から持ってきたんだよ」
「じゃあ、時環君に渡したのは」
「ああ」
斗夢は特に気にしていないようだが、幸哉は違った。顔を顰め、手を額に持っていき、心の底から少し前の自分の行動を後悔した。
「……とんでもないミスをしたかも」
過去を思い返す。
確率はゼロではないどころか、かなり高い。
どうか我が子の時計達が、時環の願いに応えないことを――願う他ない。
2
一日の科目が全て終わると、想像以上の疲労と出来の悪さに気分は急降下する。そんな時環の心情を知る由もないクラスメイトは、内心で黒い感情を渦巻かせる時環に気付くことなく声をかけた。
「合コン?」
「頼むっ、人数合わせでもいいからさー」
テストの問題は思いの他見覚えのある問いが多く、もう少し真面目に勉強していれば余裕で点数は取れただろう。痛感して後悔に居たたまれる。
後日に行われる残りの科目のことではなく、それらが全て終わった後の予定を決められるクラスメイトとは違って、頭の中に浮かぶのは再試にかかるかどうかの不安だった。
「悪いけど、そういうの興味ないから。他当たってくれる?」
「待て。マジな話、お前が来てくれないと夏目さんも来ないかもしれないんだ。友人の助けになると思って!」
「夏目さん?」
「夏目絵茉だよ、知らねーのかよ!? 出席番号が前後で、授業のグループだって毎回一緒になってんだろお前! 班のメンバーの名前くらい覚えろよ!」
「そういえば……聞いたことあるような、見たことあるようなないような」
番号が前後ということは、今日のテストでも時環の後ろの席にいた彼女。必須の科目であるため未履修の生徒はいない。もしも彼女に双子の姉妹がいたとしても、漫画のように入れ替わりのお遊びをしていないのであれば間違いなく彼女自身の筈だ。