ヴィルフリートに連れられて、梨里は広間を出て長い廊下を歩き、大きな門から外に出た。石造りの重厚な門の外は石が敷き詰められた通りになっている。振り返ると、おとぎ話に出てきそうな白亜の城がそびえ立っていた。
(すごい……大きなお城)
 あの失礼な第一王子の顔が蘇り、梨里は首を左右に振った。
 ヴィルフリートがさっと右手を挙げ、二人の前に馬車が横付けられる。二頭の茶色い馬が引く、四輪の箱馬車だ。
「えっ、馬車!?」
 この世界の雰囲気から自動車があるとは思えなかったが……移動手段が馬車とは。驚く梨里にヴィルフリートが問いかける。
「馬車が珍しいわけでもないだろう?」
「いや、珍しいです。っていうか、乗ったことありません」
「それは……珍しいな」
「私が元いた世界では、馬車は観光地とかでしか乗れませんでした」
「なるほど」
 そのとき、馬車の後ろの従者用立ち台から一人の若い男性が降りて、扉を開けた。
「どうぞ」
 ヴィルフリートは梨里の手を取って、馬車に乗るよう促した。
「あ、ありがとうございます」
 梨里は先に馬車に乗り込んだ。続いてヴィルフリートが乗り込み、隣に座る。
「この世界はリリーがいた世界とはずいぶん違うようだな」
 ヴィルフリートの言葉を聞いて、梨里は首を傾げて彼を見た。
「リリー?」
「そなたの名前だ。リリーではなかったか?」
 いきなり呼び捨てで、しかも名前を間違われて、梨里は苦笑する。
「最後の音は伸ばしません。梨里です」
「リィリィ……リーリィ……」
 ヴィルフリートはつぶやいてわずかに顔をしかめた。どうやら梨里の名前は発音しにくいらしい。
 梨里は大きく息を吸って言葉を紡ぐ。
「リリーでいいです。私、この新しい世界でどうにかやっていくしかないみたいだし、この世界に合わせます」
 ヴィルフリートはしばらく梨里をじっと見つめていたが、やがて優しげに目元を緩めた。
「そなたは逞しいな。では、リリーと呼ぶことにしよう。私のことはヴィルと呼んで構わない」
「ヴィルですか?」
「ヴィルフリートの愛称だ」
「それは助かります。名字は……何でしたっけ? クウェート……クヴェードリンク?」
「クヴェードリンブルクだ。そなたには確かに馴染みの薄そうなファミリーネームではあるな」
 ヴィルは笑ったが、梨里は顔をしかめる。
「この世界の人たちは、みんなそんな長いややこしい名前や名字をしてるんですか?」
「いや。名字があるのは爵位を持つ者だけだ。平民には名字はない」
「あー……じゃあ、私みたいな貧相な小娘に名字があったら、逆におかしいんですね」
「貧相な小娘?」
 ヴィルは眉を寄せて梨里を見た。考えるような視線を向けられ、梨里は頬が熱くなるのを感じた。
「さっき、第一王子に……アルフレッド王子に言われたんですっ」
 ヴィルは苦笑を浮かべた。
「王子は……何というか……そうだな、グラマラスな女性がお好きのようだから」
「それで私には見向きもしなかったんですね。でも、別にあんな失礼な人に好かれたくはありませんけどっ。っていうか側室とかありえないし!」
 梨里は頬を膨らませて窓の外を見た。窓にはガラスがはめ込まれていて、この世界にガラスはあるのだとわかる。
「確かに失礼だな。リリーの髪はとてもまっすぐで艶やかだ。こんなに美しい黒髪は見たことがない」
 ヴィルは梨里のロングヘアに触れて、毛先までスッと撫で下ろした。梨里はドキッとして彼を見る。
「ベ、ベーカリーで働いてたときは、髪を染めるのは禁止だったんです。どうせキャップを被るので、厨房の外からお客様に見えることはなかったんですけど……店長が厳しい人で……」
「梨里は染めたかったのか? こんなに美しい髪なのに、染める必要などないと思うが」
 ヴィルが梨里の毛先に軽く口づけたので、梨里は目を見開いた。
「ヴィ、ヴィル!?」
「ん? 美しいものにはつい口づけたくなるだろう?」
 ヴィルに不思議そうにされて、梨里はさらに目を大きく開く。
「いや、なりません!」
 そう答えてから、ふと考える。
(かわいい小動物を見たらチューしたくなることは……あるけど。そういう感覚なのかな?)
 自分は小動物扱いなのかと梨里は肩を落とした。
「あそこに見える大きな川がバイロリー川だ。王都ノルトラインのみならず、バンベルク王国全体の水源となっている。ノルトラインはこのバイロリー川の中流に沿って築かれている」
 ヴィルが左側の窓の外を指差しながら言った。バイロリー川は川幅が広く、流れはゆったりとしている。
「この辺りがノルトラインで一番賑やかな地域だ」
 ヴィルが右側の町並みを手で示しながら言った。そちらには石造りの二階建ての家がいくつも並んでいる。
「バンベルクには騎士団が三つある。第一騎士団は主に王族や王城の警護・警備が任務だ。第二騎士団は祖父が言っていた通り、街の治安維持が主な任務だ。ほかに第三騎士団というのがあって、国境地帯の警備に従事している。人数も一番多い」
 そのほか、ヴィルは王国の仕組みを簡単に説明してくれた。彼の話を総合すると、バンベルク王国は中世の王政国家のようなものらしい。
「南市場の近くに空き家があるから、そこで暮らすといい」
「空き家……でも、持ち主さんの許可がいりますよね?」
「持ち主は……いない。私の妹夫婦の家だったんだ」
 ヴィルの声が寂しそうになり、梨里は首を傾げた。
「今は引っ越されたんですか?」
「いや……。妹の夫は第三騎士団の騎士で、半年前、スパイを捕えようとして命を落とした。おそらく隣国ウンナのスパイだったと思うが、証拠はない。遺体は騎士団の馬車で運ばれることになっていたから、家で待っていればよかったものを……妹は夫の遺体を引き取りに国境地帯に向かった。途中、ヘルフォルトの森の近くで盗賊に襲われて殺されたんだ」
 ヴィルが沈んだ声で言った。梨里は両親のことを思い出して、目に涙が盛り上がった。かける言葉が見つからず、ヴィルが膝の上に置いていた左手に、そっと自分の右手を重ねる。
 ヴィルはハッとしたように顔を上げ、梨里の目にたまった涙を見て笑みを作った。
「すまない。リリーに家族のことを思い出させてしまったか? 残された私たちは、彼らのことを忘れず、一生懸命生きるしかないのにな」
 ヴィルは「ありがとう」と言って、右手で梨里の手をポンポンと撫でた。
「さて、そろそろ南市場が見えてきた」
 ヴィルの言葉通り、周囲には人が増えて、物を売る賑やかな声が聞こえてくる。馬車は人混みの中をゆっくり抜けて、白い石造りの家々が並ぶ通りに入り、その外れにある二階建ての家の前で停まった。
「ここだ」
 外から扉が開けられ、ヴィルは先に降りて梨里に手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
 男性に――それも美しいイケメンに――エスコートされるという慣れない事態に戸惑いながらも、梨里は彼の手を取って馬車から降りた。
「わぁ……かわいいお家」
 その家は出窓に小花柄のカーテンが飾られた白壁のかわいらしい建物だった。ただ、出窓の植木鉢には何かの植物が茶色く干からびていて、この家には誰も手入れをする人がいないのだとわかる。
「本当に……私がここに住んでいいんですか?」
 梨里は遠慮がちにヴィルを見た。彼は寂しげに微笑んで頷く。
「ああ。住む者がいなければ、家は朽ちていくだけだ」
「ありがとうございます。大切に住まわせていただきます」
 梨里はペコリとお辞儀をした。従者が細長い金色の鍵を恭しく持ってヴィルに差し出す。彼はそれを受け取って、梨里に渡した。
「これが家の鍵だ。私は少し買い物をしてくるから、先に入って中を見ているといい。人を雇って週に一度は部屋を掃除してもらっていたが……どうなっているか」
「ありがとうございます」
 梨里はヴィルを見送り、木の扉の鍵穴にそっと鍵を差し込んだ。回すとカチリと音がして鍵が開く。扉をそっと押して開けると、そこは小さな店のような造りになっていた。ショーケースのような棚があり、何か小物のような物が置かれている。そっと取り上げて見ると、それはリボンや宝石をあしらった髪飾りだった。
(ヴィルの妹さんは……ヘアアクセサリー屋さんだったのかな……)
 部屋の中を見回すと、隅に木製の看板が立てかけられていた。そこには〝髪飾り~エミリアの店〟と書かれている。
 エミリアはヴィルの妹の名前だろう。
 梨里はエミリアとその夫のために黙祷を捧げた。それから一階を見て回る。一階の奥はダイニングキッチンになっていて、その隣はバスルームのように見えた。一メートル四方の石造りの床があって、頭上にシャワーのようなものがついている。
 梨里は試しにパイプの途中にあるレバーを持ち上げた。ゴボゴボと変な音がして、赤っぽい水が噴き出した。少しして透き通った水に変わる。
(よかった、使える)
 その隣の小部屋はトイレになっていた。地球の中世ヨーロッパでは、まだこのようなものはなかったが、ここの水道事情は当時の地球よりも進んでいるらしい。
 店舗スペースの右手にある木の階段を上がると、二階には部屋が二つあった。 一つは夫婦の寝室だったのだろう。大きなベッドがあって、もう一つは壁際に本棚があるだけだった。もしかしたら……二人は将来、子ども部屋にと考えていたのかもしれない。
 梨里は悲しく寂しい気持ちになりながら、一階に下りた。ちょうど玄関扉が開いて、布袋を抱えたヴィルが入ってくる。
「当面の食料を調達してきた」
 ヴィルはショーケースの横を通り、ダイニングキッチンのテーブルに袋を置いた。
「リリーの口に合えばいいのだが」
 そう言ってテーブルにチーズの塊、レタスとトマト、ナスなどの野菜のほかに、洋ナシ、ブドウ、ブルーベリー、リンゴ、オレンジといったたくさんの果物を並べた。そのどれも、梨里に馴染みのある形をしている。
「それから、この包みはハムとパンだ」
 ヴィルが茶色い包みを二つ、テーブルに置いた。
「パン!」
 目を輝かせる梨里の前で、ヴィルは包みを開いた。一つの包みには分厚くスライスされたハムが、もう一つの包みにはチャパティのような平たいものが何枚も入っている。
「これってパンなんですか? チャパティとかピタパンっぽく見えますけど」
「ん? リリーの元いた世界のものとは違うのか?」
「違いますねぇ。こういうのもありましたけど、名前が違いました」
「バンベルクでは……というより大陸ではパンと言えばこれだな。もう少し分厚くしたのもあるが、私は硬くてあまり好きではない」
 梨里は「ふーん」と声を出した。どうやらパンに関してはそれほど進んでいないらしい。そう思ったとき、梨里のお腹が小さく音を立てた。
「あっ」
 梨里は恥ずかしくなって顔を赤らめた。ヴィルは小さく微笑み、キッチンの棚に向かった。
「そろそろ昼食の時間だ。私のことは気にせず食べるといい」
 ヴィルは棚から白い皿とフォークとナイフを取り出し、キッチンの水で洗った。それを拭いてテーブルに置く。
「ヴィルは?」
「私は城に戻る」
「お昼は食べないんですか?」
「そうだな。あまり時間がない」
 それは私を送ったせいだろうか、と思いながら、梨里はレタスを手早く洗い、チーズを薄く切った。それらをハムと一緒にパンに乗せてくるりと巻いた。
「よかったら、これを持っていってください」
「これは……斬新な食べ方だな」
 ヴィルの反応を見て、梨里は目を丸くする。
「え? これってこうやって食べるんじゃないんですか?」
「パンはちぎって食べるものだぞ」
「いや、まあ、そうですけど」
 どうやらサンドして食べるという食文化はないらしい。梨里はロールサンドを紙で包んで差し出した。
「とにかく、昼食抜きじゃ力が出ませんから。どうぞ食べてください」
「わかった。ありがとう」
 ヴィルはロールサンドを受け取ってから、梨里の目を覗き込んだ。
「突然、知らない世界で暮らしていかねばならなくなり、慣れないことがたくさんあるだろう。困ったことがあったら、いつでも私を呼んでくれ」
「呼ぶ?」
「思念を送れば届くはずだ」
「思念……?」
 それはベルントも言っていたが、そもそも普通の地球人の梨里にはどうやって思念を送ればいいのかわからない。
「心で強く念じれば届くんだが……そうか、リリーには魔導師の血が流れていないんだったな。だったら、少し遠いが、辻馬車を雇って王城に来るといい。私は王城内の騎士舎にいる。門番に伝えて、梨里がいつでも中に入れるように手配しておこう」
「それは心強いです」
「この家にある物は何でも自由に使ってくれて構わない。必要なものがあれば、これで買うといい」
 ヴィルはテーブルの上に金貨を数枚置いた。
「何から何まで……本当にありがとうございます」
「では、また」
 ヴィルは梨里の頭を軽くポンポンと撫でて身を翻した。梨里は彼の背中を頼もしい思いで見送る。
 彼のおかげで住むところが見つかった。あの無責任王子は梨里が路頭に迷って野垂れ死のうが、気にもかけなかったかもしれない。
 梨里は悔しい思いで歯ぎしりをしたが、ふぅと息を吐き出した。
「お腹が空いてるとマイナス思考になるよね。せっかくヴィルが買ってきてくれたんだし、ランチにしよう」
 梨里はハムとレタスを皿に盛った。ヴィルが言っていた通り、パンをちぎって口に入れる。チャパティは普通、全粒粉で作られるので、全粒粉の味がするかと思ったが、バンベルクのパンは小麦粉とほんのり塩の味がする。
「材料は違うけど、作り方はチャパティと一緒なのかも」
 結局、梨里は薄いパンにハムとレタスを巻いて食べた。それからどの果物を食べようかと思案して、その量の多さに「うーん」とうなる。
(どれも完熟してるし……このままだと腐っちゃうよね……)
 そう思って、ふといい考えが頭に浮かんだ。
(そうだ!)
 梨里はキッチンの棚を探して、ガラス瓶がいくつもあるのを見つけた。それを丁寧に洗い、鍋に湯を沸かして煮沸消毒する。瓶が冷えて乾いたら、洋ナシとリンゴとオレンジはカットして皮ごと、ブドウとブルーベリーはそのまま入れて、水を加えて蓋をした。
(これで天然酵母を起こせば、ふんわりした風味豊かなパンが焼ける!)
 梨里は楽しみになりつつ、瓶を棚の涼しい場所に並べた。