「あの。そろそろ下ろして貰ってもよろしいですか?」

 強張った声でそう言うと、ルーファス様は逡巡した後、ゆっくりと私を噴水の近くのカウチに下ろす。
 そして隣には座らず、なぜか私の目の前で跪いて両手を握った。

「あ、あの……」

 今まで、こんな風に扱われた記憶がない。
 記憶の中の彼は、私に常に不愛想で興味がなかった。なのに、どうしたのだろうか?

「どこまで話を聞いた?」

 戸惑っている私に、緊張したようにルーファス様が口を開いた。

「竜国とトーヤ。それにセラティア様が仕組んだと聞きました」

「……こんなことになるなら、王女ではなく君の手を掴むべきだった」

 思わず息を呑む。
 それは一番私が聞きたかった言葉。でも、もう遅い。

「ルーファス様。もう過去のことです。あなたに私への愛情はなかった。だから……もう良いのです」

「確かに俺が悪い。婚約者である君をないがしろにした……。それに、こんな……怪我をすることもなかったのに。本当にすまない」

 何度も謝るルーファス様に苦笑する。

「ルーファス様。私は竜国に来て息が出来るようになりました。……私には秘密がありました。そのせいで家族との関係も微妙でしたから。だから、あれで良かったのです」

 竜人は時に残酷だが、時に慈悲深い。
 簡単に裏切る人間とは違い、私の中でトーヤと師匠は信頼出来る人物だ。たとえ、この怪我が二人の責任だとしても。

「ファシーユ。秘密のことは聞いた……。君の兄上から。未来が見えると……」

 握られている手に力が籠る。
 どちらの兄が話したのかわからないが、私がいなくなってから秘密を聞いたと言う。

 ――後悔している。

 私がいなくなった後、兄達も必死で探していたとルーファス様は教えてくれた。

「それを聞いた時、辻褄が合った。危険な時には常に君が傍にいたから。守ってくれていたのに。……すまない。なのに、君を守れなかった」

「いいえ。自分で決めたことです。後悔はありません」

「ファシーユ。一緒にアリーシェに帰ろう? 必ず幸せにするから」

 最初、何を言われているのか分からなかった。
 だが、ルーファス様の瞳が不安で揺れている様を見ると、現実が戻ってくる。
 そして、それは出来ないと首を振った。

「……ごめんなさい。私にあの国で生きるのは無理です。嫌な思い出も多くて生きづらいから」

 いくら兄達が後悔していると言っても、人間の心はそう簡単には変わらない。また、あの気まずい空気の中過ごしたくなかった。
 そして、あんなに好きだったルーファス様に、ここまで言って貰えたのに心が動かない。今もとても好きなのに、どうしても頷くことが出来ない。

「……ファシーユ。でも、俺は君を諦められない。君が傍にいて欲しい」
「ごめんなさい。私はこの国にいます。……ルーファス様には、もっと相応しい方がいらっしゃいます。だから、私のことは忘れて下さい」

 自分で、自分の言葉で伝えたのに、心の奥に痛みが走る。
 でも、それに気が付かないふりをした。

「……わかった。明日、帰るよ。寒くなってきから戻ろうか」

 長い沈黙のあと、くしゃりと泣きそうな顔で笑ったルーファス様に、胸が締め付けられた。
 そして、来た時と同じように抱き上げられる。
 そんな彼の首に抱き付いた。これが最後だからと。

「……ルーファス様。夢を奪ってごめんなさい。夢見で見たの。騎士として私と一緒にいると死んでしまうから。私と一緒にいなければ大丈夫だから。……遠回りさせてしまって、文官の道を選択させてごめんなさい」

 あの時、未来を見てしまったせいで彼の夢を奪った。
 それだけは謝らなければならない。

「ファシーユ。君は誤解しているよ。俺は最初から文官を目指していた。昔読んでいた本を覚えてる? 緑色の表紙の魔術師の話だ」

「えっ?……」

 顔を上げてルーファス様を見る。

「ええ。確か幼馴染の魔術師と文官が国を救う話」

 それは昔からアリーシェに伝わっている本で、誰もが読んだことのある有名な冒険記。
 国が魔族に襲われた時、勇者が現れなくて危機的状況に陥っていた。自分の国を守るために立ち上がった二人がいた。

 魔術師は力で戦い、文官は知力で支え続ける。
 しっかり者の女性魔術師と、ちょっと頼りない男性文官の恋物語りも魅力の一つだった。
 私はそのお話が大好きで、当時は文官を本気で好きになった覚えがある。

「覚えてないかな。『そんなにその本が好きなの?』って俺が聞いたら、ファシーユは『物語も好きだけど文官に恋したの』って……その時、文官になろうって決めた」

「えっ……。全く覚えていないわ」

 まさかの真実に開いた口が塞がらない。

「それに騎士の家系だけど、母方の家系は全員文官だよ。俺は頭を使っていた方が楽しいから気にしなくて良い」

「本当に?」

「ああ」

 私に気を使っているのではと心配したが、ルーファス様は晴々とした顔をしている。
 その空気が心地よかった。
 手放したのに、拒絶したはずなのに、揺らいでしまいそうになる。

「……ここで大丈夫」

「中まで一緒に行こう?」

「……大丈夫よ」

 裏庭へ通じる回廊で下ろして貰った。
 離れるのが少し名残惜しい。これが最後だとわかったから。
 彼との未来を諦めた私と、もう会うことはない。

「ルーファス様のご活躍をお祈りしております」

 心からの祝福をおくる。

「……ファシーユも元気で」

 目礼すると、背を向けて歩き出す。彼もまた反対側へと歩き出した。未練がましく振り返ることはしなかった。


 回廊の角を曲がると、なぜかそこに師匠がいた。

「不憫な子ね。一緒に行っても良かったのに」

「嘘です。師匠もトーヤも私を傍に置きたいでしょう?」

「あら、ファシーに傍にいて欲しいのはトーヤよ。私は見守っているだけ」

 師匠がまるで男性のように私に手を差し出し、体を支えてくれる。
 どうやら自分で思っていたよりも緊張していたらしい。力が抜ける。
 私の変化に気が付いたのか、師匠が心配そうに私を見るが何も言われなかった。

「どう言う意味ですか?」

「その内わかるわ。トーヤの番が死ぬ間際に、遺言めいた予言をしていったの。あの子はそれを待っている」

 さらにわからなくなった。
 師匠に理由を聞いても一切教えてくれない。

「明日、彼を見送らないの?」

「……見送りません。いい女は引き際が肝心です」

 そう胸を張って言うと、師匠が声を上げて笑った。

「ええ、そうね。ファシーは素敵な女性になったわ。不貞腐れたり、泣いてばかりいる子供は卒業したものね。そうそう、私はしばらく留守にするからお願いね?」

 いつも唐突にいなくなる師匠の奇行には慣れっこだ。
 いつもは目的地を言わない師匠だが、一応聞いてみる。

「どこへ行かれるのですか?」

「海の薬草を取りに南の国へ。ファシー、足は絶対に治すから期待していて」

 満面の笑みを浮かべる師匠は、どこまでも自由な人だ。どうやら、身体を治す約束を守ってくれるらしい。

 私が王宮で借りている部屋の前まで行くと、師匠が身を翻して去って行った。

 どうしてあそこに師匠がいたのか不明だったが、少し心が温かくなる。私を慰めるために待っていてくれたのかも知れない。



「……ルーファス様が幸せでありますように」